日蓮大聖人御書拝読と御法話

平成22年3月14日 御報恩御講拝読御書

椎地四郎殿御書

椎地四郎殿御書 (平成新編御書一五五五頁)
弘安四年四月二八日  六〇歳

椎地四郎殿御書 (御書一五五五頁)

此の経を一文一句なりとも聴聞して神にそめん人は、生死の大海を渡るべき船なるべし。妙楽大師の云はく「一句も神に染めぬれば咸く彼岸を資く、思惟修習永く舟航に用たり」云云。生死の大海を渡らんことは、妙法蓮華経の船にあらずんばかなふべからず。


法華経の一文一句であっても、聴聞して魂に染めた人は生死の大海を渡る船とすることができます。

『椎地四郎殿許御書』

白玉は 人に知らえず 知らずともよし 知らずとも 我し知れらば  知らずともよし 〜 元興寺の僧(万葉集)

<口語訳>
真珠は人に知られない 知らなくてもいい 知らなくても 自分さえ価値を知っていれば 世の人は 知らなくてもいい

あくまでも自分の評価。
他人の目は気にしない。


『寂日房御書』 一三九四頁

かゝる者の弟子檀那とならん人々は宿縁ふかしと思ひて、日蓮と同じく法華経を弘むべきなり

『日興遺誡置文』一八八四頁

爰に我等宿縁深厚なるに依って幸ひに此の経に遇ひ奉ることを得


末法には法華経の行者必ず出来すべし 但し大難来たりなば強盛の信心弥々悦び
をなすべし。火に薪をくわへんにさかんなる事なかるべしや。大海へ衆流入る、されども大海は河の水を返す事ありや。法華大海の行者に諸河の水は大難の如く入れども、かえす事とがむる事なし。諸河の水入る事なくば大海あるべからず。大難なくば法華経の行者にはあらじ。天台の云はく「衆流海に入り薪火を熾んに
す」等云云。
 法華経の法門を一文一句なりとも人にかたらんは過去の宿縁ふかしとおぼしめすべし。経に云はく「亦正法を聞かず是くの如き人は度し難し」云云。此の文の意は正法とは法華経なり。此の経をきかざる人は度しがたしと云ふ文なり。法師品には「若是善男子善女人乃至則如来使と説かせ給ひて、僧も俗も尼も女も一句をも人にかたらん人は如来の使ひと見え
たり。
 貴辺すでに俗なり、善男子の人なるべし。此の経を一文一句なりとも聴聞して神にそめん人は、生死の大海を渡るべき船なるべし。妙楽大師の云はく「一句も神に染めぬれば咸く彼岸を資く、思惟修習永く舟航に用たり」云云。生死の大海を渡らんことは、妙法蓮華経の船にあら
ずんばかなふべからず。

妙法蓮華経随喜功徳品にいわく、
「又阿逸多、若し人、是の経の為の故に、僧坊に往詣して、若しは坐し、若しは立ち、須臾も聴受せん。是の功徳に縁って、身を転じて生まれん所には、好き上妙の象馬、車乗、珍宝の輦輿を得、及び天宮に乗ぜん。若し復人有って講法の処に於いて坐せん。更に人の来ること有らんに、勧めて坐して聴かしめ、若しは座を分かって坐せしめん。是の人の功徳は、身を転じて帝釈の坐処、若しは梵天王の坐処、若しは転輪聖王の所座の処を得ん。阿逸多、若し復有って余人に語って言わく、経有り。法華と名づけてたてまつる。共に往いて聴くべしと。即ち其の教を受けて、乃至須臾の間も聞かん。是の人の功徳は、身を転じて陀羅尼菩薩と共に、一処に生ずることを得ん。利根にして智慧あらん。百千万世に、終に●●ならず。口の気臭からず、舌に常に病無く、口にも亦病無けん。歯は垢黒ならず、黄ならず、疎かず、亦欠落せず、差わず、曲がらず。唇下垂せず、亦●縮ならず、●渋ならず、瘡●ならず、亦欠壊せず、●邪ならず、厚からず、大いならず、亦●み、黒ならず、諸の悪むべきこと無けん。鼻●●ならず、亦曲戻ならず、面色黒からず、亦狭く長からず、亦●み曲らず、一切の●うべからざる相有ること、無けん。唇舌牙歯、悉く皆厳好ならん。鼻脩く、高直にして、面貌円満し、眉高くして、長く、額広く、平正にして、人相具足せん。世々に生れん所には、仏を見たてまつり、法を聞いて、教を誨信受せん。阿逸多、汝且く是れを観ぜよ。一人に勧めて、往いて法を聴かしむる。功徳此の如し、何に況んや、一心に聴き説き読誦し、而も大衆に於て、人の為に分別し、説の如く修行せんをや」(妙法蓮華経並開結五三五ページ)
 この経文の深意をうかがうに、
 第一段は、御本尊様にむかって、妙法蓮華経と唱えたてまつるものの功徳を、仏が、地涌千界の菩薩に堅く誓われているおことばである。
 この「上妙の象馬、車乗。珍宝の輦輿」、すなわち私どもの現代語に訳せば、生活資料の豊さということです。信心堅固の者は、また純真に信仰する者は、米でも、ミソでも、しょうゆでも、衣服でも、たまたまには、好きな者には酒なりと、十万の仏は、よろこんで運ばれるお約束である。共産党の者のように「おれらに食わせろ」などと、ムシロ旗を立てて、こじきが押借りするような餓鬼のすがたをあらわさなくとも、自然の智慧は、私どもを自然の安心境にみちびくお約束です。また「天宮に乗ぜん」とは、住む家なく、事業に店なしとなげかれる必要はない。こんこんと湧き出る生命に唱え奉る題目の功力は、チャンと家を持たせてくださるお約束です。
 もし、このことが日常生活にかないませんから、御本尊様をジッと見つめて、「地涌千界ここにあって、三世十方の御仏の親なる妙法蓮華経の法味をたてまつる。しかるに、霊鷲山会の約束を無にして、この大菩薩に苦を与えらるるは何事ぞ、いや、私自身の罪障消滅は、あなた自身がお知りである。早く功徳を賜え」と強盛においのりになることです。
 第二段の「講法の座を譲る」ということは、信仰するものに親切にすることを意味します。また、妙法蓮華経を唱えたてまつるようにおすすめすることです。転輪聖王とか、梵王とか、帝釈の坐処とかいうことは、すなわち現代語に訳せば、指導階級ということで、指導者、すなわち、課長とか、工場長とか、係長とか、社長とか、または、数人の店主、会の幹部、役所の局長、または大臣とかというひとびとです。
 されば、過去世に妙法蓮華経の信仰者に親切にした功徳によって、いまの位置をえたのであります。また現世において信者に親切なものは、将来において、その指導階級の位置をえることになるのです。今日、大臣になり、局長になり、会社の社長、幹部、または人の上位にあるものは、昔行じた妙法の功力によることを、今の世に忘れて、大御本尊様を恋慕せぬ心を、経文には、「為治狂子故」というのです。本有無作の三身の生命を知らぬ者の浅ましさ、ただ、ふびんとしか思わぬ次第であります。
 また第三段は、折伏教化の功徳を約束せられたものです。この人は、智慧、利根、人にすぐれ、その人の容貌、すがたは美しく、かつ、りっぱであるとともに、この世に善行あって福得を備え、無病息災延命なのです。
 かく、この経文をジッと見つめ、おがみたてまつるときに、大御本尊様出現のありがたさを、しみじみと感ずるとともに、末法濁悪の今日、金も米も施して、幾千の人にか施しえましょう。私どもは、相手の、きらい、すきにかかわらず、この妙法を受持させて、無限に湧きくる幸福を、世界万民におくろうではありませんか。これこそ、仏のおよろこびたもう「法施」とはなづけ、最大、最高の布施行であるのです。(昭和二十一年六月一日)

文責編集部 転載複写等禁止



日蓮正宗向陽山佛乗寺