日蓮大聖人御書拝読と御法話

平成22年1月1日 新年の辞

広布前進の年

上野殿御返事 (平成新編御書一四四六頁)
弘安三年一月三日  五九歳

上野殿御返事 (御書一四四六頁)

春の始めの三日、種々の物法華経の御宝前に捧げ候ひ畢んぬ。花は開いて果となり、月は出でて必ずみち、灯は油をさせば光を増し、草木は雨ふればさかう、人は善根をなせば必ずさかう


新年の辞

      住職     

立宗七百五十八年の新春、明けましておめでとうございます。佛乗寺法華講員の皆様には広布への決意も新たに新年を出発をされたこととお歓びを申し上げます。

本年は、御法主日如上人より「広布前進の年」と命名されました。これは、平成二十七年・第二祖日興上人御生誕七百七十年を期して、法華講員五十パーセント増に向け前進を開始するときである、との御意であると拝します。

我が佛乗寺においても、日蓮大聖人の仏法を広宣流布するために、御法主上人の御指南のままに、素直で正直な信仰に励み、即身成仏の功徳を受けてまいろうではありありませんか。

日蓮大聖人は、上野殿に与えられた御書で
春の始めの三日、種々の物法華経の御宝前に捧げ候ひ畢んぬ。花は開いて果となり、月は出でて必ずみち、灯は油をさせば光を増し、草木は雨ふればさかう、人は善根をなせば必ずさかう (一四四六頁)
と仰せです。この御書は弘安三年一月三日に南条時光が、十字(むしもち)や清酒の御供養をされたことに対する御返事です。この中で、「人は善根をなせば必ずさかう」と仰せになります。「善根なせば」とは、この御書では日蓮大聖人への御供養を指します。つまり、正月にあたって、大聖人にお供えする真心を尽くした種々の御供養は、南条時光の身を栄えさせる功徳となって表れる、ということです。この善根について言えば、

『諸法実相抄』には、
末法に生まれて法華経を弘めん行者は、(乃至)大善根の者にてあるぞ(六六六頁)
と示され、折伏の修行に励む法華経の行者を善根の中でもさらに尊い「大善根の者」であることを教えて下さっております。さらに、同抄に、
日蓮と同意ならば地涌の菩薩たらんか。地涌の菩薩にさだまりなば釈尊久遠の弟子たる事あに疑はんや
と勿体なくも有り難い御教示がございます。末法にあって折伏の修行に励む者は、日蓮大聖人と同じ心である、そうであれば、御本仏の久遠の昔からの弟子である、ということです。

思いますに、お題目を唱える法華講員は皆地涌の菩薩の眷属であり御本仏の久遠からの弟子です。しかし、貪・瞋・癡の三毒に支配される故に、その貴い立場を忘れている場合が少なくありません。朝夕の勤行は欠かさず行っても、日蓮大聖人の仰せになる折伏の修行に精進することができないのは、貴い立場・使命を自覚できない姿であるといえます。『開目抄』等の「摂受と折伏」についての御教示の如く、末法の今日、折伏を忘れた姿であっては成仏の功徳を受けることは叶いません。むろん、折伏の心はあっても病身で体が動かない、という方もおります。その様な方であっても、電話をしたり手紙を書いたりして精進をされている方は少なくありません。精一杯の修行に、大聖人よりお誉めの言葉を頂けるくことは間違いのないところです。

要は、使命を自覚し行動を起こすことができるか否か、であり、そこに「大善根の者」となることができるか否か、もっと言えば「成仏か不成仏か」の分かれ目がある、ということなのです。

元旦の早々から、佛乗寺に参詣され、勤行唱題をされるばかりか南条時光と同じ志で日蓮大聖人に浄財を御供養された修行には、「人は善根をなせば必ずさかう」との功徳に浴することができます。さらにその上「広布前進」を誓う信心には一生成仏の大きな功徳が具わることは疑いのないところです。各自が貴い立場であることを自覚し、久遠の御本仏の弟子の使命を果たすことの依てのみ、暗い世の中を明るく、つまらない社会を楽しく、つめたい人々の心を温かくすることができます。

本年も、上田講頭、井上副講頭の下、明るく楽しく朗らかに前を向いて進んでまいりましょう。

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