日蓮大聖人御書拝読と御法話

平成23年1月9日 日蓮大聖人御報恩御講拝読御書

法華取要抄

法華取要抄 (平成新編御書七三五頁)
文永一一年五月二四日  五三歳

法華取要抄 (御書七三五頁)

問うて曰く、誰人の為に広開近顕遠の寿量品を演説するや。答へて曰く、寿量品の一品二半は始めより終はりに至るまで正しく滅後の衆生の為なり。滅後の中には末法今時の日蓮等が為なり。疑って云はく、此の法門前代に未だ之を聞かず、経文に之有りや。答へて曰く、予が智前賢に超えず、設ひ経文を引くと雖も誰人か之を信ぜん。卞和が啼泣(ていきゅう)、伍子胥(ごししょ)の悲傷(ひしょう)是なり。然りと雖も略開近顕遠(りゃっかいごんけんのん)・動執生疑(どうしゅうしょうぎ)の文に云はく「然も諸の新発意の菩薩、仏の滅後に於て、若し是の語を聞かば、或は信受せずして、法を破する罪業の因縁を起こさん」等云云。文の心は寿量品を説かずんば末代の凡夫皆悪道に堕せん等なり


【通解】

質問いたします。誰のために広開近顕遠が明かされた寿量品が説かれたのでしょうか。
お答えいたします。寿量品と従地涌出品第十五の後半部分及び分別功徳品第十七の前半部分は、始めから終わりまで滅後の衆生のために説かれたものです。滅後の中でも特に末法の日蓮等のためです。
疑問があります。このような法門はこれまでに聞いたことがありません。経文に説かれているのでしょうか。
お答えいたします。私の智慧は前代の聖人賢者を超えるものではありませんので、たとえ経文を引いて説明をしても誰も信じることができないでしょう。卞和が璞玉、伍子胥の悲傷のようなものです。信じられないかも知れませんが、略開近顕遠・動執生疑が明かされた経文には、「新たに最高の求道心を起こした初心の菩薩が、この語を聞かなければ、あるいは信受することができず、正法を破壊する罪業を積む原因とその縁となる」と説かれています。この経文の心は、寿量品が説かれなければ末代の凡夫は全員悪道に堕ちる、ということです。 


【語句の意味】

○広開近顕遠=広く近を開いて遠を顕すこと。法華経の寿量品で明らかにされる法門。近は近成、つまり近くで仏に成ったいいで、始成正覚をいう。遠は遠成のことで、久遠の遠き昔に仏に成ったいいで、始成正覚に対する久遠実成のことをいう。つまり、インドに出現した釈尊が、十九歳で出家をして三十歳で覚りを開き、八十歳の涅槃まで種々の教えを説いて人々を導いた歴史上の事蹟のさらにその奥に、久遠の昔に修行をして仏に成り、それ以来この娑婆世界にあって人々を導いてきたことが明かされたこと。さらに、この広開近顕遠にも文上と文底の二通りがある。文上の広開近顕遠は天台大師が法華文句等で説かれたもので、ここで明かされる久遠は「五百塵点劫」をいう。五百塵点劫という私たちの想像を絶する遙か遠い昔であるが、それはまだ有限の時を意味している。それに対して日蓮大聖人様の説き明かされる文底の久遠は、「五百塵点劫の当初(そのかみ)」である。大聖人様は、『法華取要抄』等で、天台の説く広開近顕遠も文底からすれば略開近顕遠であるとされる。

○卞和が啼泣=中国・周の時代の故事。楚の国の卞和は、磨いてはいないが、紛れもない最高の宝石を持っていた。この宝石を磨くと最高の宝石になることがわかっていた卞和は、「磨けば最高の宝石になります」と楚の国王に献上したところ、信じられない国王は、王を欺くものであるとして、卞和の左足を切断した。次の王が即位したときにも、再び宝石を献上したが、今後は右足を切断されてしまった。残念でならない卞和が声を上げて泣いているところに通りかかった文王が、理由を聞いて玉を磨かせたところ、言うとおり宝の玉であった。このことから、正直で真実の言葉も、時によって用いられないことの譬えとして、「卞和が璞玉」と言う言葉がある。

○伍子胥の悲傷=中国・春秋時代の故事。伍子胥は最初楚の国に仕えていたが、父と兄を殺されたことで呉に逃れて家臣となった。呉の家臣として越の国を打ち破った時に、越の反撃があると進言したことから王の逆鱗にふれて自害させられた。その時に、「越によって呉が滅ぼされる様子を見よう」といって眼をくり抜いて呉の城門に掛けておくように遺言した。やがて予言通りに越によって呉は滅ぼされた。

○略開近顕遠=ほぼ近を開いて遠を顕すこと。法華経の従地涌出品第十五で、「我久遠より来、是れ等の衆を教化せり」と説かれ、仏の命が長いことを略(ほぼ)明かした。これを説くことによって、法を聞いている衆生に疑いの心が生じ、寿量品の説法に至のである。

○動執生疑=劣った法に執着している心を揺り動かし、疑いを生じさせることによって真実の法に導く化導の一つ。序品第一の弥勒菩薩、方便品第二の舍利弗、従地涌出品第十五の弥勒菩薩を代表とした動執生疑が説かれている。



十二月の御講において、『十字御書』を拝して、法華経が最も尊い教えである理由として朝夕読誦する法華経寿量品第十六に説かれていることから話をいたしました。ただしこれは法華経文上の教えにしか過ぎません。文上とはお経文の表面的な意味、ということです。日蓮大聖人様は『開目抄』で
「一念三千の法門は但法華経の本門寿量品の文の底にしづめたり」 (新編御書・ 五二六頁)
と仰せになります。ここにある「文の底」が文底の法門なのです。つまり、表面から一重奥に入った教えである、ということです。

そこで、本日は文底から@本因妙、A本果妙、B本国土妙について拝してみたいと思います。このことは、平成二十年十二月一日の永代経の時に申し上げたことがございますので、ご記憶されているかと思います。

折伏の時に「大聖人様か釈尊か」ということが問題になります。お経文を説かれたのはインドにお生まれになった釈尊なのだから仏様は釈尊である、それを日蓮大聖人様が仏様だというのは納得ができない、と言われたことがあるでしょう。そのような場面でこれから申し上げることを覚えておけば有益です。

法華取要抄で寿量品は末法の衆生のために説かれた、その中でも日蓮大聖人様の為である、と仰せの意は、寿量品が日蓮大聖人様の御本仏であることを証明される経文である、ということです。

即ち、釈尊は寿量品において、本因・本果・本国土を明らかにされ法華経こそ、それまでの教えとは違い、一切が整った純粋な欠けるところのない円満な教えであることを示されました。しかし、本因妙を説かれた寿量品の文に、「菩薩の道を行じ」とはありますが、どのような法をもとに菩薩の道を行じたかは説かれておらないのです。どのような修行であったかを釈尊は説かれませんでした。何故ならば、釈尊はそのお立場ではなかったからです。

日蓮大聖人様が、寿量品で「菩薩の道を行じた」時の法が「南無妙法蓮華経」であることを明かされ、真実の「本因本果」の法門となるのです。

日蓮大聖人様は、『開目抄』において、「人の本尊」であられることを明示され、『観心本尊抄』で「法の本尊」を説き示されました。その後に、『当体義抄』を顕され、「久遠元初・因果倶時不思議の一法」を覚られた仏を示されました。そして身延に入られた直後の『法華取要抄』で三大秘法の名目を明らかにされました。これらの一貫した御教示は、御本仏の御化導のお姿であることを証明してあまりあるものです。


@本因妙 【本因妙が修行を表します。どのような修行であったかというと、「菩薩道」です】

【経文】 「我本行菩薩道。所成寿命。今猶未尽。復倍上数」

【書き下し文】
「我(われ)本(もと)菩薩の道(どう)を行(ぎょう)じて、成(じょう)ぜし所の寿命、今猶(なお)未だ尽きず。復(また)上(かみ)の数(すう)に倍せり」(開結四三三)

【解説】
この寿量品の経文を依文(えもん)とし、釈尊が久遠の昔において菩薩道を修行したことを明かしています。依文とはより所となる経文、ということです。のお経文によって、釈尊が過去世において菩薩の修行をしたことと、その功徳として寿命を得たことを教えて下さっております。これを本因妙(ほんにんみょう)といいます。
本因妙とは、仏様が仏様になるための根本の修行のことです。因は修行をさします。私たち凡夫は仏道修行といいますが、仏様の修行は因行(いんぎょう)といいます。因行も修行もどちらも成仏のための修行ですが、あえて使い分けるところに深い意味があるように思います。憶えておけば便利です。仏法の言葉は漢語をそのまま使っておりますので現在の私たちにすれば難解難解ですね。ですが、一つ一つ見てゆけば英語や仏蘭西語とは違いますので理解することができます。励みましょう。

A本果妙  【本果妙は修行の功徳として、「成仏」、仏に成ったと示されております】

【経文】 「我成仏已来。甚大久遠」

【書き下し文】
「我(われ)仏に成ってより已来(このかた)、甚だ久遠なり」

【解説】
この経文を依文(えもん)とし、釈尊が久遠五百塵点劫(ごひゃくじんてんごう)において仏果(ぶっか)を成就したことを明かしています。五百塵点劫は別の言葉では久遠といいます。
これを本果妙といいます。本因の修行によって悟りを成就し、仏身(ぶっしん)を得たことです。仏身とは仏の身ですから別の言い方をすれば「成仏」となります。ですから仏様も因行を積んで仏果を得る、つまり修行をして成仏をした、ととかれるのです。私たちがお題目を唱へ折伏に励むのは私たちの修行です。その先に仏に成る、つまり成仏の功徳を受けることになりますから、仏様と我々の関係を、修行と結果に焦点を当てて考えれば、仏様も私たちも同じである、ということです。「日蓮大聖人様と私たちは同じである。仏法は平等です」という言葉を聞いたことがあると思います。これは池田大作流の短絡的な間違った考えです。仏様と我々は同じである平等であるという池田流の考えに支配されると成仏とはかけ離れた結果を招くことになります。あくまでも、根本の仏様と私たちには違いがある、と謙虚な心を忘れてはなりません。「平等」を振りかざすと慢心・増上慢・偏執の心になります。そしてそのような者は、やがて我が身ばかりが周囲に悪影響を及ぼし共に悪道に堕ちてしまうのです。もし貴方の周辺に「平等」を強調するような方がいたならば、注意が必要です。創価学会のようにならないためにも互いに誡めたいものです。

反対に仏様は特別なお方である、という気持ちが強くなると「差別」の心に支配されます。それは卑屈、諦めの心ですから成仏に遠くなります。仏法では平等即差別、差別即平等を教えてくれます。一切衆生が仏に成ることができる、という面は平等です。日蓮大聖人様に成仏の道を開いていただいた、だから日蓮大聖人様に感謝の心で過ごすのだ、という思いで御報恩御講を奉修するのは差別の面です。

先生と生徒の関係で考えると、先生から教えられたことを理解すれば先生と同じになれます。それが平等です。でも、教えてもらった、という恩は消えません。ですから、いつまでたっても先生は先生なのです。生徒は生徒なのです。親は永遠に親であり子はどこまで行っても子なのです。それを勘違いすれば先生を敬う心を失い、学ぶものをなくす不幸なものになります。親を親と思えないのは、感謝の念が欠如した人格の現れでしょう。そのように考えると、平等と差別の両方から物事を見たり考えたりすることができるようになれば、一歩仏様のお心に少しは近づいているのでしょうか。

B本国土妙 【本国土妙では、仏のとしての活動の場が此の娑婆世界である、と説かれております】

【経文】 「我常在此。娑婆世界。説法教化」

【書き下し文】「我(われ)常に此の娑婆世界に在って、説法教化(きょうけ)す」(開結四三一)

【解説】
この経文を衣文として本国土妙を明かされています。本国土妙とは、本仏(ほんぶつ)が住する真実の国土を明かすことです。阿弥陀経では、阿弥陀仏の国土は西方極楽浄土です。薬師如来は東方浄瑠璃世界です。つまり、娑婆世界の外に国土がありそこに住する仏様である、ということです。ですから、阿弥陀仏や薬師如来をいくら頼みとしても御利益を戴くことができないのです。しかし、法華経の仏様はこの経文に明らかなように、娑婆世界に常におわしましてお説法をされ私たちを導いて下さっている、と明言されております。ですから、法華経の仏様を私たちは頼みとして信心をするのです。言い換えれば、極楽浄土の仏様や東方浄瑠璃世界の仏様にいくら助けて下さい、と願っても聞き届けてはくれない、ということです。隣のお父さんやお母さんに助けて下さい、といっても、貴方のお父さんやお母さんにいいなさい、といわれるのと同じです。

○「本因妙の教主」

C『当体義抄』
「至理は名無し、聖人理を観じて万物に名を付くる時、因果倶時・不思議の一法之有り。之を名づけて妙法蓮華と為す。此の妙法蓮華の一法に十界三千の諸法を具足して欠減無し。之を修行する者は仏因仏果同時に之を得るなり。聖人此の法を師と為して修行覚道したまへば、妙因妙果倶時に感得し給ふ」 (新編御書・六九五頁)

【通解」
根源の法にはもともと名がつけられていなかった。その時に聖人が理を観じられ万物に名を付けられるとき、因と果が倶時している不思議な一法があった。これを名付けて妙法蓮華とした。この妙法蓮華の一法には十界三千の一切の法が具足されており欠けるところがない。したがて、この妙法蓮華を修行する者は仏の因行と仏の果徳を同時に得るのである。聖人はこの妙法蓮華を師として修行をされた時に即座に覚られた。これが妙法の因行であり妙法の果徳であり、即座の成仏である。

D『三世諸仏総勘文教相廃立(さんぜしょぶつそうかんもんきょうそうはいりゅう)』
「釈迦如来五百塵点劫の当初、凡夫にて御坐せし時、我が身は地水火風空なりと知しめして即座に悟りを開きたまひき」(新編御書・一四一九頁)

【通解】
釈迦如来が五百塵点劫の当初(そのかみに)凡夫であられたとき、我が身は地・水・火・風・空であると即座に悟られた。

折伏の時に、「どうしてお釈迦さんではないのでしか」と必ず質問されます。また、「一つだけ正しいといって他を批判するのは良くない」ともいわれます。そのようなときに、先月の御講の折に申し上げた、法華経において、釈尊の修行と功徳と教えが揃って明らかにされていることに合わせ、本日の、修行のもとを説き示されたのが日蓮大聖人様である、ということを伝えることによって、釈尊より日蓮大聖人様、法華経よりも南無妙法蓮華経、という筋道が伝えられます。

日蓮正宗の教えは、日蓮大聖人様が説き示された教えを日興上人が受け継がれ、日興上人から日目上人、日目上人から日道上人と代々の御法主上人が法統連綿と守り伝えて下さっているものです。

その中に「謗法厳誡(ほうぼうげんかい)」があります。謗法とは真実の教えを謗ることです。真実の教えは「南無妙法蓮華経」です。別に謗ってはいない、という者がいますが、信じないことが即謗っていることになるのが仏法です。

謗法厳誡は厳しい言葉のように感じます。しかし、この言葉を換言すると、「純粋に教えを守る」ことです。伝統を守ることには苦労があります。しかし、使命感に立って苦労に立ち向かうならば、結果の大きさを有り難く思えるときが必ずまいります。ともに励みましょう。             
大寒をひかえ厳しい寒さが続きます。新型インフルエンザも流行しており注意が必要です。だからといって引きこもっていたのでは使命を果たすことはできません。使命を果たす信心には御本尊様の御加護が必ずあります。寒さに負けずに元気に精進をいたしましょう。


以上

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日蓮正宗向陽山佛乗寺