日蓮大聖人御書拝読と御法話

平成21年12月1日 永代経

久遠の仏が修行したものは

〜 御一代 その七 〜
【本因妙】

「我本行菩薩道。所成寿命」 「我本菩薩の道を行じて、成ぜし所の寿命」

【本果妙】

「我成仏已来。甚大久遠」 「我成仏してより已来、甚だ大いに久遠なり」

【本国土妙】

「我常在此。娑婆世界。説法教化」 「我常に此の娑婆世界に在って、説法教化す」


『当体義抄』

釈尊五百塵点劫の当初、此の妙法の当体蓮華を証得して、世々番々に成道を唱へ、能証所証の本理を顕はし給へり(六九六頁)

『三世諸仏総勘文教相廃立』

釈迦如来五百塵点劫の当初、凡夫にて御坐せし時、我が身は地水火風空なりと知しめして即座に悟りを開きたまひき。後に化他の為に世々番々に出世成道し、在々処々に八相作仏し、王宮に誕生し、樹下に成道して始めて仏に成る様を衆生に見知らしめ、四十余年に方便の教を儲け衆生を誘引す。 (一四八九頁)                                 
『三大秘法稟承事』

寿量品に云はく「然我実成仏已来無量無辺」等云云。大覚世尊久遠実成の当初証得の一念三千なり。 {一五五九頁)


「久遠実成の仏」を、「応仏昇進の自受用身」(おうぶつしょうしんのじじゅゆうしん)といい、「久遠元初の仏」を「久遠元初の自受用身」といいます。自受用身とは、「自ら受け用いる身」と読み、仏の意です。大聖人様が『御義口伝』で

「自受用身(ほしいままにうけもちいるみ)とは一念三千なり」(一七七二頁)

と読み方を教えて下さっております。自受用身は一念三千の仏であり、その仏は、自らの思うとおり、自在に力を受け自在に力を用いることができる身である、ということです。

ただし、応仏昇進の自受用身は、衆生の機根に「応じる仏」という意味ですから、真の仏ではありません。衆生の機根に合わせて法を説く仏だからです。そして、衆生の機根が上がってくればそれにしたがって「昇進」の教えを説きます。譬えていえば、小学校一年生の生徒には「あいうえお」から教え、次第に漢字になりやがては外国の言葉を教えるようなものです。漢字も中学生、高校生と段々に難しくなって行きます。ところが、難しくはなりますが生徒の能力に合わせて教えるのですから結局は生徒の能力以上のことを教えることはできません。ですから、「応仏昇進の仏」の教えは完全なものではないことがわかります。

思い出して下さい。釈尊が

一、華厳
二、阿含
三、方等
四、般若
五、法華・涅槃

という順序で教えを説き、次第次第に導いたのは「応仏昇進の自受用身」だったからです。

最後に説かれた法華経の中で、「実は私は久遠の昔に菩薩の修行をして仏に成った。それ以来この娑婆世界にあってあなた方を導いてきたのである」とその本来の姿を明かされました。

しかし、菩薩の修行をしたことは明かされても、どの教えをもとに菩薩の修行をしたかを明かされておりません。「本因」の実体が無いのが釈尊の仏法です。そこに釈尊の仏としての、「応仏昇進の仏」としての限界があるのです。

一方、日蓮大聖人は、釈尊がどのような教えをもとにして菩薩の修行をし、仏に成ることができたかを明かされております。それが、『当体義抄』では「妙法の当体蓮華」と示され、『当体義抄』では「我が身は地水火風空なりと」と説かれ、さらに、『三世諸仏総勘文教相廃立』では「当初証得の一念三千なり」と仰せられる「南無妙法蓮華経」なのです。このように、衆生の機根に合わせて法を説くのではなく、自らの仏のお覚りをそのままただちに説かれる故に、「久遠元初の自受用身」が勝れ「応仏昇進の自受用身」は劣るのです。私たちが、日蓮大聖人を御本仏と仰ぐのは当然のことなのです。

慌ただしい季節になりました。今年も残り一月、と考えるか、一月後には新しい年が始まる、と考えるか。どちらでしょう。一月三十日に変わりはありませんが、心の持ち方次第で明るくも暗くもなるのではないでしょうか。同じ一月を過ごすのですから、明るく楽しく過ごせるようにしたいものです。大聖人曰わく「南無妙法蓮華経は歓喜の中の大歓喜」です。ご精進を祈ります。

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日蓮正宗向陽山佛乗寺