日蓮大聖人御書拝読と御法話

平成23年8月14日 日蓮大聖人御報恩御講拝読御書

法華初心成仏抄

法華初心成仏抄 (平成新編御書一三〇九頁)
弘安元年  五七歳

法華初心成仏抄 (御書一三〇九頁)

問うて云はく、釈迦一期の説法は皆衆生のためなり。衆生の根性万差なれば説法も種々なり。何れも皆得道なるを本意とす。然れば我が有縁の経は人の為には無縁なり。人の有縁の経は我が為には無縁なり。故に余経の念仏によりて得道なるべき者の為には、観経等はめでたし、法華経等は無用なり。法華によりて成仏得道なるべき者の為には、余経は無用なり、法華経はめでたし。「四十余年未顕真実」と説くも「雖示種々道、其実為仏乗」と云ふも「正直捨方便、但説無上道」と云ふも、法華得道の機の前の事なりと云ふ事、世こぞってあはれ然るべき道理かななんど思へり。如何心うべきや。若し爾らば大乗小乗の差別もなく、権教実教の不同もなきなり。何れをか仏の本意と説き、何れをか成仏の法と説き給へるや。甚だいぶかし、いぶかし。
 答へて云はく、凡そ仏の出世は始めより妙法を説かんと思し食ししかども、衆生の機縁万差にしてとゝのをらざりしかば、三七日の間思惟し、四十余年の程こしらへおゝせて、最後に此の妙法を説き給ふ。故に「若し但仏乗を讃せば衆生苦に没在し、是の法を信ずること能はず。法を破して信ぜざるが故に三悪道に堕ちん」と説き、「世尊の法は久しくして後に要ず当に真実を説きたまふべし」とも云へり。此の文の意は始めより此の仏乗を説かんと思し食ししかども、仏法の気分もなき衆生は、信ぜずして定んで謗りを致さん。故に機をひとしなに誘へ給ふほどに、初めに華厳・阿含・方等・般若等の経を四十余年の間とき、最後に法華経をとき給ふ時、四十余年の座席にありし身子・目蓮等の万二千の声聞、文殊・弥勒等の八万の菩薩、万億の輪王等、梵王・帝釈等の無量の天人、各爾前に聞きし処の法をば「如来の無量の知見を失へり」云云。法華経を聞いては「無量の宝聚求めざるに自づから得たり」と悦び給ふ


《現代語訳》

質問いたします。釈尊が一生の間に法を説かれたのは全て人々を仏に導かれるためでした。人々の根性には違いがありますので説く法もそれに合わせて様々です。説かれる法に違いはあっても仏に導くことを目的としたものです。したがって、私のために縁のある教えであっても、他の人には縁のない教えであり、反対のこともいえます。そこで、法華経以外の念仏の教えによって仏に成ることが出来る者にとっては、観無量寿経等は尊い教えであり法華経は無用のものとなります。法華経を修行することによって仏に成ることが叶うものは法華経以外の教えは無用のものとなり、法華経のみが尊い教えとなります。「四十余年には未だ真実を顕さず」と説かれていることも、「種々の道を示すといえども、それ実には仏乗のためなり」と説かれるのも、「正直に方便を捨てて、ただ無上道を説く」と説かれるのも、法華経において仏に成ることが出来る機根の人々のためにそのように説かれた、と世間一般では考え、もっともな道理であると思っております。これをどのように考えればよいでしょうか。仮りにそのようであれば、大乗・小乗の違いもなく権教と実教の相違もないことになります。何れの経文に仏の本意を説かれたのか、何れの経文が成仏の法であると説かれたのか不審がますばかりであるが、如何でしょうか。
答えます。仏は現世に出世されたとき、直ちに法華経を説こうと思われておりましたが、人々の機根に多くの違いがあることから、二十一日の間深くお考えになり、四十余年の間に種々の方法を以て機根を次第に調え、最後の八年間で法華経を説かれたのです。故に、法華経の方便品には、「もし一仏乗の教えを説けば、人々は疑いを生じ、かえって法を謗り三悪道に堕ちる」と説かれ、また同じく方便品に、「仏は長い間方便の教えを説きその後に真実の教えを説く」とある通りです。この経文の意味は、最初から法華経を説こうと思われたが、仏道を求める心のない人々は、信じないばかりか反対に謗ることは明らかでありました。そこで、機根を等しく調える上から、最初に華厳経、二番目に阿含経、三番目に方等経、四番目に般若経と四十余年の間に順次教えを説き、最後に法華経を説かれたのです。この四十余年の法座で聴聞をしていた舍利弗や目連等の万二千の声聞や、文殊や弥勒等の八万の菩薩、さらには万億の転輪聖王や大梵天王、帝釈天王等の無量の天人も、爾前の時に聞いただけでは、「如来の真実の教えを失うところでした」云い、さらに、法華経を聴聞して後には、「最高の宝を求めることなく自然に我が身に得ることが叶った」と悦ばれたのです。


『無量義経』 (新編法華経 二三頁)
善男子。我先道場。菩提樹下。端坐六年。得成阿耨多羅三藐三菩提。以仏眼観。一切諸法。不可宣説。所以者何。知諸衆生。性欲不同。性欲不同。種種説法。種種説法。以方便力。四十余年。未顕真実。是故衆生。得道差別。不得疾成。無上菩提。

《書きくだし文》                            
善男子、我先に道場菩提樹下に、端坐すること六年にして、阿耨多羅三藐三菩提を成ずることを得たり。仏眼を以て一切の諸法を観ずるに、宣説すべからず。所以は何ん。諸の衆生の性欲不同なることを知れり。性欲不同なれば種種に法を説きき。種種に法を説くこと、方便力を以てす。四十余年には未だ真実を顕さず。是の故に衆生の得道差別して、疾く無上菩提を成ずることを得ず

《現代語訳》
善男子、我は先に菩提樹の下の道場に端座すること六年にして仏の悟りを得ました。悟ったところの仏の眼を以て一切の法を観察したところ、真実の教えを説くことを致しませんでした。何故ならば、人々の能力には大きな違いがあることが分かったからです。そこで方便の力を用いて、衆生の能力に合わせて種々の法を説きました。悟りを開いてより四十余年間に説いた教えは方便ですから真実を明かしておりません。このような理由から、悟りを得る人と得ることの出来ない人との差別があるのです。このように、全ての人々が速やかに最高の悟りを得ることは出来ませんでした。

○無量義経=法華経の開経。徳行品・説法品・十功徳品の三品からなる。開経とは本経である経典の序説に相当する経。開経に対しては結経がある。結経は本経を説いた後に、流通を目的として説かれたものである。法華経の結経は、観普賢菩薩行法経である。日蓮正宗では、法華経二十八品と無量義経・観普賢菩薩行法経を依経としている。依経とは宗旨を立てる上での依所とする経文のことである。


『上野殿御返事』 (御書・一二一九頁)
正法・像法には此の法門をひろめず、余経を失はじがためなり。今、末法に入りぬれば余経も法華経もせんなし。但南無妙法蓮華経なるべし。かう申し出だして候もわたくしの計らひにはあらず。釈迦・多宝・十方の諸仏・地涌千界の御計らひなり。此の南無妙法蓮華経に余事をまじへば、ゆゝしきひが事なり

《現代語訳》
正法・像法の時代には此の法門を弘めることはありませんでした。それは、余経において仏に成ることができた時代だからです。しかし、今末法にあっては爾前権教も実教である法華経も無益です。ただ南無妙法蓮華経のみが成仏の法です。このように申すのも日蓮が勝手に云うのではありません。釈尊・多宝仏・十方の諸仏・地涌千界の菩薩方のお計らいです。この南無妙法蓮華経に余事を交えれば大変な誤りとなります。

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日蓮正宗向陽山佛乗寺