日蓮大聖人御書拝読と御法話

平成22年4月11日 宗祖日蓮大聖人御報恩御講拝読御書

妙密上人御消息

妙密上人御消息 (平成新編御書九六四頁)
建治二年閏三.五  五五歳

妙密上人御消息 (御書九六九頁)

此等を以て思ふに、便宜ごとの青鳧五連の御志は日本国に法華経の題目を弘めさせ給ふ人に当たれり。国中の諸人、一人二人乃至千万億の人、題目を唱ふるならば存外に功徳身にあつまらせ給ふべし。其の功徳は大海の露をあつめ須弥山の微塵をつむが如し。殊に十羅刹女は法華経の題目を守護せんと誓はせ給ふ。此を推するに、妙密上人並びに女房をば母の一子を思ふが如く。ミョウ牛の尾を愛するが如く、昼夜にまぼらせ給ふらん。たのもしたのもし。事多しといへども委しく申すにいとまあらず。女房にも委しく申し給へ。此は諂へる言にはあらず。金はやけば弥色まさり、剣はとげば弥利くなる。法華経の功徳はほむれば弥功徳まさる。二十八品は正しき事はわずかなり。讃むる言こそ多く候へと思し食す (御書 九六九)


通解

以上述べたようなことをもって考えてみますと、あなたが日蓮に便りを下さる度に、青鳧五連を御供養されるお志は、日本国中に法華経の題目を弘められている人です。それ故に、国中の人々が、一人より二人、さらには千億万人の人々がお題目を唱えるようになったときには、その様なことは思っておらなくとも、国中の人が唱えるお題目の功徳が貴男の御身に集まることでありましょう。功徳というものは、大海が一滴の水が集まって大海となるように、須弥山が一粒の土が積もって高い山となるように、積み重ねることによって必ず大きな功徳となって現れます。とりわけ、十羅刹女が法華経の題目を流布する者を守護することを誓っております。このことを今に移すならば、妙密上人と女房を、母親がただ一人いる我が子を大切に思うように、ミョウ牛の尾を大切にするように、昼夜にわたって護ってくださいます。大変に心強いことです。まだまだ申し上げたいことがありますが、委しく申し上げるには暇がありません。このことを女房にも委しくお伝え下さい。日蓮がこのように貴男のことを誉めるのは諂って申し上げているのではありません。金を焼けば愈々その色が鮮やかになり、剣は研ぐことによってさらによく切れるようになるのとおなじで、法華経の功徳は、誉めれば誉めるほど勝るのです。法華経二十八品には、二乗作仏と一念三千の最高の教えを説かれた箇所はわずかしかありません。その余は法華経を修行し、弘める者を賛嘆し、その功徳を説かれた部分がほとんどであることを心得ておいて下さい。

語句の意味
○青鳧(せいふ)=鎌倉時代に流通していた銅製の貨幣で、真ん中に四角い穴が空けられ鳥の目に似ているところから、「鵞目」あるいは「鳥目」ともいわれる。鳧(ふ)はのがものこと。穴に紐を通し、千枚を一連、一結、あるいは一貫文とした。一連は現在に換算すると、おおよそ八万円から十万円に相当するといわれている。
○須弥山=仏教の宇宙観で宇宙の中心にある山。『薬王品得意抄』には「山の中には須弥山第一なり・須弥山は金色なり」(三九四頁)
○十羅刹女=法華経陀羅尼品二十六に説かれ、鬼子母神の娘とされている。羅刹とは悪鬼のこと。女人を指す故に羅刹女といわれ、@藍婆A毘藍婆B曲歯C華歯5黒歯E多髪F無厭足G持瓔珞H皐諦I奪一切衆生精気の十人。爾前の教えでは、衆生の煩悩を盛んにしたり、命を害したりしたが、法華経を受持することによって成仏を許され、以後は法華経の行者を守護することを誓った。
○ミョウ牛=ヤクのこと。カシミール高原からチベット高原に生息する牛の一種。尾に生える毛が珍重された。「深く五欲に著することミョウ牛の尾を愛するが如し」(新編法華経 一二〇頁)

〈対告衆・たいごうしゅう・御書を頂いた方のこと〉
 当抄は、建治二年三月に、身延山中の日蓮大聖人様に御供養をされた時に与えれらご返事の御書です。この時大聖人様は五十五歳、身延に入られて二回目の春を迎えられておりました。対告衆である妙密上人については、鎌倉の?谷(くわがやつ)に住していたことと、「便宜ごとの青鳧五連の御志」とあることから、強い信仰から御供養を欠かさずにされ、日蓮大聖人様の御化導を外から護られた篤信の信徒であることが知れます。ただ詳細については明らかでありません。
拝読の御文について
「此等を以てこれを思ふに」とあります。これは、当抄でこれまでに述べたことを指し、その上で「妙密上人がさいさいにわたってされる青鳧五連の御供養の功徳はいかばかりでありましょうか」という意味になります。
そこで、当抄の中で大聖人様が仰せになられることの主なものを挙げてみますと、
@「施食を修するが第一の戒にて候なり。人に食を施すに三の功徳あり。一には命をつぎ、二には色をまし、三には力を授く」(九六四頁 四行目)
A「何なる故有ってか、一代諸教の肝心たる法華経の題目をば唱へざりけん。其の故を能く能く尋ね習ひ給ふべし。譬へば大医の一切の病の根源、薬の浅深は弁へたれども、故なく大事の薬をつかふ事なく病に随ふが如し」(九六六頁 四行目)
B「但法華経計りこそ、三身円満の釈迦の金口の妙説にては候なれ。されば普賢・文殊なりとも輙く一句一偈をも説き給ふべからず。何に況んや末代の凡夫我等衆生は一字二字なりとも自身には持ちがたし」(九六七頁 四行目)
C「詮を論ずれば、伝教大師ことはりて云はく「法華経を讃むと雖も還って法華の心を死す」云云。例せば外道は仏経をよめども外道と同じ」(九六七頁 九行目)
D「今日蓮は然らず。已今当の経文を深くまぼり、一経の肝心たる題目を我も唱へ人にも勧む。麻の中の蓬、墨うてる木の自体は正直ならざれども、自然に直ぐなるが如し。経のまゝに唱ふればまがれる心なし。当に知るべし、仏の御心の我等が身に入らせ給はずば唱へがたきか」(九六七頁 十二行目)
E「或は云はく「刀杖瓦石を加へ或は数々擯出せらる」等云云。此等の経文は日蓮日本国に生ぜずんば、但仏の御言のみ有りて其の義空しかるべし。譬へば花さき菓ならず、雷なりて雨ふらざらんが如し。仏の金言空しくして、正直の御経に大妄語を雑へたるなるべし」(九六八頁 十二行目)
以上の六点になります。

@は御供養の功徳を示された箇所です。ここでは、人に食を施すこと、とあり当抄では青鳧ですが、青鳧をもって食に変えるのですから同じ意味で拝することが出来ます。一点目の「命をつぐ」とは、長生きをする果報を得ることです。二点目の「色をます」とは、美女・美男になる果報を得ることです。三点目の「力を授く」とは、大きな力・徳を備えた者となって人々を導く果報を得ることです。美人・美女といっても、仏法では外面よりも内面のことが重視されるのは申すまでもありません。他の二つも同じで、内面の命、内面の力こそ真の功徳であることを忘れてはなりません。

Aは、何故これまで仏教の肝心である法華経の題目を唱えることが出来なかったのか、その理由を明らかにすることが大事である、とされ、仏の教えに浅・深・高・低のあることを薬に例えて示されます。そして、末法の衆生には南無妙法蓮華経の教えこそが薬であり、その教えを弘通される上行菩薩が出現されることを述べられ、日蓮大聖人様が先だって南無妙法蓮華経を弘通されるのは上行菩薩の使いであろうか、と末法の御本仏であられることを内々に示されています。

Bでは、法華経は仏様のお心に随った教えであるから、普賢菩薩や文殊菩薩のような貴い菩薩方であっても説くことが出来ないことと、随自意の教えであるから、末法の凡夫である私たちが一字一句を持つには、自身の心を中心にするのではなく、仏様のお心を中心にすることが肝心であることを示されます。

Cは、末代凡夫が愚かな自らの心を中心として法華経を読んでも、かえって法華経の心を死すものであることを、伝教大師の法華秀句を引用されて御教示されております。この箇所は、南無妙法蓮華経と唱える全ての人への戒めのお言葉である、と私たちは深く心に銘記すべきです。日蓮大聖人様の法華経は文上の法華経ではなく文底、しかも独一本門の教えです。それは『開目抄』の「五重相対」、『観心本尊抄』の「五重三段」で明らかにされていることであり、これに迷う故に信仰の根本である本尊を雑乱し、成仏の功徳から遠ざかっているのが日蓮正宗以外の宗派です。南無妙法蓮華経と唱えても、日蓮大聖人様のお心に背く南無妙法蓮華経であれば、「法華の心を死す」つまり日蓮大聖人様のお心を死すことになり、「かゝる日蓮を用ひぬるともあしくうやまはゞ国亡ぶべし」(『種々御振舞御書』一〇六六頁)という姿に陥っている哀れむべき現状です。その中でも特に、池田創価学会においてはその姿が顕著であり、堕獄は免れません。哀れな彼らに、一刻も早く正信に目覚め、日蓮正宗の正しい教えに立ち帰ることが出来るように折伏をし、救済の手を差しのべることが、正しい信仰に身をおいている私たちの使命です。
また、日蓮正宗に身をおいている私たちであっても、「大聖人様のお心を死す」振る舞いをしていないか、このことを常に心に置いておかねばなりません。日蓮正宗の教えを弘めて行くんだ、といっても非常識な言動や行動では逆の効果を招くことになります。外から見れば、真面目に一所懸命な、所謂強信な信心に見えても、世間一般常識や法律から外れているような行いをするのは、「我見の信心」に因があるのです。「外道は仏教を読めども外道と同じ」と当抄でも破折されておりますように、自己の勝手な思いこみや先入観を中心に置いた唱題であっては日蓮正宗の教えを破壊することになります。日蓮大聖人様・日興上人・日目上人と代々の御法主上人に連綿と伝わる唯授一人の血脈のもとで、七百有余年の間に築かれた歴史と伝統の中に身を置くことは、自己中心的な我見の信心から脱却する修行でもあります。その功徳として、円満な境涯が備わるのです。「大聖人様のお心を死す」ことのない信心に励みましょう。
                                  
Dの御文では「仏の御心の我等が身に入らせ給はずば唱へがたきか」とあります。これはBとも通じますように、私たちは大聖人様・御本尊様と境智冥合したときにはじめて本門の題目を唱えることが叶うのです。異体同心の大切さを教えて下さる御文です。

Eでは、法華経の勧持品に説かれる法華経身読を挙げられ、それを実践された日蓮大聖人様こそが人法一箇のお立場であられ、末法にそのことを弘通する、と仰せられ、
「日本国の中に但一人南無妙法蓮華経と唱へたり。これは須弥山の始めの一塵、大海の始めの一露なり。二人三人十人百人、一国二国六十六箇国、已に島二つにも及びぬらん」
と折伏弘教の先陣に立たれる決意を述べられ、私たちに後に続くことを命ぜられているのです。

妙密上人夫妻の信心を通して、学ぶべきことはたくさんあります。その中でも大切なことは、日蓮大聖人様の仰せを素直に正直に拝し、実践することだといえます。その様なご信心であったから、大聖人様は
「此は諂へる言にはあらず。金はやけば弥色まさり、剣はとげば弥利くなる。法華経の功徳はほむれば弥功徳まさる」
と、妙密上人上人夫妻を最大のお言葉でお誉めくださるのです。
私たちも、大聖人様よりの唯授一人の血脈を御所時遊ばされ、法統連綿として広宣流布の指揮を執られる、御当代日如上人のもとで、素直で正直な信心を実践し、大聖人様から「佛乗寺の法華講の皆様、日蓮が皆さんに諂って誉めているのではありませんよ。皆様が折伏に精進されているから、広宣流布を願って信心に励まれているからこのように申し上げるのです」とお誉めいただけるように、前に進んでまいりましょう。
今月は宗旨建立の月です。自らの信心に、より一層鮮明は南無妙法蓮華経の旗を立てる時です。ご精進を祈ります。
以上

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