日蓮大聖人御書拝読と御法話

平成21年8月1日 永代経

立正安国論

〜 謗法厳誡 〜

立正安国論 (平成新編御書二四九頁)
文応元年七月一六日  三九歳

立正安国論 (御書二四九頁)

 仁王経に云く「人仏教を壊らば復孝子無く、六親不和にして天神も祐けず、疾疫悪鬼日に来たりて侵害し、災怪首尾し、連禍縦横し、死して地獄・餓鬼・畜生に入らん。若し出でて人と為らば兵奴の果報ならん。響きの如く影の如く、人の夜書くに火は滅すれども字は存するが如く、三界の果報も亦復是くの如し」と。

 法華経第二に云はく「若し人信ぜずして此の経を毀謗せば、乃至其の人命終して阿鼻獄に入らん」と。又同第七巻不軽品に云はく「千劫阿鼻地獄に於て大苦悩を受く」と。涅槃経に云はく「善友を遠離し正法を聞かず悪法に住せば、是の因縁の故に沈没して阿鼻地獄に在って受くる所の身形縦横八万四千由延ならん」と。 

 広く衆経を披きたるに専ら謗法を重んず。悲しいかな、皆正法の門を出でて深く邪法の獄に入る。愚かなるかな各悪教の綱に懸かりて鎮に謗教の綱に纏はる。此の朦霧の迷ひ彼の盛焔の底に沈む。豈愁へざらんや、豈苦しまざらんや。汝早く信仰の寸心を改めて速やかに実乗の一善に帰せよ。然れば則ち三界は皆仏国なり、仏国其れ衰へんや。十方は悉く宝土なり、宝土何ぞ壊れんや。国に衰微無く土に破壊無くんば身は是安全にして、心は是禅定ならん。此の詞此の言信ずべく崇むべし


【現代語訳】

 仁王経嘱累品にも、「仏の教を守らない者は親孝行な子供に恵まれない。また親兄弟親戚などは仲違し、諸天の加護もない。さらに、常に病気に苦しみ、生きている間はどこへ行っても災難がついてまわり、死んでからは地獄・餓鬼・畜生におちるであろう。たまたま人間と生まれても、兵士や奴隷となる苦しみを受けるであろう。この謗法の罪は、打てば響くように、また身があれば影があるように、あるいは、夜に明かりの下で字を書けば、明かりが消えた後も字は残るように、現世で犯した謗法の罪は来世でも消えない、と。

 法華経第二の巻の譬楡品には、次のように説かれています。「もし人がこの経を信じないで毀るならば、(一切世間の人びとの仏となる種を断つことになるだろう。あるいは教えに対して顔をしかめ疑いを持つ人は、(中略)この経を読み書き信じたてまつる人を見て、軽んじ賤(いや)しめ憎み嫉(ねた)み、恨みを深く懐くならば、この人の罪の報いはどれほどであるか、それを今よく聴いておけ)その人はこの世の命が終わって無間地獄に堕ちるであろう。(地獄の責め苦は一つが終わればまた次と繰り返して尽きることがない。(中略)そして動物界に堕ちてゆき、大蛇の身となり、五百日歩く距離ほどの身となるであろう)」と。

 また同じく法華経第七巻の常不軽菩薩品には、次のように説かれています。(僧や尼僧、信者の男女たちは、怒りの心を抱き、不快の念を生じ・悪口をあびせ、罵って言うには、このおろかな僧は何者であるかと。そして、人びとは杖や棒で打ち叩き、瓦や石を投げつけた)、彼らはこの法華経の行者を迫害した罪によって千劫もの永い問、無間地獄にあって大いなる苦しみを受ける」と。

 さらに、涅槃経の迦葉品には次のように説かれています。「善き師を捨てて正法を聞かず、悪法に執着するならば、その罪によって無間地獄の底に沈んで、八万四千由旬の広大な身体いっばいに、永久的に地獄の苦しみを受けるであろう」と。

 このように多くの経文を開いてみますと、謗法の罪が最も重いとされています。それにもかかわらず、日本国の人びとがみな、正法の教えを捨てて、邪教の教えに入ってしまうのは、まことに悲しいことであります。また日本国中の人々がごとく悪い教えの綱にひかれて謗法の網にからまって脱げ出せずにいるのは、まことに愚かなことであります。今生では霧の中で迷うように、正邪の判断が出来きない苦しみに陥り、後生では地獄の焔の底に沈み無限の苦悩を受けるのであります。まことに嘆かわしいことであり、これを心配せずにいられましょうか。このような有り様を心苦しく思わずにおられません。

 貴殿は一刻も早く邪まな信仰を捨てて、ただちに唯一真実の教えである法華経に帰依しなさい。そうするならば、この世界はそのまま仏の国となります。仏の国は決して衰えることはありません。十方の世界はそのまま浄土となります。浄土は決して破壊されることはありません。国が衰えることなく、世界が破壊されなければ、わが身は安全であり、心は平和でありましょう。この言葉は真実であります。信じなければなりません、崇めなければなりません。


【謗法】

 謗法は誹謗正法の略語で、正法を誹謗すること。正法とは法華経。

○阿弥陀仏も法華経を修行して仏に成ったことが法華経化城喩品第七に明かされている。
「我今汝に語る。彼の仏の弟子の十六の沙弥は、今皆阿耨多羅三藐三菩提を得て、十方の国土に於て、現在に法を説きたもう。(乃至)西方に二仏、一を阿弥陀と名づけ、二を度一切世間苦悩と名づく」

 この化城喩品の文は、三千塵点劫の昔に出現して法華経を説き衆生を導いた大通智勝仏と、十六人の王子の化導を通して阿弥陀仏も法華経によって西方の衆生のために法華経を説く役目をになったことを説き明かした処である。

 その阿弥陀仏が無量寿経で【弥陀の四十八願】といわれる願を立てるが、その中に、「唯五逆と誹謗正法とを除く」と説き父を殺したり母を殺すなどの五逆罪を犯した者と、正法(法華経)を誹謗する者は導くことが出来ない、と明言している。


【良薬と毒薬】

 法華経寿量品
「飲他毒薬。薬発悶乱。宛転于地」
「此大良薬。色香美味。皆悉具足。汝等可服。速除苦悩」

 朝夕読誦する寿量品の文である。ここに「良薬」と「毒薬」が示されている意味を拝したい。言うまでもなく良薬は法華経であり、南無妙法蓮華経である。一方の毒薬は爾前権教である。

○良薬は法華経・毒薬はそれ以外の教え 良医は仏・病子は私たち
 この寿量品の文は、法華経七喩の一つである「良医病子の譬え」で、仏を良医に、衆生を病子に喩えている。そして、仏の教え(経文)が薬に譬えられる。この譬えを通して、「良薬」と「毒薬」の相違を教えられる。

○医師の処方に従って薬を服用する
 この譬えは次のように言い換えることが出来る。ある病院に高血圧の患者と低血圧の患者がいたとすると、医師は、高血圧症の患者には血管を広げて血圧が下がる効能の薬を処方し、低血圧症の患者には、血管が収縮して血圧の上がる効能の薬を処方する。これらの薬によって患者は正常な血圧になり安心して生活をすることが叶うようになった。患者は、薬を服用するに当たっても、食前や食後、あるいは四時間毎や寝る前等々の細かい指示を守り、日々の生活も医師の指導通を良く聞き、薬の効能と自身の努力により病を克服することが出来きた。ところが、医師の処方に反して、同じ薬を処方されても、食後に飲む薬を食前に飲んだり、禁止されている食べ物を食べたりした患者は病気が良くなることはなかった。

○薬も用い方によっては毒薬になる
 そこで症状の改善しない患者は、薬を疑って、反対の効能がある薬を飲んだところ、高血圧症の患者は血管が収縮し、ますます血圧が高くなり危険な状態に陥った。おなじように低血圧の患者はさらに血圧の下がる薬を服用し症状が悪化し、苦しみから逃れることができなかった。

 この例は極端かも知れないが、病気を克服するためには、医師の指導に従い、自らも努力をすることが大切であることを教えている。また薬であっても、患者の勝手な考えで、間違った用い方をすれば、却て身を損なうことを教えているのである。

○信仰の正邪
 さらに患者と医師の関係からいえば、治療過誤が絶えない現実が明らかにしているように、医師の教えに従った結果、別の病気を発症した、という例も少なくない。これは患者には責任のない物のように思えるが、因果の理法の上から考えるならば大切なことが示されている。

 すなわち、先祖代々の宗教だから、という理由だけで、なんの疑いも持たず信仰をしている人々は、知らないうちに誤った治療を受けている患者と同じ立場にあるといえる。この医師が信頼できる医師かどうか、という所に立ち返って治療を受けることが大切なように、信仰も、先祖からの信仰が果たして本当の教えなのか、ということを考えないで、漠然とした信仰は、いつまでも毒薬を飲み続けることであり、それは即、孫子の代まで毒薬を飲まし続けることに他ならないのである。

○法華経を説かれる仏は間違いのない仏
 この寿量品を説かれた仏は「始成正覚」の仏ではなく「久遠の仏」であり、その教も「此大良薬」と仰せの最高の教であることが説き示されるのである。「良医病子の譬え」では、単なる医師ではなく「良医」と但し書きがあるように、最高の医師、という意味であり、さらに、医師(仏)の教えるままに薬を服用(修行)することによってのみ、病を治癒する(覚りを開く)ことが出来ることを教える大切な所である。

 ともあれ、朝夕読誦する寿量品で譬を挙げて「謗法の罪の大きさ」を教えて下さるのである。心して励もうではないか。来月は、「始成正覚の仏」と「久遠の仏」について学びたい。

 今年は雨が多く例年になく不順な気候だが、負けないで精進を重ねよう。 

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