日蓮大聖人御書拝読と御法話

平成23年10月9日 日蓮大聖人御報恩御講拝読御書

諸法実相抄

諸法実相抄 (平成新編御書六六八頁)
文永一〇年五月一七日  五二歳

諸法実相抄 (御書六六八頁)

行学の二道をはげみ候べし 行学たへなば仏法はあるべからず 我もいたし人をも教化候へ 行学は信心よりをこるべく候 力あらば一文一句なりともかたらせ給ふべし


【通解】

自行化他の修行と仏の教えを学ぶことを怠ってはなりません。行学のともなわない仏道修行はありません。それも、自らが行うばかりではなく周りの人たちも教え導くことが大切です。この行学は信心よりおこります。仏の教えを例え一文でも一句でもよいので力の限り語ることが肝要です。


【語句の意】

○行学=行は仏道修行のこと。学は仏の教えを学ぶ意。行には自らの修行である自行と、と他を導く化他の修行がある。ここでは自行と化他を共に行ずることを示される。

○行学は信心よりをこるべく候=行学の根本には信がなければならないことを示されるお言葉。


【講義】

 「一信・二行・三学」と日蓮正宗ではいいます。御本尊様への信心が根本にあり、その上で自行化他の修行に邁進し、さらに大聖人様の教えを学ぶことを端的に表す言葉です。また、この三つは三つに分かれてはいますが別々のものではありません。どれが大切でどれが大切ではない、というものではなく、三つ揃って大切なことです。

 この『諸法実相抄』の御文は、末法の私たちが成仏を遂げるための要諦が説かれたものですから、機会ある事に拝してまいりましょう。


当体義抄(御書・六九四頁)

正直に方便を捨て但法華経を信じ、南無妙法蓮華経と唱ふる人は、煩悩・業・苦の三道、法身・般若・解脱の三徳と転じて、三観・三諦即一心に顕はれ、其の人の所住の処は常寂光土なり


【通解】

 仏の仰せの通り、素直に法華経が説かれる以前の、方便の教えである念仏や真言や禅の教えを捨て、ただ一筋に法華経を信じて南無妙法蓮華經と唱える人は、煩悩・業・苦の三道を、法身・般若・解脱の三徳と転じることが出来ます。三観・三諦は一心に顕われ、その人が住むところは仏の住まわれる所となります。


【語句の意】

○正直=心が正しく真っ直ぐなことをいう。仏法では、仏の教えに素直に従う心をいう。
「法華経の人々は正直の法につき給ふ故に釈迦仏猶是をまぼり給ふ」 (一五二五頁)
と四条金吾に与えられた御書にある。少しでも仏を疑ったり、愚痴をいったりする心の状態は、正直な心とはいえない。「疑う」はいうまでもないが、愚癡も「おろか」な心が表面に出たものであり、正直な信心から外れたものであることを思い、互いに誡めたいものである。
○方便=仮りの教え。仏法では法華経以前に説かれた一切の教えを指す。
○煩悩・業・苦の三道=貪る心や瞋の心や迷いの心を煩悩に支配されている心の状態という。世間一般にも「百八の煩悩」がある、といわれるように、私たちの心には数限りない煩悩がある。その煩悩に支配された心から起こる、身体的な行動や言葉となって表れる事柄、また意識として持つ事柄を「業」という。この業には善業と悪業の二種類がある。善い行いであればよい結果を受けることができるが、私たち凡夫は、悪業の繰り返しで悪果を招いている。そこで、このように示されるのである。
○法身・般若・解脱の三徳=法身は仏が悟られた真実・真理のこと。般若は真実・真理を悟る智慧のこと。解脱は、法身と般若が一つになり完全な悟りに達した状態。この三種は別々のようであるが三徳が一つになってはじめて仏の完全な悟りの姿を顕すのであるから、別々に離れてあるものではない。つまり、三徳を得る、ということは仏に成る、成仏することである。
○三観・三諦=三観とは、衆生が全ては空・仮・中の三諦であることを観じること。三諦は、全てを空・仮・中の三つの面からあらわしたもので、仏の真実の姿を三観と三諦の両面から示された言葉である。すなわち、この三観三諦が私たちの心の中に顕わることを示され、南無妙法蓮華経と唱えることによって、私たちも仏となることが叶うことを教えて下さっている。
○常寂光土=寿量品の説法から、私たちの住している娑婆世界が仏の世界であることが明かされた。したがって、正直な心で、一筋に南無妙法蓮華経と唱えるならば、この日本国が常寂光土である。同じように世界中が常寂光土となる。


【講義】

 仏法には、「教法・行法・証法」の三の証が説かれています。教法は仏の教えのことで、行法は仏の教えに則って修行をすることです。そして、その結果、功徳として顕わる姿を証法で示される、という道筋があります。

 日蓮大聖人様の教えの中にもこの道筋が明らかです。日寛上人は御書文段の中で。「教の重」・「行の重」・「証の重」というお言葉で御指南下さっておる如くです。「重」は重大、重要の意で、仏の教を知る上から、最も重要な御書、の意であると拝されます。

 『開目抄』では、多くの教えがある中で法華経こそが最高の教えであることが明らかになりました。その法華経にあっても、釈尊の領域にある法華経を文上の法華経とされ、末法の御本仏であられる日蓮大聖人様が示される文底の法華経である南無妙法蓮華経こそ、唯一の正しい教えであることを示されました。ゆえに日寛上人は『開目抄』を「教の重」とされるのです。

 『観心本尊抄』では、「受持即観心」といって、日蓮大聖人様が顕された南無妙法蓮華経御本尊様を持つ修行によって仏に成ることが叶うことが明かされました。「末法の修行は御本尊様受持の一行」といわれます。そのことを説かれた御書ですから「行の重」とされたのです。「御本尊受持の一行」といっても、ただ御本尊様を御安置して、お題目も唱えずお水も上げないのはここで示される「一行」ではないことはいうまでもありません。『諸法実相抄』の御文にもありますように、一行とは自行化他の修行のことです。但し、御本尊様を受持するだけでも貴いことには違いありません。なぜならば、御本尊様を受持することは日蓮大聖人様をお守りすることですから、やがては自行化他の修行に励むときが必ず来ると信じます。

 『当体義抄』では、正直な信行により、煩悩・業・苦の三道が即座に、法身・般若・解脱の三徳と転換することを明らかにされ、御本尊の功徳、修行に励む功徳を証明することから証の重である」とされます。証とはあかし、あきらか等の意があります。
 
「正直に但法華経を信じ南無妙法蓮華経と唱ふる」と仰せについては、唱題の大切さを御教示下さることは勿論ですが、自行化他のお題目であることは明瞭です。
『三大秘法抄』には、
末法に入って今日蓮が唱ふる所の題目は前代に異なり、自行化他に亘りて南無妙法蓮華経なり(御書・一五九五頁)

『御義口伝』では、
南無妙法蓮華経は自行化他に亘るなり。今日蓮等の類南無妙法蓮華経を勧めて持たしむるなり(御書・一七六〇頁)
と御教示です。

御隠尊日顕上人猊下は、
「命懸けで妙法を受持し題目を唱える、その功徳によって我々の『煩悩・業・苦の三道』がそのまま本門の本尊、本有無作の妙法蓮華仏と顕れる」(大日蓮 五四四号)
と仰せになり、命懸けでの信心によって、穢れた凡夫の命を清浄な仏様の命に変える功徳が受けられる、と御指南下さっております。

 清浄な仏様の命について素敵な体験をお聞きしました。長い時間をかけて折伏をしている方のお話です。何とか御授戒を受けさせたいと願い継続して折伏をしては来ましたが、本心からの折伏であったかどうか、という反省もあります。そのような中でこの度、意を決して折伏をしたときに、自分の心が変わっていることに気づいた、というのです。その方は、私の口から、あんな優しい言葉が出るなんて信じられない、ということを仰っていました。今まではなかったことだと思う、とも。

 これは一例で、言葉だけではなく、振る舞いが優しくなった、心が広くなったように感じた、ということもありました。折伏の時には、これまでの自分とは違う自分になれた、というのもありました。不思議なことです。

 じつは、このような不思議で有り難いことは、折伏をしている時には皆経験があることです。御本尊様のお使いをするとき、日蓮大聖人様のお使いをするときには、私の心のであっても私の心ではなく、仏様のお心になっているように感じることがあるはずですが如何でしょうか。

 しかし、私の心はあくまでも私の心であり、そのように感じるのは、まさに日蓮大聖人様のお心を私の心としているなによりの証拠であるといえます。御隠尊上人が、「命懸けで妙法を受持し題目を唱える」という修行の功徳として、優しい心や振る舞い、広く大きな心になる、等々の、これまでの自分の心とは違う心を感じることが出来るのです。折伏をする私たちの命の中に、仏様の命が湧き上がって来るのですから成仏の境界である、といえます。

 亡くなってから仏になるのではなく、たった今仏に成ることが叶う折伏の修行であり、そのことを実感できるのが日蓮大聖人様の教えです。自らの成仏と、周りの方々の成仏を願って自行化他の信心に励みましょう、

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日蓮正宗向陽山佛乗寺