日蓮大聖人御書拝読と御法話

平成23年6月12日 日蓮大聖人御報恩御講拝読御書

曽谷入道殿御返事

曽谷入道殿御返事 (平成新編御書七九四頁)
文永一二年三月  五四歳

曽谷入道殿御返事 (御書七九四頁)

方便品の長行書き進らせ候。先に進せ候ひし自我偈に相副へて読みたまふべし。此の経の文字は皆悉く生身妙覚の御仏なり。然れども我等は肉眼なれば文字と見るなり。例せば餓鬼は恒河を火と見る、人は水と見る、天人は甘露と見る。水は一なれど果報に随って別々なり。此の経の文字は盲眼の者は之を見ず、肉眼の者は文字と見る、二乗は虚空と見る、菩薩は無量の法門と見る、仏は一々の文字を金色の釈尊と御覧有るべきなり。即持仏身とは是なり。されども僻見の行者は加様に目出度く渡らせ給ふを破し奉るなり。唯相構へ相構へて異念無く一心に霊山浄土を期せらるべし。心の師とはなるとも心を師とせざれとは六波羅蜜経の文ぞかし。委細は見参の時を期し候。恐々謹言。

 文永十二年三月 日        日  蓮 花押

曽谷入道殿

(語句の意味)

○曽谷入道=曽谷二郎兵衛教信(そやじろうひょうえのじょうきょうしん)。元仁元年(一二二四年)〜正応四年(一二九一年)。千葉氏の家臣で、下総国八幡荘曾谷郷(現在の千葉県市川市曽谷)の領主。『立正安国論』を上程された文応元年頃の入信と伝えられています。後に大聖人様のもとで出家し、道号を「法蓮日礼」と賜っています。亡父の追善供養のために法華経の自我偈を毎日読んだ功徳を教え、親孝行を誉められた『法蓮抄』や、末法の流布する教えは南無妙法蓮華経であり、南無妙法蓮華経を流布する役目は地涌の菩薩であることなどの重要な御教示をされた『曽谷入道殿許御書』などの御書を与えられている。このことから、御法門にも秀でていたことがわかる。富木常忍や四条金吾と共に関東方面の信仰の中心者でした。

○方便品の長行=法華経方便品第二の長偈のこと。世雄偈ともいう。十如是の後に「爾時世尊。欲重宣此義。而説偈言。世雄不可量(爾の時に世尊、重ねて此の義を宣べんと欲して、偈を説いて言わく 世雄は量るべからず 諸天及び世人 一切衆生の類 能く仏を知る者無し)」と続きます。この方便品の十如是までに「略開三顕一」が説かれました。ほぼ(略して)声聞・縁覚・菩薩の心を開いて仏の心を顕す、ということです。さらに、「広開三顕一」といって、より確かに(ひろく)、三乗に執着した心を打ち破って仏の心に導く教えが説かれました。天台大師は文句で、方便品の次のところからがそれにあたる、と釈しております。

「爾時世尊。告舎利弗。汝已慇懃三請。豈得不説。汝今諦聴。善思念之。吾当為汝。分別解説。説此語時。会中有比丘。比丘尼。優婆塞。優婆夷。五千人等。即従座起。礼仏而退。所以者何。此輩罪根深重。及増上慢。未得謂得。未証謂証。有如此失。是以不住。世尊黙然。而不制止。爾時仏告舎利弗。我今此衆。無復枝葉。純有貞実。舎利弗。如是増上慢人。退亦佳矣。汝今善聴。当為汝説」

「爾の時に世尊、舎利弗に告げたまわく、汝已に慇懃に三たび請じつ。豈説かざることを得んや。汝今諦かに聴き、善く之を思念せよ。吾当に汝が為に、分別し解説すべし。此の語を説きたもう時、会中に比丘、比丘尼、優婆塞、優婆夷、五千人等有り。即ち座より起って、仏を礼して退きぬ。所以は何ん。此の輩は罪根深重に、及び増上慢にして、未だ得ざるを得たりと謂い、未だ証せざるを証せりと謂えり。此の如き失有り、是を以て住せず。世尊黙然として、制止したまわず。爾の時に仏、舎利弗に告げたまわく、我が今此の衆は、復枝葉無く、純ら貞実のみ有り。舎利弗、是の如き増上慢の人は、退くも亦佳し。汝今善く聴け、当に汝が為に説くべし」

この長行を書写して下さり、曽谷殿に与えられたのです。方便品読誦と長行に関しての御書及び日寛上人の御指南です。

※『月水御書』
「法華経は何(いず)れの品も先に申しつる様に愚(おろ)かならねども、殊(こと)に二十八品の中に勝れてめでたきは方便品と寿量品にて侍(はべ)り。余品(よほん)は皆枝葉(しよう)にて候なり。されば常の御所作には、方便品の長行と寿量品の長行とを習ひ読ませ給ひ候へ」(御書 303頁)


※日寛上人『方便品読誦の事』
「所破、借文の両義並びに顕本已後に約するなり。例せば十章抄に止観一部は法花経の開会の上に建立するなり、爾前外典の意には非ず、文をば借れども義をば削り捨るなりと云ふが如し云云。既に開会の上に於ては文をば借れども義をば削り捨ると云云。
「問ふ、当門流に於て或ひは十如を読み、或ひは広開長行に至る、其の謂れ如何。
答ふ、既にに是れ一念三千の出処なり。故に但十如を読めば其の義則ち足れり。然りと雖も、略開は正しき開顕に非ず、故に一念三千猶未だ分明ならず、故に仍ほ広開に至るなり」

○生身妙覚の御仏=生身は仏様の御身そのものをいい、妙覚は仏様の悟りの境界のこと。ゆえに、ここでは、お経文は文字ではなく仏様の御身そのものである、という意。
○餓鬼=餓鬼界の衆生のこと。生前に慳貪(けんどん・物惜しみをする)ことによって来世には餓鬼界に生まれると『盂蘭盆御書』には説かれている。地獄界・畜生界と同じく三悪道の一つ。

○恒河=ガンジス川のこと。

○果報=過去世での善悪の業因、種々の因縁による結果を現世に報いとして受けること。

○二乗=声聞界と縁覚界の衆生。人界や天界の衆生よりも一段知恵が優れているとされる。

○虚空=なにも妨げるものがなく全てのものが存在する空間。宇宙という場合もある。

○菩薩=菩提薩?(ぼだいさった)の略。悟りを求める人。利他を根本とした衆生。

○即持仏身=仏説観普賢菩薩行法経の文。「此の経を持つ者は、即ち仏身を持ち、即ち仏事を行ずるなり」と説かれる。

○僻見=偏った見方、考え方。邪な考え。

○六波羅蜜=大乗の菩薩が修行をすべき六種を説いた経文。六種は、@布施波羅密、A持戒、B忍辱波羅密、C精進波羅密、D禅定波羅密、E智慧波羅密。


(通解)

 法華経方便品第二の長行を書写し差し上げます。先に差し上げた法華経寿量品第十六の自我偈と共に読誦してください。この法華経の文字は、全て生身の仏様です。ところが、私たちは凡夫の眼ですから、筆で書かれた文字にしか見えません。例えていえば、同じガンジス川の水を見て、餓鬼界に堕ちて苦しむ衆生には燃えさかる炎に見えます。人界の衆生にはただの水に見えます。天界の衆生には甘露の味わいのある水に見えます。水は同じであっても見る者の過去世の因縁によって得た報いで別々に見えるのです。このお経文の文字を目の不自由な人は見ることが出来ません。凡夫は文字と見、二乗の境界にある者は虚空に見えます。また菩薩ははてしなく貴い教えであると見ます。さらに仏の境界にある者には一々の文字が釈尊と見えるのです。

 「此の経を持つ者は仏の身を持つことになる」と説かれるのはこのことです。しかし、曲がった心の者にはこのように有り難い教えを破るのです。そのようにならないために、十二分に用心をして、法華経以外の教えでも仏に成ることができる、というような異念をもたないで一心に霊山浄土を目標とすべきです。六波羅蜜経に説かれるように、我が心を中心として物事を判断するのではなく、仏様の心を中心としなさい、との教えをまもることが異念なくのご信心です。委しいことはお目に掛かった時に申し上げたいと思います。

※一水四見(いっすいしけん)、あるいは一処四見(いっしょしけん)の譬え。同じことを聞き、学んでも、おかれた立場、境界によって違って見える事を通して、常に仏の境界を求めて修行に励む事の大切さを御教示下さるものと拝します。 例として挙げられた餓鬼界の境界では、のどの渇きを潤す水であっても、燃えさかり身を焦がす炎に見えるのです。本来、渇きを癒す用きのある水が苦しみを増長させる、ということは、餓鬼界の生命を端的に表しています。果てしなき欲望に支配された心にあると、有用な物であっても苦しみのもとになる、ということです。例えば、お金でも食べ物でもそれに執着を強くすると、かえって苦しみを増すことになるのは私たちの周りにでも目にすることです。

 古い話になりますが、かつてある信徒が、御法主日顕上人の御説法を「ドイツ語を聞いているみたいで少しもわからない」といいました。このような発言をしたときの彼の人の境界を考えてみると、瞋り・貪り・癡かの三悪道の境界の中にあって、「不信」が面に出ていた故に、尊い御説法もドイツ語を聞いている、というよりも、命の中に入らないい苦しみの心が言葉となって表面にでたものであるといえます。甚深の御法門ですから、難しいのは当たり前です。しかし、信解しようと真剣に拝聴すれば、必ず命の中に入るのが日蓮大聖人様の教えであることがわからない「癡か」な姿ですから、「畜生の境界」です。また、俺だったらわかりやすく話すことが出来る、とでも思ったのではないでしょうか。それは「慢心・増上慢」の十四誹謗にあたり地獄の境界です。その時の我が身の境界によって取り方が違う、という端的な例が、「ドイツ語を聞いているみたいで・・・」です。

 この「一水四見」の教えは、私たちの日常生活でも有益です。私たちの生活は、親子、兄妹、夫婦、友人、地域、職場等々の人間関係の上に成り立っています。この関係の作り方に迷うと「変わった人」です。そうならないために、結構なエネルギーを使っているといえます。そこで、対人関係を考えるとき、相手からの言動を、「誉められた」と取れるか、「叱られた」と感じるか、「余計な事を」と思うか。実に様々な心の動きがあります。だだ一つだけ間違いなくいえる事は、どのように感じたにしろ、我が心の在り方、その時の境界によって、千差万別である、という事です。そうであれば、プラス面に感じたときには我が境界も高い、という事であり、反対のマイナスに感じたときには、境界は下の方にある、ということになります。

 私たちは、一人で生きては行けません。何らかの関係のもとに日々の生活があります。人間関係において煩わしい事も少なくありません。ですから、仏様がこのような教えを説き、私たちに心の在り方を示して下さるのです。一水四見を知っているだけで、ずいぶん楽になると思います。「誉められた」と思うのも「叱られた」と感じるのも「我が心」です。当抄の最後に、「心の師とはなるとも心を師とせざれ」と述べられるのは、凡夫の拙い心、境界を基本とした生き方は、辛い生き方になりますよ、と教えて下さるものであると思います。肩肘を張らずに、日蓮大聖人様と共に、仏様の教えを中心に、という生き方が、暗く辛い世の中を、明るく楽しく生きるコツである、と示されているのではないでしょうか。

 紫陽花や蓮華の季節となりました。紫陽花は土の性質によって色が変わるといわれております。一方の蓮華は、環境に左右されることなく清浄な花を咲かせます。御本尊様を護持し、日蓮大聖人様の御教えのままに、御法主日如上人と共に信仰に励む私たちは蓮華です。周囲の出来事に右往左往することなく、仏の境界にある事を常に願って、進んでまいりましょう。何ごとも仏道修行である、と心得て。

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