日蓮大聖人御書拝読と御法話

平成22年2月7日

日興上人御報恩御講

【日興上人略年表】

寛元四年(一二四六年)三月八日、甲斐国大井庄鰍沢(山梨県南巨摩郡鰍沢町)で御誕生。父は甲斐の国大井荘在住の武士で大井橘六、母は富士上方河合(静岡県芝川町)由比家の女(むすめ)。祖父に河合入道。大聖人はこの時二十五歳。京都・奈良等で勉学に励まれていた。この年の三月二十三日に北条時頼が執権職に就いている。

正嘉二年
(一二五八年)
大聖人は二月『立正安国論』御執筆にあたり、大蔵経を閲覧されるために富士岩本の実相寺に赴かれた。 この時、実相寺で修学に励まれていた日興上人が入室し、名を伯耆房と賜わる。日興上人御年十三歳。
弘長元年
(一二六一年)
五月十二日、伊豆に配流になった大聖人に従い、常随給仕をされる。この時期に伊豆宇佐美・吉田の地で折伏弘教をされる。
弘長二年
(一二六二年)
熱海真言僧・金剛院行満が、日興上人の折伏を受け改衣して日行と名乗り、自坊を大乗寺と号した。
文永五年
(一二六八年)
八月、『実相寺衆徒愁状』を幕府に提出される。
文永六年
(一二六九年)
身延の地頭波木井実長を折伏される。
文永七年
(一二七〇年)
六老僧の松野阿闍梨日持、および和泉公日法・治部公日位を折伏し、大聖人の弟子とされる。
文永八年
(一二七一年)
九月十二日、竜の口法難。十月十日、大聖人のお供をして佐渡に出立。
文永十一年
(一二七四年)
三月十三日、佐渡一ノ谷を後にされた大聖人のお供をして鎌倉に入る。さらに、五月、大聖人を甲州波木井郷(身延)にご案内し、甲斐、駿河で折伏を推し進められる。日目上人が、はじめて日興上人に御目通りをされた。
建治元年
(一二七五年)
一月下旬、南条家に到り、大聖人の代理として故兵衛七郎行増の墓参をされる。同時に、富士下方で折伏戦を展開され、駿河熱原滝泉寺・寺家下野房日秀・越後房日弁・少輔房日禅・三河房頼円及び在家の人々が弟子となる。さらに、日興上人に随って日向・覚乗房、富士加島高橋家を拠点に折伏をされる。
建治二年
(一二七六年)
四月八日、日目上人が日興上人のもとで得度。
弘安二年
(一二七九年)
一月、興津時業、日興上人が書写された法華経一部を請く。
十月十二日、本門戒壇の大御本尊御建立。
十月十五日、熱原神四郎・弥五郎・弥六郎鎌倉にて刑死。同日、日興上人は鎌倉より大聖人に法難の状を急報される。
十月十七日、大聖人より「万年救護本尊」を賜る。
弘安三年
(一二八〇年)
一月十一日、大聖人より『法華本門宗血脈相承』(百六箇抄)を相伝される。
弘安四年
(一二八一年)
園城寺申状を代奏される〔初度天奏〕。
弘安五年
(一二八二年)
九月、大聖人は日興上人を唯授一人本門弘通の大導師を定め、『日蓮一期弘法付嘱書』(身延相承)を授けられる。
九月八日、大聖人身延御出立。
九月一八日、大聖人池上に着かれる。
十月一三日、大聖人は日興上人を身延山久遠寺の別当と定め、『身延山付嘱書』(池上相承)を授けられる。
十月一三日、大聖人御入滅。
十月二十一日、大聖人の御遺骨を捧持して池上を御出発。
十月二十五日、身延御帰山。
弘安六年
(一二八三年)
十月一三日、身延において大聖人の一周忌を奉修される。
弘安七年
(一二八四年)
十月一三日、身延において大聖人の三回を奉修される。
弘安八年
(一二八五年)
日向身延に登り学頭に補せられる。
弘安九年
(一二八六年)
日向に不法の色が現れ、時を同じくして波木井実長も謗法を犯す。
正応元年
(一二八八年)
大聖に第七回忌を身延において奉修される。
正応二年
(一二八九年)
春のころ身延を離山し、河合入道の宅を経て富士上野の南条時光の舘に入られる。
正応三年
(一二九〇年)
十月一二日、大石寺を御建立。
十月十三日、日目上人へ法を内付される。
永仁二年
(一二九四年)
十月一三日、大聖人の十三回忌を奉修される。
永仁六年
(一二九八年)
重須に御影堂を建立して移られる。
元徳三年
(一三三一年)
大聖人第五〇遠忌。
元弘三年
(正慶二年・一三三三年)
一月十三日、『日興遺誡置文』を著される。
二月七日。重須にて御入滅。八十八歳。


『日興遺誡置文』 (御書・一八八三〜一八八五頁)

一、富士の立義聊も先師の御弘通に違せざる事。
一、五人の立義一々に先師の御弘通に違する事。
一、時の貫首たりと雖も仏法に相違して己義を構へば之を用ふべからざる事。
一、衆義たりと雖も、仏法に相違有らば貫首之を摧くべき事。

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