日蓮大聖人御書拝読と御法話

平成22年8月1日 永代経

観心本尊抄

〜 日蓮大聖人御一代 その八 〜

観心本尊抄 (平成新編御書六四八頁)
文永一〇年四月二五日  五二歳

観心本尊抄 (御書六四八頁)

問うて曰く、経文並びに天台・章安等の解釈は疑網なし、但し火を以て水と云ひ墨を以て白しと云ふ、設ひ仏説たりと雖も信を取り難し。今数他面を見るに但人界に限って余界を見ず、自面も亦復是くの如し。如何が信心を立てんや。答ふ、数他面を見るに、或時は喜び、或時は瞋り、或時は平らかに、或時は貪り現じ、或時は癡か現じ、或時は諂曲なり。瞋るは地獄、貧るは餓鬼、癡かは畜生、諂曲なるは修羅、喜ぶは天、平らかなるは人なり。他面の色法に於ては六道共に之有り、四聖は冥伏して現はれざれども委細に之を尋ぬれば之有るべし。
 問うて曰く、六道に於て分明ならずと雖も、粗之を聞くに之を備ふるに似たり。四聖は全く見えざるは如何。答へて曰く、前には人界の六道之を疑ふ、然りと雖も強ひて之を言って相似の言を出だせしなり、四聖も又爾るべきか。試みに道理を添加して万が一之を宣べん。所以世間の無常は眼前に有り、豈人界に二乗界無からんや。無顧の悪人も猶妻子を慈愛す、菩薩界の一分なり。但仏界計り現じ難し、九界を具するを以て強ひて之を信じ、疑惑せしむること勿れ。法華経の文に人界を説いて云はく「衆生をして仏知見を開かしめんと欲す」と。涅槃経に云はく「大乗を学する者は肉眼有りと雖も名づけて仏眼と為す」等云云。末代の凡夫出生して法華経を信ずるは人界に仏界を具足する故なり。(御書・六四八頁)


【通解】

 質問いたします。経文や天台大師・章安大師等が経文を解釈されたものを疑うわけではありませんが、火を水といい、墨を白いと言っているように思えます。たとえ仏の説かれたことであっても、信じ難いものがあります。現在、私たちに見ることができるのは人間界のみで他の面を見ることができません。自らにあっても他の界を見ることはできません。したがってどうして信ずることができましょうか。

 答えます。他人の顔を見るときに、ある時には喜びの顔をしています。ある時には瞋の顔をしています。ある時には平安な顔です。ある時には貪りが表面に現れ、ある時には癡かな振る舞いになり、ある時には媚びへつらうようなこともあります。瞋るのは地獄界です。貪るのは餓鬼界です。癡かなのは畜生界です。諂曲は修羅界であり、喜ぶのは天界です。平穏なのは人界です。このように他人の顔や行いを見るときに、地獄界から天界までの六界が具なわっていることがわかります。声聞界・縁覚界・菩薩界・仏界のすぐれた四種類の境涯は隠れていて表面上はわかりませんが、よくよく考えてみれば具わっているのです。

 質問いたします。私たちの心の中に、地獄界から天界までの六道を具えていることを少しは理解しました。しかし、四聖を見ることはできないのは何故でしょう。

 答えます。前には人界に六道が具わっていることを疑いました。ところが例を挙げ、強く説いたところ理解ができるようになった、と言う段階にいたりました。四聖が人界に具わっていることも同じように理解できるでしょう。試みに道理の上から全てを述べ尽くすことはできないがその一分を示しましょう。いわゆる世間で言うところの無常でありますが、それは私たちは常に目にしているところです。無常は声聞界の者や縁覚界の者が修行の対象として観察をしていることがらです。その無常を知っている人界にどうして声聞界と縁覚界が具わっていないと言えましょうか。 また他者を全く顧みることのない悪人であっても妻や子を慈しみ愛します。これは菩薩界の一分が現れたものではありませんか。但仏界ばかりは表面に現れがたいものです。しかしながら、九界を具えていることから類推して仏界を具えていることを疑ってはなりません。法華経の方便品に、人界に仏界を具えていることが説かれています。「衆生をして仏の知見を開かせる」というものです。また、涅槃経には「大乗経典を学ぶ者は、凡夫の眼であってもそれは仏の眼で仏法を学んでいることになる」等々です。このお経文のように、末法に生まれあわせて法華経を信じるのは、人界に仏界を具えているからです。


 以上のように、大聖人様は本尊抄で私たち人界の衆生にも仏界が具わることを御教示です。しかし、十界を具えていると言っても、地獄の苦しみや餓鬼界の執着心は納得するところですが、仏界といわれると、信じがたいものです。但し、俺には仏界がある、と言う人の心は仏界よりも地獄・餓鬼・畜生。修羅の心に支配されていると言えます。今日は、その四種類の心を観てみたいと思います。


@地獄界=地は最低の意味。獄は囚われる束縛されること。つまり、心身共に囚われ束縛された自由のない最も深い苦しみの生命状態を指します。本尊抄で「瞋るは地獄」と仰せになります。瞋るという漢字は、目をいっぱいに開けて怒ることを表しており、深い苦しみにの中にあって、自分自身の力ではどうすることもできない状況を自分自身で瞋っている姿を示されているのです。

A餓鬼界=物質に執着し、湧き起こる欲望を抑えきれない心の状態。食偏に我と書いて餓と読みますように、食べ物を我が身一人で独占しようとする姿ほど浅ましいものはありません。お金や着る物に執着があると餓鬼界の苦しみを受けるようになります。反対にいえば、物質に執着している心は餓鬼界の心です。「貪るは餓鬼」と仰せのように、欲深くものを欲しがったり、際限のない欲望は地獄界に次いで苦しいものであることがわかります。

B畜生界=畜生、つまり犬や猫などの動物は本能のおもむくままに生きております。中には救助犬や盲導犬のように訓練の結果本能を表に出すことのない畜生界もありますが、ほとんどの畜生は本能のままに生きていることから、人界の衆生にあっても、動物のように理性も働かさず、強い者には尻尾を振り、弱いものには牙をむくような振る舞いは畜生界の姿です。「癡かは畜生」との仰せはまさに動物の振る舞いでしょう。以上を三悪道といいます。

C修羅界=自己中心的な心に支配され、争いごとを好み「他に勝つ」という思いに執われている姿。俺が俺がとの思いは他に対して優位を持ちたいという心であり、それが叶わないときに怒りを露わにします。「諂曲なるは修羅」と大聖人様は仰せですが、諂曲の心に支配された者の姿を『十法界明因果抄』で、
「第四に修羅道とは、止観の一に云はく『若し其の心念々に常に彼に勝らんことを欲し、耐へざれば人を下し他を軽しめ己を珍(たっとぶ)ぶこと鵄の高く飛びて視下ろすが如し。而も外には仁・義・礼・智・信を揚げて下品の善心を起こし阿修羅の道を行ずるなり』」 (御書・二〇八頁)
と示されます。これは、天台大師の『摩訶止観』を引用され、「修羅界の者は、常に他人に勝とうとしており、それが叶えられないときには、自らより勝れている人のことの悪口を言って自分がいかに勝れているかを吹聴する。このような様は、鷲や鷹のように力がない鳶が、さも力があるように見せかけ、上空から見下しているのとなんらかわりがない。しかも、外に向かっては、『仁・義・礼・智・信』を具えているように振る舞う。このような見せかけだけの『下品の善心』から常に他者に勝とうという修羅の道を歩んでいるのである」と修羅界の姿を教えられたものです。

 仁・義・礼・智・信は五常といい、儒教では常に守らなければならない五つの項目です。このようなことを守っているように見せかけても中身がなければそれは上・中・下とある中で最も下に位置する善心である、というのです。「悪心」でないところが良い、と思うかも知れませんが、少しの「善心」はむしろ人々を惑わす因となりますから、良いことではありません。このような修羅界の者に惑わされ攪乱される事が少なくないのが私たちですから、用心をしておく必要があります。

 以上を纏めて「四悪趣」といいます。来月は「人界」からです。

以 上

仁・・・思いやりの心もつこと

義・・・正しいおこないをすること

礼・・・豊かな心を示すこと

智・・・正しい判断をすること

信・・・周りの人から信頼されること

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