日蓮大聖人御書拝読と御法話

平成23年9月11日 日蓮大聖人御報恩御講拝読御書

開目抄

開目抄 (平成新編御書五六三頁)
文永九年二月  五一歳

法華初心成仏抄 (御書五六三頁)

已上五箇の鳳詔にをどろきて勧持品の弘経あり。明鏡の経文を出だして、当世の禅・律・念仏者、並びに諸檀那の謗法をしらしめん。日蓮といゐし者は、去年九月十二日子丑の時に頚はねられぬ。此は魂魄佐土の国にいたりて、返る年の二月雪中にしるして、有縁の弟子へをくれば、をそろしくてをそろしからず。みん人、いかにをぢぬらむ。此は釈迦・多宝・十方の諸仏の未来日本国、当世をうつし給ふ明鏡なり。かたみともみるべし。


【通解】

 以上述べたように、五箇の鳳詔が説かれた後に勧持品第十三の弘経がありました。この経文は今日のことを全て映し出す明鏡であり、この経文に照らし合わせて、現在の禅宗や律宗や念仏宗の者たちとその信徒たちの謗法の姿を明らかにします。
日蓮は、去年の九月十二日、子丑の時刻に頚をはねられました。この『開目抄』はその後、日蓮の魂魄が佐渡の国にいたりそこで認めたものです。翌年の二月、雪中で認めた『開目抄』を縁のある弟子たち送ることにより、さらに日蓮の身に難が起ることでしょう。しかしそのことは恐ろしいものではありません。この『開目抄』を読む者が恐れることは想像に難くありません。なぜならば、『開目抄』には、釈尊・多宝仏・十方の諸仏の教えが隠没した末法の日本国にあって、三類の強敵が起こり、法華経の行者である日蓮を怨む姿を映し出した明鏡だからです。ですから、この『開目抄』を日蓮の形見であると思いなさい。


○五箇の鳳詔=法華経見宝塔品第十一に説かれる三箇の勅宣と、法華経提婆達多品第十二に説かれる二 箇の諌暁のこと。鳳詔とは仏法では仏の御心のこと。世法では天子の言葉。

 三箇の勅宣は三度にわたり、釈尊滅後に法華経の弘通を命じ勧もので、@付嘱有在A令法久住B六難 九易のことです。ことに、Bの六難九易(ろくなんくい)では滅後の弘通が困難であることを示して おります。二箇の諌暁は、提婆達多品で、悪人の提婆達多と畜身の竜女の成仏を明らかにすることに より、法華経の経力をしめして滅後の弘教を勧めたことをいいます。

○勧持品の弘経=前の見宝塔品等で釈尊滅後に法華経を弘める(弘経)を勧めたことを受け、菩薩方が どのような困難があろうとも命を惜しまないで弘経することが説かれています。

○明鏡の経文=経文を明らかな鏡とすること。大聖人様は常にご自身の言葉の正しさを証明する上で経 文を用いられる。つまり、日蓮の言葉は日蓮が勝手に言っているのではなく経文にそのもとがある、 ということ。

○子丑の時=子の時は午前零時。丑の時は午前二時。総本山二十六世日寛上人は、「子の時に鎌倉から 竜の口に向かわれ、丑の時に頚の座に着かれた」と仰せである。


拝読のポイント

○発迹顕本(ほっしゃくけんぽん)

 『開目抄』の
「日蓮といゐし者は、去年九月十二日子丑の時に頚はねられぬ。此は魂魄佐土の国にいたりて、返る年の二月雪中にしるして、有縁の弟子へをくれば、をそろしくてをそろしからず」
との御文から、日寛上人は日蓮大聖人の発迹顕本を説き示して下さっています。発迹顕本とは、迹を発って本を顕すと読みます。仮りの姿を「垂迹(すいしゃく・すいじゃく)」といいます。発は開く意味がありますので、発迹は仮の姿を開くことです。顕本の本は本地(ほんじ)のことで、仏の本来の姿、本来の在り方、本のまま、等の意味です。ゆえに、顕本は真実の姿を顕す意味があります。したがって、発迹顕本は仏が仮の姿、垂迹の身を開いて、真実の姿を顕すことです。

 発迹顕本に宗祖日蓮大聖人の発迹顕本と釈尊の発迹顕本があります。@釈尊の発迹顕本は、インドに生まれて十九歳で出家し、三十歳で覚りを開き、法華経以前の諸々の教えを説いたのは仮の姿であり、真実の姿は、久遠の昔から仏として人々を導いてきたのであると、法華経の寿量品第十六で明かされたことを言います。寿量品の文を見ますと、
「汝等諦聴。如来秘密。神通之力。一切世間。天人。及阿修羅。皆謂今釈迦牟尼仏。出釈氏宮。去伽耶城不遠。坐於道場。得阿耨多羅三藐三菩提。然善男子。我実成仏已来。無量無辺。百千万億。那由他劫」
と説かれております。この経文を書き下しますと次のようになります。
「汝等諦かに聴け、如来の秘密神通のカを。一切世間の天、人、及び阿修羅、皆今の釈迦牟尼仏は、釈氏の宮を出でて、伽耶城を去ること遠からず、道場に坐して、阿耨多羅三藐三菩提を得たまえりと謂えり。然るに善男子、我実に成仏してより已来、無量無辺百千万億那由他劫なり」
これでもよく分かりませんので、さらに現代語に訳しますと、
「あなた達は心を澄まして如来の秘密神通力のことを聴きなさい。すべての世間の、天・人および阿修羅は、皆今の釈迦牟尼仏が釈迦族の王宮を出て伽耶という城から遠くないところを道塲として、最高で完全な悟りの法を得たと思っているでしょう。ところが善男子よ、そうではないのです。私は実は、量り知ることのできないはるかな過去に仏と成ったのです」
となります。

この経文が釈尊の発迹顕本を顕しております。

 インドに生まれた釈尊が全てであるように思っているのは、この法華経を知らないからです。そのような方に、インドの釈尊のその元があることを教えてさし上げるのが親切であり慈悲ではありませんか。お節介とは言いません。教えなければ無慈悲であり不親切な人と言われます。親切になりましょう。

 次に日蓮大聖人様の発迹顕本を日寛上人の御指南から拝しますと、
「これ第一の秘事なりと雖も、略してこれを示さん。汝伏してこれを信ずべし」
と仰せになり、日蓮正宗にとって最も大切なことですが略して申し上げましょう、と述べられ、続いて伏して信じなさい、とお示しのように、信ずることによってのみ大切なことを理解できる、と仰せです。つまり、それだけ発迹顕本が重要である、との御意です。

続いて、『開目抄』の元意は、
「蓮祖大聖は名字凡夫の御身の当体、全くこれ久遠元初の自受用身と成り給い、内証真身の成道を唱え、末法下種の本仏と顕れたまう明文なり」
と述べられております。つまり、大聖人はこの竜の口において、凡夫の身を開かれ、久遠元初の仏様として姿を顕されたこと、そしてとりもなおさず末法のご本仏であることを明らかにされたと、御教示です。また、
「魂魄佐渡の国にいたりて」
の魂魄は、凡夫の魂魄ではなく末法のご本仏の魂魄であることを示されております。

 このように、日蓮正宗では文永八年九月十二日の竜の口法難において、宗祖日蓮大聖人が末法のご本仏としてのお姿を顕された意義ある法難である、と拝します。

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日蓮正宗向陽山佛乗寺