日蓮大聖人御書拝読と御法話

平成22年7月11日 宗祖日蓮大聖人御報恩御講拝読御書

四条金吾殿御書

四条金吾殿御書 (平成新編御書四七〇頁)
文永八年七月一二日  五〇歳

四条金吾殿御書 (御書四七〇頁)

日蓮此の業障をけしはてゝ未来は霊山浄土にまゐるべしとおもへば、種々の大難雨のごとくふり、雲のごとくにわき候へども、法華経の御故なれば苦をも苦とおもはず。かゝる日蓮が弟子檀那となり給ふ人々、殊に今月十二日の妙法聖霊は法華経の行者なり日蓮が檀那なり、いかでか餓鬼道におち給ふべきや。定んで釈迦・多宝仏・十方の諸仏の御宝前にましまさん。是こそ四条金吾殿の母よ母よと、同心に頭をなで悦びほめ給ふらめ。あはれいみじき子を我はもちたりと、釈迦仏とかたらせ給ふらん。


【通解】

 日蓮は、過去世の罪障を消滅して来世には仏の住む霊山浄土に生まれることが叶うと信じる故に、種々の大難が雨のように降りかかったり、雲が湧き出すように襲い来っても決して辛いとは思いません。何故ならば、それらは法華経を弘め、人々を成仏に導くための修行の結果として起こってくるものですから、周囲には苦しみと見えるかも知れませんが、日蓮にとっては苦しみではありません。
 このような日蓮の弟子檀那となった人々、特に今月の十二日が命日である妙法聖霊は、日蓮の教えることを素直に信じて、生前は法華経の修行に励んだ信徒でした。その様な方がどうして餓鬼道に堕ちることがありましょうか。反対に、釈尊や多宝仏や十方の諸仏の御宝前においでになります。そして、これらの仏様は、この方こそ四条金吾殿の母上である母上である、と申され全ての仏様が、同じ心でお母さんの頭を撫でて下さり、親孝行な子供を持ってよかったですね、と喜び、お誉めの言葉を掛けて下さっていることでしょう。また母上も、私は素晴らしい子供持つことができ有り難いことです、と釈尊に申し上げていることでしょう。



【語句の意味】

○業障 仏道修行を妨げる三障の一つ。五逆罪(殺父・殺母・殺阿羅漢・出仏身血・破和合僧)や十悪(偸盗・邪淫・妄語・綺語・悪口・両舌・貪欲・瞋恚・愚癡・殺生)等の業によっておこる。
○霊山浄土 霊山は法華経が説かれた霊鷲山の略。浄土は清き国土、常寂光土のこと。法華経が説かれた国土であり、仏の常住の国土であり、清浄な最高の住所をいう。
○法華経の御故 日蓮大聖人様が、末法の衆生に南無妙法蓮華経と唱えさせるために作されたことによって、多くの難を受けられたことをいう。この御文は、竜の口法難の二月前にあたる。
○かかる日蓮が弟子檀那 一切衆生の幸福を願って折伏をされる日蓮大聖人様の教えを信じて、共に折伏に励む弟子や信徒のこと。
○妙法聖霊 四条金吾の母の戒名。当抄の「今月十二日の妙法聖霊」と、文永九年の『四条金御殿御返事』の「而るを何なる御志にてこれまで御使ひをつかはし、御身には一期の大事たる悲母の御追善第三年の御供養を送りつかはされたる事、両三日はうつゝともおぼへず」(六二〇頁)の御文から、四条金吾の母は文永七年七月十二日に亡くなられたことが分かる。また、日蓮大聖人様が、「妙法聖霊」という戒名、法名を与えられたことも明らかである。「戒名や法名は成仏の上には何ら意味のなさないものであり、大聖人様の時にはなかったもので、江戸時代の檀家制度の悪弊である」といって、友人葬なる悪儀をすることが、日蓮大聖人様の教えに背いていることを証明する御文でもある。御書根本といいながら、御書をまともに読むことが出来ない謗法の姿である。自己流の御書解釈が、謗法であり堕地獄となる現証が今日の創価学会である。私共も、御書を拝するときには、御法主上人の御指南を根本とし、自分勝手な御書拝読にならないように充分注意をしなければならない。そのためにも、夏期講習会等で、御法主上人から直々に御講義を賜る機会をのがすことのないようにしたいものである。
○餓鬼道 物惜しみをする心に支配された者が、その報いとして受ける苦悩の状態をいう。三毒の一つである貪欲がその因である。子供のことを「餓鬼」というが、理性よりも欲望が勝る姿が端的に表れている。大人でも幼児性が抜けきらずに、貪欲が勝り、自分さえよければよい、という利己主義(エゴイズム)に支配された者が少なくない。ストーカー行為などによって自己を満足させる者も、執着という貪りの姿であり、餓鬼界そのものである。これらは総じて自己中心的であり、固執した思いから、協調性を欠く。執着が因となって受ける餓鬼界の苦しみを解決する方法は、執着を取り除く修行が肝要であり、布施行に励むことが大切になる。当抄で、四条金吾の母は決して餓鬼界には堕ちない、と大聖人様が断言されているのは、妙法聖霊が生前に折伏を含む布施行に励んでいたを物語っている。また、残された子が大聖人様に真心からの御供養をし、追善供養に心を尽くしているのですから、それらの功徳として、餓鬼界に堕ちるどころか、反対に釈尊を初め十方の諸仏に誉めていただくことが叶い、妙法聖霊は成仏の大功徳を受けていることは間違いない、とのお言葉なのである。母の来世のことが心配がいてもたってもいられない四条金吾でしたが、この大聖人様の仰せを拝した時の四条金吾の喜ぶ顔が目に浮んでくる。



【解説】

 当抄は、盂蘭盆にあたって四条金吾殿が母の追善供養を願い出たことに対する御返事です。当抄の冒頭に、

「雪のごとく白く候白米一斗、古酒のごとく候油一筒、御布施一貫文、態と使者を以て盆料送り給び候。殊に御文の趣有り難くあはれに覚え候」

とありますように、当抄が表された前年の文永七年七月十二日に亡くなられたお母さんの初盆のために、大聖人様に追善供養を願い出たときのものです。御文に「盆料」とあることに注目してください。盆料とはお盆の追善供養を願い出たときの「御供養料」という意味です。さらに、御供養をお送りすると同時に、四条金吾殿は手紙を認め大聖人様に質問をしております。質問の内容は、「亡くなった母が生前に犯した罪障の報いを受けて、生まれ変わった来世にあって苦しみの中に身を堕としているのではないかと心配でなりません。どうか、母の来世を助けて下さい」というものでした。それに対して大聖人様は、「亡き母上のことを思う貴男の親孝行なお心は、誠に希なことであり、貴いお気持ちです」と述べられております。

 また、四条金吾殿が亡き母のことを思う心が、「雪のごとく白く候白米・古酒のごとく候油」である、と大聖人様は記されます。お米自体が貴重な時代です。雪のように白い米などそうそうあるものではありません。従って、この大聖人様のお言葉から、私たちは四条金吾殿が母を思う気持を推し量ることが出来るのです。亡き母に食べさせてあげたい、しかしお墓に御供えをしても食べてはもらえない。来世に餓鬼界に堕ちていたらひもじい思いをしていることだろう、どうにかして母の苦を取り除いてあげたい、という思いが、精根を込めて精米をした白米となり大聖人様への御供養となったのです。また古酒のように見える油も、ゴマを搾って油を取る過程で、繰り返し繰り返し漉し器で濾過をして、古酒のように透明感のある油を御供養したのです。これも母を思う気持ちの表れです。その様な四条金吾殿の思いを大聖人様はよくお分かりになっていました。ですからこのように記されるのです。さらに、品物だけではなく一貫文のお金も御供養されております。亡き方を思い、形だけではなく真心を込めて追善供養に励むことの大切さを御教示下さっている箇所です。

 さらに、お盆の行事は、目連尊者の母親の青提女が生前の慳貪の業によって餓鬼界に堕ちていたのを救ったことが起こりであることを述べられております。ただし、母の餓鬼界の苦しみを救うことは叶ったが、成仏に導くことは出来なかった。それは、目連尊者自身が成仏の功徳を受けていなかった為であり、目連尊者が法華経の修行をして成仏したときに初めて母も成仏した、と御教示です。これは、四条金吾殿に対して、母の来世の成仏を願うのであれば、子供である貴男自身が南無妙法蓮華経と唱え折伏を行じて修行することが大切である、ということを教えて下さるものです。

 当抄に「我が身いまだ法華経の行者ならざる故に母をも仏になす事なし」・「南無妙法蓮華経と唱へて多摩羅跋栴檀香仏となり給ひ、此の時母も仏に成り給ふ」とあります。このお言葉で、法華経以外の教えでは父母を成仏に導くことが出来ない事と、子が修行をして成仏の功徳を受けることによって父母も導くことが出来る、という二つの大事なことが示されております。

 葬儀や法事の時に、日蓮正宗では、信徒もお経を読みお題目を唱えます。一方、天台宗・真言宗、また禅宗や浄土宗などの宗派では僧侶だけが読経をし、檀家といわれる人達は黙って座っているだけです。この違いが、亡き方が成仏をするか反対に地獄の苦しみを受けるかの分かれ目です。阿弥陀経や大日経は真実の教えを説かれたものではなく、仮りの教えとして説かれたものです。真の教えでありませんから、修行についても正しいことは説かれていないのです。だから、読経唱題をするというようなことがないのです。また、それらの教えには貪瞋癡の三毒に犯された罪障の深い私たちを導く力はありません。そこで、日蓮大聖人様は、最高の教えである法華経を読み、法華経の文の底に秘められている南無妙法蓮華経のお題目を唱へ、折伏を行じて自らが成仏の功徳を受けてこそ父母を初めとして、亡き方を導くことが叶うのである、と教えて下さるのです。

 以上のようなことから日蓮正宗では、葬儀や法事はもちろん、お盆・お彼岸の時などの心構えとして、追善供養は残された方々の修行の場である、と説くのです。塔婆を建立して僧侶にお経を読んでもらって亡き方が成仏する、という世間一般の姿から、一歩深く入った処に真の成仏が表れることを忘れてはなりません。
 
 しかし、だからといって、自分だけ勤行唱題をし、回向をすれば、亡き方の成仏は叶えられる、だから僧侶に願い出て追善供養をする必要ない、という創価学会流の誤った修行では日蓮大聖人様の信仰をしているとは言えません。もしそれが正しいのであれば、当抄で四条金吾殿に対して日蓮大聖人は「願い出を受けてお盆のお経を致しました」とは仰せにならないはずです。つまり、僧俗和合した信心の意義がここにも示されていると拝するべきなのです。四条金吾殿は、真心のこもった白米や油やお金を御供養しました。そのことが四条金吾殿自身の修行であり、成仏の功徳はそこに備わるのですぞ、と大聖人様が教えて下さっているのです。このことを忘れると、折角の追善供養も無きに等しいものになります。

 大聖人様が四条金吾殿を通して教えて下さるように、亡き方々のために追善供養に励むことは、亡き方の成仏は勿論のこと、生きている私たち自身の成仏への修行であることを銘記し、お盆の月の精進を重ねましょう。

 暑い季節になりましたが、暑い暑いといっても涼しくはなりません。暑さを受け入れ、工夫を重ね乗り切って参りましょう。

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日蓮正宗向陽山佛乗寺