日蓮大聖人御書拝読と御法話

平成22年12月12日 日蓮大聖人御報恩御講拝読御書

十字御書

十字御書 (平成新編御書一五五一頁)
弘安四年一月五日  六〇歳

十字御書 (御書一五五一頁)

 十字一百まい・かしひとこ給び了んぬ。正月の一日は日のはじめ、月の始め、としのはじめ、春の始め。此をもてなす人は月の西より東をさしてみつがごとく、日の東より西へわたりてあきらかなるがごとく、とくもまさり人にもあいせられ候なり。

 抑地獄と仏とはいづれの所に候ぞとたづね候へば、或は地の下と申す経もあり、或は西方等と申す経も候。しかれども委細にたづね候へば、我等が五尺の身の内に候とみへて候。さもやをぼへ候事は、我等が心の内に父をあなづり、母ををろかにする人は地獄其の人の心の内に候。譬へば蓮のたねの中に花と菓とのみゆるがごとし。仏と申す事も我等が心の内にをはします。譬へば石の中に火あり、珠の中に財のあるがごとし。我等凡夫はまつげのちかきと虚空のとをきとは見候事なし。我等が心の内に仏はをはしましけるを知り候はざりけるぞ。たゞし疑ひある事は、我等は父母の精血変じて人となりて候へば、三毒の根本、淫欲の源なり。いかでか仏はわたらせ給ふべきと疑ひ候へども、又うちかへしうちかへし案じ候へば、其のゆわれもやとをぼへ候。蓮はきよきもの、沼よりいでたり。せんだんはかうばしき物、大地よりをいたり。さくらはをもしろき物、木の中よりさきいづ。やうきひは見めよきもの、下女のはらよりむまれたり。月は山よりいでて山をてらす、わざわいは口より出でて身をやぶる。さいわいは心よりいでて我をかざる。

 今正月の始めに法華経をくやうしまいらせんとをぼしめす御心は、木より花のさき、池より蓮のつぼみ、雪山のせんだんのひらけ、月の始めて出づるなるべし。今日本国の法華経をかたきとして、わざわいを千里の外よりまねき出だせり。此をもってをもうに、今又法華経を信ずる人はさいわいを万里の外よりあつむべし。影は体より生ずるもの、法華経をかたきとする人の国は、体にかげのそうがごとくわざわい来たるべし。法華経を信ずる人はせんだんにかをばしさのそなえたるがごとし。又々申し候べし。

  正月五日                       日蓮  花押

をもんすどのゝ女房御返事


【通解】

 正月の御本尊様への御供養として、蒸し餅を百枚、干し柿やかちぐりなどの菓子を一籠、確かにお受けし、御宝前にお供えをいたしました。正月の一日は日の始めであり、月の始めであり、年の始めであり、春の始めです。つまり、一切のはじめということです。

 この正月を大切にして修行に励む人は、たとえば、月が西の空から東の空に向かってだんだんと満ちてゆくように、太陽が東から西に向かって大地を照らし出して行くように、徳が増して、まわりの人たちからもさらに大切にされるようになります。

 さて、地獄(苦しみ)の世界と仏(慈しみ)の世界はどのようなもので、それがどこにあるのかを尋ね求めてみますと、ある経文には、地獄の世界は大地の下にある、と説かれています。また、ある経文には、仏の世界は娑婆世界西方にある浄土にある、と説かれおります。しかし、よくよく経文を開き拝読しますと、仏の世界も地獄の世界も私たちの心の中にあることが明らかです。そのように思ってよくよく考えてみますと、私たちが、父親や母親を粗略にする時は、私たちの心の中にある苦しみが表面に出ている姿であると理解されます。たとえば、蓮華の種の中に花と実が一緒にあるのと同じです。仏の心もこれとまったく同じで、私たちの心の中に仏の心はあるのです。たとえば、石を打ち合わせると火が出るように、珠を磨けば宝物になるように、仏の心も私たちの中にあるのです。私たち凡夫が、目の上にあるまつげや、宇宙のはてを見ることはできないのとおなじように、一番近い自らの生命の中に、尊い仏の世界があることに気づいてはおりません。

 ただし、そのように説かれていたとしても疑いがあります。それは、私たちが父母の精気や血液を受け継いで人となっているからです。したがって、凡夫の根本をなす貪りや瞋りや癡かな心や、みだらな欲望がものごとの始めにある私たちに、どうして仏の世界があるのか、ということです。しかし、よくよく考えてみますと、そのように説かれることも、なるほど、と思えます。その理由は、蓮の花は清浄な美しい花を咲かせますが、根は濁った泥沼にあります。栴壇は良い香りの木ですが、不淨とされる大地から芽を出します。春になると心を和ませる桜も、冬の間は木の中に隠れており見えませんが、やがて芽を出し花を咲かせます。美女の代名詞になっている楊貴妃も、身分の低い母から生まれました。月は山の端から出て天空に昇ると、山を照らします。これと同じように悪口を言ったならば、それは我が身に返り身を滅ぼすことになります。反対に、善い行いは心から出て我が身を功徳で飾るようになります。

 いま一年の始まりである正月に、あなたは御本尊様の御前から出発されます。御本尊様のもとから出発することは、枯れていたと思われた木から花が咲きほこるように、濁った泥沼の中で蓮が清らかなつぼみをつけるように、雪山に栴壇の木がが育つように、真っ暗な闇夜に月が始めて出て、すべてを照らし出して明らかになるようなものです。まことに大きな功徳を積むことができるのです。

 このような仏法で説き明かされる原因と結果の法則から考えると、現在の日本国中の人々は残念ながら御本尊様を敵のように思っております。ゆえに、わざわいを千里もの遠くから呼び寄せているのです。また、この法則を御本尊様の信仰に励む人の上にあてはめて考えますと、功徳が万里の遠くから集まってきます。影は本体より生まれます。御本尊様を謗る人の住む国は、本体から影が生まれるように災い襲われるのです。ありがたいことに、御本尊様にお題目を唱える私たちには、香りの良い栴壇がもっと香りが良くなるように、さらに大きな功徳を頂くことができます。

 この度はこれで失礼してまた申し上げましょう。

 正月五日                 日蓮 花押

をもんすどのの女房御返事


 この『十字御書』御書は総本山の北にある重須の地頭、石川新兵衛能助の夫人に与えられたものです。石川家は重須の地頭であったことから重須殿と呼ばれておりました。その夫人ですから重須殿女房と大聖人様は仰せになっております。重須殿女房は総本山大石寺を建立寄進した上野郷の地頭・南条時光の姉にあたります。

 当抄は、正月に際し、末法の御本仏・日蓮大聖人様に御供養を申し上げる重須殿女房のご信心をお誉めくださったものです。冒頭の「十字一百まい」とあることから『十字御書』と名前がつけらました。御真筆は総本山に厳護されており、毎年四月に奉修されます御虫払会の折に拝することが出来ます。

「十字」と書いてむしもちと読むのは、蒸した餅に十文字の切れ目を入れたことに由来するといわれております。蒸し餅は杵でついた餅と違い、米の粉を練ったものを蒸して作るもので、蒸したときに熱が回りやすいように切れ目を入れたようです。正月などにの御祝のときに作り、御本尊様に御供えしたことが分かります。

 弘安二年十二月二十七日の『窪尼御前御返事』(御書・ 一四三六頁)には、
「十字五十まい、くしがき一れん、あめをけ一つ送り給び了んぬ」
とあります。窪尼が正月をひかえた暮れの二十七日に蒸した餅や串柿などを御供養したことへの御返事の御書です。

弘安元年一月三日の『上野殿御返事』でも、
「元三の内に十字九十枚、満月の如し。心中もあきらかに、生死のやみもはれぬべし」(御書・一三五〇頁)
とあります。元三とは正月の三が日のことです。餅を満月の如し、と仰せになり、正月を御祝いする南条時光の心のこもった御供養を、満月の光りに譬え、心の闇を明らかにして、生死の苦しみから離れることが出来る、と御教示です。さらに、弘安三年正月三日の『上野殿御返事』でも、
「人は善根をなせば必ずさかう。其の上元三の御志元一にも超へ、十字の餅満月の如し」(御書・一四四六頁)
と述べられております。御本尊様への御供養は善根を積む修行であり、その功徳により末永く栄えることになる、とここでも正月を大切にする功徳の大きさを示されております。

 当抄では、正月は一日の始まり、月の始まり、年の始まり、春の始まり、と仰せられ、一月一日を、社会生活の一切が新しくなり、新たな心持ちで第一歩を踏み出す時である、とその意義を賛嘆されております。生まれたときの汚れのない心に立ち帰って、新たな気持ちで進んでいこう、と前向きな心をもって正月の御祝いすることをは意義深きものです。ここに、昨日までの自分とは違う、との蘇生の義を込められているのです。

 日蓮大聖人様は秋元太郎兵衛という千葉県の印旛郡に住していた信徒に遣わされた、『秋元殿御返事』と名付けられた御書の中で、
「正月は妙の一字のまつり」
と仰せです。祭りという漢字の同類に、擦(汚れを擦り取る)・察(汚れを取ってよく見る)があります。このことから、日時を定め、祭礼を行うことは、心の中にある汚れを取り除く意味を込めて「祭り」とされるのだ思います。ですから、正月を妙の祝として大切にすることは、生命の中に沈殿した汚れを取り除き、清浄な本来の命にたちかえることが出来るのです。『法華題目抄』には、
「妙は開く義、妙は円満の義、妙は蘇生の義(乃至)蘇生と申すはよみがへる義なり」(御書・三六〇頁)
とあります。「蘇生の義・よみがえる義」は、生きかえる、失っていた活力を取り戻すことです。妙法の不思議な力はすべてをよみがえらせる大きな功徳があることを教えて下さるお言葉ですから、妙の祭りである正月を、一年三百六十五日の中の一日にしか過ぎない、と考えるのは勿体ないことです。一年に一回のチャンスである、ととらえることで大きな功徳を受けることができるのです。

 さて、当抄はわかりやすいお言葉と譬えを用いて御教示下さっておりますから、大聖人様の御教えをよく理解することが出来ます。なかでも、
「抑地獄と仏とはいづれの所に候ぞとたづね候へば、或は地の下と申す経もあり、或は西方等と申す経も候。しかれども委細にたづね候へば、我等が五尺の身の内に候とみへて候。さもやをぼへ候事は、我等が心の内に父をあなづり、母ををろかにする人は地獄其の人の心の内に候。譬へば蓮のたねの中に花と菓とのみゆるがごとし。仏と申す事も我等が心の内にをはします。譬へば石の中に火あり、珠の中に財のあるがごとし。我等凡夫はまつげのちかきと虚空のとをきとは見候事なし。我等が心の内に仏はをはしましけるを知り候はざりけるぞ」
の御文は、仏様のお悟りの根本である「一念三千(いちねんさんぜん)」を端的に示されたものです。つまり、地獄界も仏界も私たちの一瞬の命の中にあるというお言葉で、十界互具一念三千の深い法理をこのように言い表されているのです。釈尊は法華経を説き、仏の久遠の命を示されました。それと同時に衆生も仏と同じように三世の命があることを明かされております。このことを、中国の天台大師は摩訶止観のなかで「此の三千一念の心に在り」と述べ、一念三千の法門として説き示しております。「此の三千一念の心に在り」という天台の言葉も、「仏は我等が五尺の身の内におわします」との大聖人様のお言葉も「即身成仏」を言い表されたもので、法華経の修行をすることによってのみ叶えられる功徳なのです。

 法華経が説かれる前の諸経、念仏の宗が読んでいる阿弥陀経や真言宗の人達が頼みとしている大日経、また宗派を問わずに有り難がっている般若心経などにおいては、仏に成る、ということは説かれますが、言葉のみでその実体がありません。成仏が確かなものとして明らかにされたのは、法華経の寿量品で、釈尊の久遠が明かされたことによります。

 インドに出現された釈尊は、その遙か以前から仏として人々を導いてきたこと、さらに仏に成る以前に、菩薩の修行があったことが明かされて、はじめて仏様としての真実のお姿が表れたのです。このことを「本因本果の法門」といいます。『開目抄』で
「本門にいたりて、始成正覚をやぶれば、四教の果をやぶる。四教の果をやぶれば、四教の因やぶれぬ。爾前迹門の十界の因果を打ちやぶって、本門十界の因果をとき顕はす。此即ち本因本果の法門なり。九界も無始の仏界に具し、仏界も無始の九界に備はりて、真の十界互具・百界千如・一念三千なるべし」(御書・三五六頁)
と仰せになるごとくです。つまり、仏様の生命も私たちの生命も無始、即ち久遠の昔から未来永遠に続くものであることを教えて下さる御文です。

 ただし、私たちは無明惑という根本の煩悩によって、自らの心の中に仏様の心があることを忘れてしまっております。そのことを、まつげと虚空の譬えをもってお示しです。まつげはあまりにも近くて見えません。宇宙も大きく広く無限であることから、到底理解しがたいもの、という先入観に執われ、見えているようで見えなくなっているのではないでしょうか。あることがわかっていても、近すぎて見えないまつげと、大きすぎて見えていても見えない虚空。このように無明の表れた生活を改めて、真実の姿が見えるようにすることを目的として仏道修行があるのです。

 生まれたときは汚れなき純真無垢な心です。ところが、成長するにつれて良い知恵も具わりますが、良くない心も成長します。無明はよろしからぬ心に譬えることが出来ます。悪心を改め、純真無垢な心に立ち帰り新たな出発をしよう、という意義が正月の行事には込められております。

 御本尊様の御前から、新しい年の一歩を踏み出す功徳を、「徳も勝り人にも愛せられ候なり」・「幸いは心より出て我を飾る」・「法華経を信ずる人は幸いを万里の外よりあつむべし」と仰せ下さる大聖人様の御心を我が心として、仏道修行に励むことが成仏の功徳を受ける唯一の道です。

 年末をひかえ慌ただしい世相のなかにあります。政治・経済を含めあらゆる面で「難事」がおこっております。しかし、よく考えてみれば末法ですから当たり前なのでしょう。有り難いことに、私たちには御本尊様がおわします。御本尊様第一に、唱題と折伏に励み、穢土即寂光土を目指して精進を重ね、清々しい新年を迎えましょう。

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日蓮正宗向陽山佛乗寺