日蓮大聖人御書拝読と御法話

平成21年5月9・10日 御報恩御講拝読御書

日妙聖人御書

日妙聖人御書 (平成新編御書六〇六頁)
文永九年五月二五日  五一歳

日妙聖人御書 (御書六〇六頁)

然るに玄奘は西天に法を求めて十七年、十万里にいたれり。伝教御入唐但二年なり、波濤三千里をへだてたり。此等は男子なり、上古なり、賢人なり、聖人なり。いまだきかず女人の仏法をもとめて千里の路をわけし事を


 当抄は鎌倉に在住していた女性信徒が、幼い子供を背にして遙々と佐渡の大聖人様のもとを訪れたことを御嘉尚遊ばされた御文です。この御書が認められたのは文永九年(一二七二年)五月二十五日で、このとき日蓮大聖人様は佐渡の一谷(いちのさわ)にお住まいでした。現在御真蹟は五ケ所に分散して伝えられております。

 御書を頂いた日妙聖人には、乙(おと)御前(ごぜん)という子供がおりました。また夫とは離別していたことが御書から明らかです。このような境界の中で日蓮大聖人様の信仰を純粋に貫いておりました。

 当時の門下は、大聖人様が佐渡に御流罪になったことで退転するものが少なくありませんでした。しかし、日妙尼は違いました。反対に信心を強くして、幼い乙御前を背に、山を越え海を渡り、遙々と佐渡の大聖人様のもとに足を運びました。

 そのような純真で強い信仰に対して大聖人様は当抄の最後の部分において、
@ 「日本第一の法華経の行者の女人なり。故に名を一つつけたてまつりて不軽菩薩の義になぞらえん。日妙聖人等云云」(御書 六〇七頁)
仰せです。日妙聖人の尊い信心に対して、日号と聖人号を御下附下さり、最高の賞賛をされているのです。
「不軽菩薩の義になぞらえん。日妙聖人等云々」
とは、法華経常不軽菩薩品第二十二説かれていることで、不軽菩薩と呼ばれるようになった理由が「我敢えて汝等を軽しめず」との但行礼拝の修行に由来したことが明かされており、この不軽菩薩の例にならっていま貴女を「日妙聖人」とお呼びします、ということです。

 「日妙聖人」との称号(法名・戒名)は当時の弟子檀那の中にあっても特別のことであり、それだけ日妙聖人の信仰が勝れていたことが分かります。また、文永十年十一月の『乙御前御返事』には、
A 「なによりも女房の身としてこれまで来たりて候ひし事。(乃至)道の遠きに心ざしのあらわるゝにや」(御書 六八九頁)
とあります。この御文からすれば、第一回の佐渡訪問が文永九年の五月、そして第二回目が翌年の十一月、ということにもなるのではないかと思います。もちろん、当時の交通状況や日妙聖人の立場からして、二度、それも続けて佐渡まで身を運ぶことは至難であったと思われますが、日妙聖人ならそれもありうる、と思うのです。

 さらに、当抄の三年後の建治元年(一二七五年)八月の『乙御前御消息』には、
B 「御勘気(ごかんき)をかほりて佐渡の島まで流されしかば、問ひ訪(とぶら)ふ人もなかりしに、女人の御身としてかたがた御志ありし上、我と来たり給ひし事うつゝ(現)ならざる不思議なり。其の上いま(今)のまう(詣)で又申すばかりなし」(御書 八九六頁)
とありますように、佐渡から身延に入られた大聖人様のもとにも登山参詣をされたことが明らかです。

 このように、日妙聖人は私たちに、日蓮大聖人様がどこにおわしましても、いついかなる時であっても、自己の心を中心とした信仰ではなく、日蓮大聖人様を根本にした信仰が大切であることを実践を通して教えてくれます。

 そのようなご信心でありますから、
C 「いかなる事も出来候はゞ是へ御わたりあるべし、見奉らん。山中にて共にうえ死にし候はん」(御書 八九九頁)
と仰せ下さるのです。日本国中が戦場となって逃げ場がなくなったならば、ここには食料も充分ありませんから飢え死にすることになるでしょう。それでも日蓮のいるところに来なさい、と励ましのお言葉をいただけるのです。御本仏のおわしますところですから、これ以上の所はありません。そこに住するならば、心配することはないのです。有り難いお言葉です。

 さて、拝読の御文を現代語にいたしますと、次のようになります。
玄奘は中国の唐の時代の僧侶で、時間にして十七年間、距離にして十万里もの長い間インド各地を巡って経典を収集してそれを中国に伝えました。孫悟空で有名な西遊記のモデルといわれております。また、日本の伝教大師は法を求めるために唐に渡りました。それは二年の歳月を費やし、三千里の波濤を越える命懸けでの修行でした。しかし、彼らは男性です。しかも昔の人です。さらに賢人であり聖人です。ところが、貴女は女性の身でありその女性が仏法を求めて鎌倉から佐渡の島まで千里の道をかき分けてここまで来られたことは、前代未聞のことです。
と日蓮大聖人様が日妙聖人親子の修行を讃歎されたお言葉となるのです。

日妙聖人の鎌倉から佐渡への旅は当抄の最後に次のようにあります。
D 「相州鎌倉より北国佐渡国、其の中間一千余里に及べり。山海はるかにへだて、山は峨々海は濤々、風雨時にしたがふ事なし。山賊海賊充満せり。すくすくとまりとまり民の心虎のごとし犬のごとし。現身に三悪道の苦をふるか。其の上当世の乱世、去年より謀叛の者国に充満し、今年二月十一日合戦、其れより今五月のすゑ、いまだ世間安穏ならず。而れども一の幼子あり。あずくべき父もたのもしからず。離別すでに久し。かたがた筆も及ばず、心弁へがたければとゞめ了んぬ」(御書 六〇七頁)
とありますように、千里の道程の苦難は地獄・餓鬼・畜生の三悪道の苦しみを直ちに受けるようなものであり、さらにその上、二月に起こった北条家一門による同士討ちである二月騒動が収まらず、世上の混乱する中、しかも幼い子供を見てくれる夫とも別れての佐渡訪問です。筆にすることも出来ない、心でも推し量ることの出来ない、だから書くのを止めます、となります。佐渡への旅の苦難をこのお言葉から拝します。

 毎朝毎夕読誦する自我偈の一文に
為度衆生故 方便現涅槃 而実不滅度 常住此説法 我常住於此 以諸神通力 令顛倒衆生 雖近而不見 衆見我滅度 広供養舎利 咸皆懐恋慕 而生渇仰心 衆生既信伏 質直意柔軟 一心欲見佛 不自惜身命 時我及衆僧 倶出霊鷲山 我時語衆生 常在此不滅 以方便力故 現有滅不滅
というところがあります。

 書き下しますと
衆生を度せんが為の故に 方便して涅槃(ねはん)を現ず 而(しか)も実には滅度(めつど)せず 常に此に住して法を説く 我常に此に住すれども 諸の神通力(じんづうりき)を以て 顛倒(てんどう)の衆生をして 近しと雖(いえど)も而も見えざらしむ 衆我(しゅわが)が滅度を見て 広く舎利(しゃり)を供養し 咸(ことごと)く皆(みん)恋慕(れんぼ)を懐(いだ)いて 渇仰(かつごう)の心を生ず 衆生(しゅじょう)既(すで)に信伏(しんぷく)し 質直(しちじき)にして意柔軟(こころにゅうなん)に 一心に仏を見たてまつらんと欲して 自ら身命を惜しまず 時に我及び衆僧(しゅそう) 倶(とも)に霊鷲山(りょうじゅせん)に出ず 我時に衆生に語る 常に此に在って滅せず 方便力を以ての故に 滅不滅(めつふめつ)有りと現ず
となります。

 意味は、
衆生を救済するために、教化の方法として涅槃を現したこともありまが、実際に入滅したわけではありません。常にこの裟婆世界にあって法を説いているのです。私は常にこの裟婆世界におり、さまざまな神通力を用いて、心が顛倒している衆生には、近くにいても見えないようにしているのです。衆生は、私の入滅の姿を見て、広く舍利を供養し 皆おなじように恋い慕う心を懐きます。衆生はすでに教えを信じ順うことを決意した上は、心が素直で柔軟になり心から仏にお会いしようと願って自らの命も惜しまないようになりました。(衆生が執着の心を捨て去り、仏様のことを一心に思うようになったならば)その時に私と私の弟子たちは霊鷲山に姿を現すのです。私はその時に衆生に語ります。私は常に此所にあって入滅することはないのです。衆生を導く上から、入滅あるいは入滅しないという姿を方便の力を持って顕したのです。
 この自我偈の経文は、仏様を思う強い心があれば仏様は私たちの前にお出まし下さる、という仏様ご自身のお言葉です。換言すれば、仏様を思う人には仏様の御加護がある、ということです。

 毎朝読誦するこの自我偈の文を忘れることなく、日妙聖人の信心を手本として、日蓮大聖人様を恋慕する修行に励むならば、日蓮大聖人様は私たちの眼前におわしまして私たちを導いてくださいます。

 今年は折伏と登山の一年です。強く祈り実践するときに願いは成就します。頭で思っても、心で考えても、座っているだけでは何も変わりません。行動を起こして初めて変わるのです。一切はここにあります。「不自惜身命」の強い気持ちになって立ち上がるときには、自身が変わります。自身が変われば周囲が変わります。周囲が変わればまた自身も変わることが出来るのです。全ては一人ひとりの強い祈りに尽きます。励みましょう。進みましょう。

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日蓮正宗向陽山佛乗寺