日蓮大聖人御書拝読と御法話

平成21年11月1日 永代経

観心本尊抄

〜 御一代 その六 「久遠の実成」と「久遠元初の仏」 〜

如来滅後五五百歳始観心本尊抄 (平成新編御書六四四頁)
文永一〇年四月二五日  五二歳

観心本尊抄

寿量品に云はく「然るに我実に成仏してより已来、無量無辺百千万億那由佗劫なり」等云云。我等が己心の釈尊は五百塵点乃至所顕の三身にして無始の古仏なり。


 先月は法華経の如来寿量品から、「始成正覚の仏」と「久遠の仏」について話をしました。身延派でも久遠の仏ということ、また、「三千塵点劫」と「五百塵点劫」の違い、さらに五百塵点劫の仏を「久遠の仏」と言い、「始成正覚の仏」との相違を学びました。復習いたしますと、始成正覚の仏はインドに誕生され、十九歳で出家し三十歳で覚りを開かれた所謂お釈迦様を指す言葉であり、法華経の寿量品で説かれた久遠の仏様に対する言葉であることを学びました。

 今月は、さらに久遠の仏様にも「久遠元初の仏」と「久遠実成の仏」がおわしますことが諸御書に明らかにされておりますのでそれについて学びます。先月の勉強会でも、寿量品で「良医と病子」の例えをされるのは、薬を撰ぶこと、良き医師に巡り会うことが大切である、と教えて下さる意味も含まれる、と申し上げました。何故このようなことを申し上げたかと言えば、私たちの周囲にいる多くの人たちは、「先祖からの信仰だから」とか、「お墓があるから」という理由だけで信仰を決めているからです。また、「あの仏様のお顔がステキだから」といって、京都や奈良のお寺巡りをする若い女性も少なくありません。このような人たちに対して私たちが出来ることがあります。それは繰り返しますが、良い医師と良い薬があるように、信仰は正しい仏様に巡り会い、真実の教えを持つことが唯一の幸福を得る道です、と教えることです。そのために私たちはこの世に生を受け、日蓮正宗の信仰をしているのだと言っても過言ではありません。

 日蓮大聖人様が『立正安国論』を御執筆されて幕府を諌暁遊ばされたのも、当時の人々に「良き医師と良き薬を」との御化導の上からなのです。ですから、日蓮正宗が三百六十五日、寝ても覚めても「折伏」と言うのはあたりまえのことであり、日蓮正宗から「折伏」を取ったら日蓮正宗とはいえなくなります。法華講衆もまた同じです。南条時光や熱原の法華講衆の末裔にあたる皆様から「折伏」の二字を取ったなら、ただ単に、「信仰をする者」に成り下がってしまいます。そして成仏の功徳を受けることのできない身となります。成仏できないばかりか、「獅子身中の虫」となる可能性もあるのが「折伏」を忘れた姿です。

『松野殿御返事』には、
「御文に云はく、此の経を持ち申して後、退転なく十如是・自我偈を読み奉り、題目を唱へ申し候なり。但し聖人の唱へさせ給ふ題目の功徳と、我等が唱へ申す題目の功徳と、何程の多少候べきやと云云。更に勝劣あるべからず候。其の故は、愚者の持ちたる金も智者の持ちたる金も、愚者の燃せる火も智者の燃せる火も、其の差別なきなり。但し此の経の心に背きて唱へば、其の差別有るべきなり」(一〇四六頁)
と御教示です。

 松野殿からの質問があったようです。内容は、「私は法華経を持って勤行を怠らずお題目も唱えております。聖人の唱えられる題目と私たちの唱える題目の功徳に違いはありますか」と言うものです。それに対して大聖人様のお答えは、「聖人といわれる人の功徳と、皆様方の功徳に勝劣はありません。何故ならば、智者といわれる人が所持するお金も、愚者といわれる人がするお金も価値には違いがないように、また、燃える火も同じであるように、功徳に差別はありません。但し注意すべきことは、此の経の心に背いて、読経をしても唱題をしても同じように功徳を受けることはできません。そこには受ける功徳に差別があります」というものです。分かりやすいお言葉です。明瞭な御教示です。

 さらにこれに続いて、
「此の経の修行に重々のしなあり」
とあり、十四誹謗の名目を挙げ、それらを犯さないことが大切であることを仰せです。「重々のしな」とは、十四種類の誹謗をする心のことです。十四誹謗では、第一に驕慢(きょうまん・増上慢のこと)が挙げられ、その次に懈怠(けたい・なまける)が挙げられております。その次に挙げられるのが計我(けが)です。これは、我見のことです。法華経の譬喩品に「我見を計する者」とあることを天台が註されてこのようにいわれます。私たちの立場で言えば、自らの考えで仏法の教えについて判断し、勝手な行動をすることです。さらにいえば、日蓮大聖人様が『立正安国論』で仰せになる、自らの幸福を願うのであれば周囲の人たちの幸福を願って行かねばなりません。そのためには周囲の人たちの信仰上の誤りを正して行くことが大切です、という折伏の修行を、自己の考えを中心として、そんなものはできない、という思いに執わ、折伏の実践をしない姿が、「此の経の心に背きて唱へば」ということになります。ですから、功徳にも差別が出てくるのはあたりまえです。幸いにも、皆様は、「他の誤りおも戒めんのみ」との御教示を素直に行ずる上で、少しでも仏法を学んで世のため人のためという貴いお心からのご参集ですから、大聖人様がお受けになった功徳と同じ功徳を受けることができますのでご安心下さい。そして次の所で、
「忘れても法華経を持つ者をば互ひに毀るべからざるか。其の故は法華経を持つ者は必ず皆仏なり」
と御教示なり、異体同心の大切さを教えて下さっているのです。

 さて、冒頭の『観心本尊抄』の御文に「無始の古仏」とあります。この無始の古仏と仰せられる仏様が今月のテーマである、「久遠元初の仏」です。他の御書、『当体義抄』や『総勘文抄』や『三大秘法抄』等には、
「五百塵点劫の当初(そのかみ)」(御書・『当体義抄』六九六頁・『総勘文抄』一四一九頁・『三大秘法抄』一五九四頁)
として御教示になっておりますが、同じ意味です。

 この本尊抄の御文を相伝のない身延派等では、「五百塵点乃至」を「五百塵点という文上(経文の表面上)の数量によせて、文底(経文の底意である悟りの世界)の無始の(始まりのない)久遠を表すことを『乃至』という。有量(有限的数量)から無量(無限の数量)への飛躍を表す」(傍訳日蓮聖人遺文観心本尊抄参照)といい、次の「所顕」をあわせて、「文上の五百塵点という文に即して、文底の仏を顕す意味である」と言っております。つまり、文底といいながらも、あくまでもインドに出現した釈尊を中心とした考え方で解釈をしております。これが相伝のない身延派等の理解です。

 これに対して、総本山二十六世日寛上人は、「五百塵点」は「時」である。数量ではない、と仰せになり、「五百塵点乃至」をありのままに拝すれば、五百塵点という時から過去に遡る、「五百塵点乃至久遠元初」という意味であり、その仏様は無始の古仏であられる、と御指南下さっております。そして、それは「五百塵点劫の当初」の御文と全く同じ意であると示されるのです。『本尊抄文段』で次のように御指南されます。

 今謂く、既に「五百慶点乃至」という、故にこれ時に約するなり。而も後より前に向い「乃至」というなり。謂く「五百塵点」は即ちこれ久遠本果の時なり。「所顕の三身」は久遠名字の時に在り。今久遠本果の時より久遠名字の時に向ってその中間を乃至するなり。即ち諸抄の「五百塵点の当初」の文に同じきなり。故に今の「乃至」は即ちこれ諸抄の「当初」の二字なり。
 
と。このように、「五百塵点劫乃至」を時に約すと仰せられ、釈尊インド出現の「今日」から「三千塵点」、「三千塵点」から「五百塵点」と後世から前世に向かって乃至、すなわち遡って行くのである、と仰せになります。そして、「五百塵点」は久遠本果、つまり釈尊が成道をされた時を言うのであり、その所から遡ったところに久遠名字の凡夫位における成道がありそれを「所顕の三身」つまり無作三身の仏様、すなわち、三十二相八十種好という金ぴかの有作の仏様ではなく、ありのままの仏様、凡夫位のままの仏様のことを言うのである、仰せになります。したがって、次に挙げる御書の「五百塵点の当初」と同じであると示されます。

 総勘文抄に云く「釈尊、五百塵点の当初、凡夫の御時即座に開悟し」(取意)等云云。当体義抄に云く「釈尊五百慶点劫の当初此の妙法の当体蓮華を証得して」等云云。秘法抄に云く「大覚世尊・久遠実成の当初証得の一念三千なり」等云云。此等の諸抄の「当初」の二字、これを思い合すべし。故に今の文意は、我等が己心の釈尊は五百塵点の当初、名字凡夫の御時所顕の三身にして無始の古仏なり云云。これ即ち久遠元初の自受用身、報中論三の無作三身なり。諸門流の輩この無始の本仏を知らず、所以に当文を消すること能わざるなり。

と。報中論三(ほうちゅうろんさん)とは、「報身」を中心として三身(法身・報身・応身)を説くことです。つまり、これらの御書は、すべて「久遠元初」のことを顕されたものであり、その時の仏様を「無始の古仏」と仰せられたのが日蓮大聖人様の教えであり、相伝のない諸門流、すなわち身延派等の輩は理解できないものである、と破折をされる御指南です。

 したがって、身延派等で言う「久遠実成の仏」と本宗で言う「久遠元初の仏」には絶対的な違いがあることになります。私たちが常に末法の御本仏日蓮大聖人様と申し上げるのも、この違いを申し上げているのです。
 
 以上のような表し方は、寿量品に示される「然我実成仏已来・無量無辺百千万億那由佗劫なり」という文について大聖人様がお示し下さった筋道の上から拝したものです。これ以外にも、久遠元初の仏様をお示し下さる御指南がたくさんありますので来月はそれについて学びたいと思います。

 本宗で、真実の仏様を知らなければならない、と折伏をするのは、世の中にはそのことに暗い人々があまりにも多いからです。また、かつてそのことを知っていたと思われる者たちも、退転して十年あるいは二十年を経過すると忘れてしまうようです。ですから、その人たちのために、私たちが学び、伝えることが使命だからです。

 寒くなり、インフルエンザの流行も懸念されます。経済も年末に向かって心配です。このような時ではありますが、

四条金吾に与えられた
「真実一切衆生色心の留難を止むる秘術は唯南無妙法蓮華経なり」
との御指南を胸に、明るく楽しく勇気をもって進んでまいりましょう。

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