日蓮大聖人御書拝読と御法話

平成23年7月 日蓮大聖人御報恩御講拝読御書

仏様の教えから生まれた言葉

盂蘭盆会

《仏様の教えから生まれた言葉》

@ガタピシ

「古い家だから玄関の戸を開け閉めするとガタピシ音がする」という使い方をします。戸や障子だけではなく、組織がゆるんでガタピシしている、と民主党や東京電力の有り様を見て使うこともあります。

 辞書によれば、騒がしいさま、戸などの建て付けが悪くきしむさま。人間関係や組織運営が円滑にゆかないさま、等々の説明があります。

 実はこの「ガタピシ」に漢字をあてはめると「我他彼此」となります。「我」はわたくし、「他」は他の人、「彼」は彼の人、「此」はこの人の意です。つまり、自分自身と他人、また、あの人とこの人という、人間と人間の関係性を表している言葉なのです。

 この言葉の本来の意味は、私と周りの人は別々の人格ではあるが、そのもとを尋ぬればすべてが因縁の上に成り立っている、ということを教えるものです。仏法では、この世に生まれる前からの因縁によって、互いに助け合う関係にあることを、「我と他の人」、「彼の人と此の人」と対比して表現しているのです。

 人と人との関係に限らず、仏法では全ての存在そのものが助け合う因縁であると説かれます。ですから、「我他彼此」の本来の意味は、みんな仲良く助け合う、というものなのです。いまふうにいえば「絆」でしょうか。ところが、現在では調和が取れていないことを表現する反対の意味で使われています。

 ガタピシの本来の意義に則って、調和の取れた互いに助け合う人間関係、絆を強めてまいりたいものです。


Aうろうろ

 この「うろ」を感じでで表せば「有漏」になります。漏は煩悩の異名です。ですから煩悩があることを有漏といいます。除夜の鐘を108打ちます、あの意味は、私どもには108の煩悩があり、その煩悩を新しい年を迎えるにあたって消し去るために鐘を打っているのです。鐘の音で煩悩が消滅すればこんなに簡単なことはありませんね。仮りにそのようななるのでしたら、パチンコ屋さんのチンジャラジャラという音も煩悩の消滅になるかもしれませんね。

 その煩悩の代表的なものに、「貪」・「瞋」・「癡」の三毒といわれるものがあります。「貪」はむさぼる心、「瞋」は怒りの心、「癡」は愚かな心です。貪りの心は果てしない欲望を意味しております。瞋は抑えることの出来ない怒りです。また、「癡」な心は迷となって顕われます。

 私たちは、欲望に支配されて、それが満たされないと怒りを呼び起こし、怒りの心を抑えることが出来ない愚かな行為を繰り返します。三毒の内のどれか一つでも克服することが叶えば、迷いから抜け出すことが出来るのではないでしょうか。

 煩悩に囚われ、あれかこれかと思い悩み、決断しかねて右往左往する様子を「うろつく」「うろうろする」というものになります。おなじ有漏が付く言葉に確実でない記憶を意味する「うろ覚え」があります。

 有漏の反対の言葉は「無漏(むろ)」です。煩悩は無し、ですから迷うことも瞋ることも無くなるのですから仏様の悟りのお心を表したものです。

日蓮大聖に様が曽谷教信という信徒に与えられたお手紙の一節に、
「減劫の時は小の三災をこる、ゆはゆる飢渇・疫病・合戦なり。飢渇は大貪よりをこり、やくびゃうはぐちよりをこり、合戦は瞋恚よりをこる」(『曽谷殿御返事』・一三八六頁)
というものがあります。これは、私たちの心が三災を招きよせることを示されたものです。

〈現代語訳〉
人々の命が短くなってゆく時代には、小の三災が起こる。いわゆる飢饉と疫病の蔓延と戦争である。飢饉は貪りの心が大きいことに起因し、疫病は愚かな心から起こり、戦争は怒りの心からおこるのである。

語句の意味
○減劫=四劫中の一つ、住劫における人寿が減る期間のこと。四劫(しこう)とは一つの世界が成立し、移り 変わり、消滅し、また次に成立するまでの間をを四期(成・住・壊・空)に分けたもの。@成劫(じょうこ う)はある空間において国土が成立し、その国土に諸々の生物(衆生)が誕生して社会を形成していく期間 のこと。A住劫(じゅうこう)成立した国土と衆生が安定した状態にある期間。B壊劫(えこう)は衆生、 国土の順に滅びて行く期間。C空劫(くうこう)は壊劫が終わり空となる期間。有情世間、器世間の順に壊 滅していく期間、空劫は壊滅が終わり、空となる期間をいう。減劫は人の命が減る期間のことをいう。倶舍 論という書物には、人寿が無量歳といわれる時から百年毎に一歳を減じて十歳になり、そこからまた百年毎 に一歳を増して八万歳になり、さらにそこから減っていって十歳になる増減を十九回ずつ増減を繰り返して 住劫が終わる、とされている。

○小の三災=三災に大小のあることが説かれている。小の三災は、@刀兵災(とうひょうのわざわい)は戦争 のことで兵革災(ひょうかくのわざわい)ともいう。A疾疫災(しつえきのわざわい)は、伝染病や治療困 難な病が流行すること。B飢饉災(ききんのわざわい)は穀貴災(こっきのわざわい)ともいい、天変地夭 によって穀物が実らず飢饉が起こること。大の三災は@火災、A水災、B風災の三種。火災は七個の日輪が 同時に出現して、世界を焼き尽くすこと。水災は洪水が起こり世界が水没してしまうこと。風災は風が起こ り一切を吹き飛ばしてしまうこと。


『盂蘭盆御書』
「詮ずるところは目連尊者が自身のいまだ仏にならざるゆへぞかし。自身仏にならずしては父母をだにもすくいがたし。いわうや他人をや(御書・一三七五頁)

【現代語訳】
(亡き父母を仏に導くことが出来ないのは)結局のところ、目連尊者自身が未だ仏の悟りに達していない故である。自らが仏の悟りを得て父母を救うことが出来るのである。まして他人においてはなおさらである」

語句の意味
○詮ずるところ=つまるところ、つまり、結局等。
○目連尊者=釈尊の十大弟子の一人。神通力が最も勝れていた、とされている。神通力とは遠く離れた所まで 一瞬にして移動することが出来たり、遙か彼方のことを見通すことができるなどの力。
○自身仏に=仏法では一人ひとりに仏性を備えていると説かれている。仏性とは仏の性分のことで、仏道修行 により全ての人が仏の悟りを得ることが叶う。ここでは、目連尊者が仏の悟りを得ること。
○父母=目連尊者の母親の名を青提女(しょうだいにょ)といい、生前の慳貪(けんどん)の失によって餓鬼 界に生まれ変わったことが知られている。慳貪とは物惜しみをする、欲が深く独り占めにしようとする心。


因縁

 先に、「因縁」ということばがでてきました。この因縁の「因」は直接的な原因をいいます。また「縁」は間接的な条件をいいます。マッチを例に取れば、マッチを擦る行為が直接的な原因、マッチをどこで擦るか、空気中か水中か、というようなことを間接的な条件といいます。もっとも水中でマッチを擦ることはないと思いますが。ともあれ、おなじようにマッチを擦っても火が点くか点かないかの違いが明らかになります。このように、直接的な原因はおなじであっても縁によって結果が違ってまいります。この「因」と「縁」を知ることによって、人生が大きく変わるといえます。何故ならば、物事は「偶然」ではない、と気づくからです。何ごとも偶然と片付けることができたらいいですね。お気軽で。よいことも悪いことも。偶々よ、と。ただ、偶然よいことがおこったのであれば、次のよいことも偶然を待つしかありません。悪いことを防ごうとしても偶然ですから防ぎようがありません。ただ手をこまねいているしかないのが、「偶然」の信奉者であり、運命論者といわれる方々の行き方、といえます。主体的な生き方ではない従属的な生き方というと極端でしょうか 

 このような当たり前のことを、見逃しているのが私たち凡夫なのです。違うことを知ることで縁を大切にする心が育ちます。親孝行な家庭に育った子供は親孝行になるのも「親孝行な縁」に触れているからに外なりません。反対の場合もまた然りです。ですから「縁」を大切にすることを仏様は教えて下さるのです。

お盆の行事が帰省の行事になったのも無理なからぬ所ではありましょうが、本来のお盆の意義である「親孝行」から捉えると、帰省もまた意義あるものとなります。私たちの御先祖が身を以て教えてくれたことを絶やすことの内容にして、次の世代に伝えることも現代に生きている者のつとめであることはいうまでもありません。

ご参詣の皆さまにおかれましては、本日の縁を大切にして頂き、真実の孝養にお励み下さるよう念願致しましてお盆の法話と致します。有り難うございました。

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