日蓮大聖人御書拝読と御法話

平成22年6月13日 宗祖日蓮大聖人御報恩御講拝読御書

三沢抄

三沢抄 (平成新編御書一二〇四頁)
建治四年二月二三日  五七歳

三沢抄 (御書一二〇四頁)

而るに此の法門出現せば、正法像法に論師人師の申せし法門は皆日出でて後の星の光、巧匠の後に拙きを知るなるべし。此の時には正像の寺堂の仏像・僧等の霊験は皆きへうせて、但此の大法のみ一閻浮提に流布すべしとみへて候。各々はかゝる法門にちぎり有る人なればたのもしとをぼすべし


【通解】

この法門が出現したならば、正法時代・像法時代に論師や人師が説いた法門の利益は、太陽が昇った後には星の光が消えてし まうようなものです。素晴らしいものが現れた後に、はじめて拙いことがわかるようなものです。この時には正法時代や像法 時代に建立された寺院の堂宇に安置されている仏像、およびそれらのことを教え導いた僧侶の霊験は消え失せてしまいます。 そして、南無妙法蓮華経の大法のみが一閻浮提に流布することが明らかです。各々はこのような教えに縁のある人ですから、 心強く思うべきです。


【語句の意味】

○此の法門 日蓮大聖人様が末法に出現されて説き明かされる南無妙法蓮華経の教え。
○正法像法 正法時代・像法時代のこと。大集経には釈尊の滅後に、正法・像法・末法という三時があることを説かれている。
○論師・人師 経文について解釈や講義をし、教えの筋道を整理して説く役目の人を論師。論師の教えを敷衍して説く役目の人を人師という。
○此の大法 日蓮大聖人様が説き明かされた南無妙法蓮華経の教え。
○一閻浮提 古代インドのJambudypaの音写で、私たちが住む世界を表す言葉。古代インドの世界観では、宇宙の中心に須弥山があり、その南に閻浮提、北に鬱単越(うったんのつ)、東に弗婆提(ほつぼだい)、西に瞿耶尼(くだに)の四州がある。


【三時の弘教】

 三時とは正法時代・像法時代・末法時代のことです。最初の正法とは、仏の教えが正しく伝わり、人々はその教えによって悟りを得ることが出来た時代をいいます。次の像法とは、人々の根性が低くなり教えの内容から悟りを得るかわりに、堂宇などの形式化された姿をもって利益をもたらす時代をいいます。最後の末法は、仏の教えの功徳の全てがなくなった時代をいいます。

 さらに、同経では、釈尊の滅後最初の百年を解脱堅固(げだつけんご)といい、人々が智慧をもって悟りを開くことができる時代であるとしております。二番目の五百年を禅定堅固(ぜんじょうけんご)といい、智慧をもって悟りを開くことは少なくなるが、心を静めて仏の道を求め、悟りに至ることができる時代であるとしております。三番目の五百年を読誦多聞堅固(どくじゅたもんけんご)といい、経典を読誦したり、経典を解釈したものの講義など、多くの教えを聞くことにより、悟りを開くことが叶う時代であるとしております。四番目の五百年を多造塔寺堅固(たぞうとうじけんご)といい、塔や寺院を建立し、善根を護持することによって、仏教が人々を導く時代であるとされております。

 第五の五百年は闘諍言訟白法隠没(とうじょうごんしょうびゃくほうおんもつ)といい、仏教の中で教えに対する諍いが起こり仏の教え(白法)が消えてしまう時代であることが説かれております。この時代には、白法が隠没し、混乱が持続することから五百年に限定されたものではなく濁世は万年まで続くことになります。したがって大白法の出現を予証する意味もあるといえます。

 日蓮大聖人様のご化導は常にお経文が中心です。御自身の説かれることを経文をもって説明されております。日蓮大聖人様の御化導は「証拠主義」です。常に一切の経文を判断の基準とされ正邪を決せられます。ここに挙げた大集経もまたその例です。その上で、過去の歴史上の姿にあてはめて、経文に説かれたことが事実となって現れていることをもって、大聖人様のお言葉を信じることを教えて下さっております。大聖人様から仏法の一切をお受けになった第二祖日興上人が、『五人所破抄』で、次のように仰せになるのは、日蓮大聖人様の教えを寸分違わずに継承されている証拠の一つであると拝します。


五人所破抄 (新編御書・一八七六頁)

大覚世尊未来の時機を鑑みたまひ、世を三時に分かち法を四依に付して以来、正法千年の内には迦葉阿難等の聖者先づ小を弘めて大を略し、竜樹天親等の論師は次に小を破りて大を立つ。像法千年の間、異域には則ち陳隋両主の明時に智者は十師の邪義を破る、本朝には亦桓武天皇の聖代に伝教は六宗の僻論を改む 


【通解】

大覚世尊(釈尊)は未来のことを思われ、時代を三種類に分けられ、人々を導くために法を「人の四依」に付嘱をしました。

正法千年には迦葉・阿難等の聖者が小乗の教えを弘めて大乗の教えは後に譲り、竜樹・天親等の論師は小乗の教えを破って大乗の教えを立てました。像法の千年には、中国の陳・隨の時代に、天台大師が出られ、それまでに弘まっていた十師の邪義を破りました。また日本にあっては、桓武天皇の時代に伝教大師が出られて南都六宗の誤った教えを改めました。

 大聖人様が『撰時抄』等で御教示下さっていることを、日興上人が具体的に示されているものです。この三時弘教の次第は、毎年お会式で奉読される日目上人、日道上人、日行上人をはじめ、御歴代上人の申状の中に繰り返し繰り返し記されていることです。

 今末法に入り、経文に説かれるように、釈尊の教えである白法が隠没し、利益がなくなり闘諍言訟の時代を迎え、時に迷い教えに暗い者たちは、経文に説かれたことを信じられず、それまでの教えに拘泥し、もはや利益のない自宗自義に執着し正法の流布を妨げている謗法の姿となって現れてきました。

 その様な時代に、経文の予証通り大白法が出現し、一閻浮提の衆生を利益することを

「但此の大法のみ一閻浮提に流布すべしとみへて候」

と御教示になるのです。

『三沢抄』には

「法門のことは佐渡の国へ流され候ひし已前の法門は、たゞ仏の爾前経とおぼしめせ」 (新編御書・一二〇四頁)

という有名な御文があります。意味は、「日蓮の法門は、佐渡流罪になる前に説いたものは、釈尊が爾前経を説かれたのと同じように未だ真実を説き明かしてはおりません」ということです。つまり、文永八年九月十二日の竜の口法難を機に、それまでの上行菩薩の再誕というお立場から、末法の御本仏としての化導が始まったのである、ということを自らが宣言された御文なのです。

 したがって、ここで仰せになられる、「此の大法」とは大聖人様が佐渡以前には説き示されていなかった教えであることがわかります。大聖人様は建長五年四月二十八日に立宗宣言をされ、南無妙法蓮華経の題目を唱へ出されました。その後、文永八年九月に至るまで、人々にお題目を唱えることを勧め教化をされましたが、御本尊様は顕されておりませんでした。その御本尊様が顕されたのは竜の口法難以後です。そこで、御化導の上から拝しますと、佐渡以前と佐渡以後の違いは、御本尊様を顕されたか否か、ということになります。

 御本尊様に関する大聖人様の御教示は、佐渡以前には、『唱法華題目抄』に

「本尊は法華経八巻・一巻一品・或は題目を書いて本尊と定むべしと、法師品並に神力品に見えたり。又たへたらん人は釈迦如来・多宝仏を書いても造っても法華経に左右に之を立て奉るべし。又たへたらんは十方の諸仏・普賢菩薩等をもつくりかきたてまつるべし」(新編御書・二二九頁)

とある如く、法華経八巻、一巻一品、或はお題目、さらには釈尊や多宝如来等を本尊とすることが示されております。また、
『善無畏三蔵抄』には

「大覚世尊は我等が尊主なり。先ず御本尊と定むべし」  (新編御書・四三九頁)

と仰せになられ、釈尊を本尊とすることが示されております。

 これは大聖人様が御本懷を顕される以前の御教示であり、「佐渡以前の教えは釈尊の爾前経と思いなさい」との御教示から拝すれば、釈尊や法華経を本尊とすることは、大聖人様の御本意ではない、ということです。

 竜の口で発迹顕本をされた大聖人様は、出世の御本懷である一切衆生皆成仏道の利益ある御本尊様を顕されるにあたって、先ず『開目抄』をもって「人本尊」を明らかにされます。人本尊とは日蓮大聖人様が末法の仏様であられる、ということです。『開目抄』では、五重相対の御法門を明かされます。五重相対とは、一、内外相対 二、大小相対 三、権実相対 四、本迹相対 五、種脱相対です。この教相判釈の上から、末法の衆生は過去世において善根を積むことなく、仏種を受けておらない本未有善の衆生ですから、

「一念三千の法門は但法華経の本門寿量品の文の底に(秘し)沈めたり」 (新編御書・五二六頁)

との下種の教えである文底の南無妙法蓮華経と受けたもつことが肝心であることを明らかにされました。その最高の教えである南無妙法蓮華経を人々に教え弘める日蓮大聖人様のお振る舞いが、経文に予証された末法出現の仏と同一であり、日蓮大聖人様こそ、末法御出現の主師親三徳兼備、無作三身如来であられることを示されたのが『開目抄』を顕された意義です。

 大聖人様の一身に具わった御本仏の色心を御本尊様として顕されたのであるという御教示が、『経王殿御返事』の、

「日蓮がたましひをすみにそめながしてかきて候ぞ。信じさせ給へ。仏の御意は法華経なり。日蓮がたましひは南無妙法蓮華経にすぎたるはなし」 (新編御書・六八五頁)

という御文です。

 次に『観心本尊抄』において「法本尊」を明らかにされます。本尊抄では、五重三段をもって文底下種の南無妙法蓮華経を顕されました。五重三段は、一、一代一経三段 二、法華経一経十巻三段 三、迹門熟益三段 四、本門脱益三段 五、文底下種三段です。これも『開目抄』の五重相対と同じように、経文を判釈し、文底下種の教えを明らかにされるものです。『観心本尊抄』の

「在世の本門と末法の始は一同に純円なり。但し彼は脱、此れは種なり。彼は一品二半、此れは但題目の五字なり」(新編御書・六五六頁)

の御文において、釈尊の仏法と大聖人様の仏法の相違を示され、末法の法体を明かされるのです。すなわち、釈尊の教えは脱益の教えであり、釈尊の利益を蒙るのは過去において仏の教えを受けた者に限られるのです。それに対して、大聖人様の仏法は、下種の教えであり、過去に下種を受けていない末法の衆生が利益を蒙る教えであることを示されております。

 当抄の「此の大法のみ」と仰せになる意は、末法の濁世にあって、過去に善きことをしていない私たちであっても、何の心配もありません。その様な解脱をすることのできない人々のために、末法の本仏である日蓮が、南無妙法蓮華経の大法を説き、文底下種の教えを御本尊として顕し、あなた方の首にお掛けしたのですと。ですから、

「各々はかゝる法門にちぎり有る人なればたのもしとをぼすべし」

との、日蓮を頼りとして、素直で正直に日蓮の教えのままに修行に励みなさい、とのお言葉を有り難く拝するものです。

 鬱陶しい梅雨です。今年は雨が多いと予報されておりますが、信心を励まし、心にカビを生やさないように精進をいたしましょう。広布前進は折伏前進、と日如上人は仰せです。折伏を忘れない人の心にはカビは生えません。ご安心を。愚痴の心はカビだらけです。互いに注意をしましょう。潔き人生も今生です。執着の人生も今生です。共に来世があります。来世のための信心です。どちらがよいか、申すまでもありません。御参詣の皆さまの益々のご精進をお祈りします。

文責編集部 転載複写等禁止



日蓮正宗向陽山佛乗寺