日蓮大聖人御書拝読と御法話

平成23年11月13日 日蓮大聖人御報恩御講拝読御書

開目抄
妙法尼御前御返事

開目抄 (平成新編御書五七一頁)
文永九年二月  五一歳

開目抄 (平成新編御書五七一頁 御書全集二三一頁)

「順次生に必ず地獄に堕つべき者は、重罪を造るとも現罰なし。一闡提人これなり」

「上品の一闡提人になりぬれば、順次生に必ず無間獄に堕つべきゆへに現罰なし」


【通解】

次に生まれ変わった時、さらにその次と生まれ変わるたびに必ず地獄の苦しみを受けることが定まっている者は、現世において謗法の限りを尽くして重罪を犯しても、その身に罰の姿は現れません。

最も深い罪障を積み重ねている一闡提人には、次の世、またその次の世と生まれ変わるたびに必ず無間地獄の苦しみを受けること決定している故に現罰はないのです。


【語句の意味】

○順次生(じゅんじしょう)=今世の次の生のこと。順には、したがう、次第等の意味がある。『兄弟抄』には
「一同して夫の心をいさめば竜女が跡をつぎ、末代悪世の女人の成仏の手本と成り給ふべし。此くの如くおはさば設ひいかなる事ありとも、日蓮が二聖・二天・十羅刹・釈迦・多宝に申して順次生に仏になしたてまつるべし」(御書・九八七頁)
とありますように、善悪共に用いられる言葉です。

○現罰=顕罰のこと。表面に現れる罰。『聖人御難事』には、
「大田親昌・長崎次郎兵衛尉時綱・大進房が落馬等は法華経の罰のあらわるゝか。罰は総罰・別罰・顕罰・冥罰四つ候。日本国の大疫病と大けかちとどしうちと他国よりせめらるゝは総ばちなり。やくびゃうは冥罰なり。大田等は現罰なり、別ばちなり」
とある。

○一闡提人=梵語のIcchantikaの音訳。成仏の性を有さない者。不信、仏法を信じない者。入楞伽経(にゅうりょうがきょう)には、一闡提に二種あることが説かれている。一種は、一切の善根を焼き尽くした者で、もう一種は、菩薩が一切衆生を救済尽くし、その後に仏に成ることを願うことから、自の成仏を最後にする故に、一闡提という。この二種の一闡提は同じ一闡提といっても全くその性質が違うことに注意しなくてはならない。大聖人が『開目抄』で仰せになる意は、前者である。本来衆生には仏性が具わり、仏に成ることが叶う条件を具えているにもかかわらず、自らその性を焼き尽くすのであるから、その罪はまことに深いものがある。

○上品=じょうぼん。最も高位にあること。ここでは、一闡提人の中でも現世において最も罪障を積んでいる者のこと。


妙法尼御前御返事 (平成新編御書一四八二頁)
弘安三年七月一四日  五九歳

妙法尼御前御返事 (平成新編御書一四八二頁・御書全集一四〇四頁)

悲しいかな、師匠は悪道に堕ちて多くの苦しのびがたければ。弟子はとゞまりゐて師の臨終をさんだんし、地獄の苦を増長せしむる。譬へばつみふかき者を口をふさいできうもんし、はれ物の口をあけずしてやまするがごとし


【通解】

悲しいことに、師匠が悪道に堕ち、多くの苦しみを受けている。死後に受ける苦しみは耐えがたいものがある。しかし、遺された弟子は師の臨終の姿を褒めそやしてますます地獄の苦しみを増長させている。譬えていえば、重大な犯罪を犯した者を取り調べるにあたって、その者の口を塞いだ上で尋問するようなものである。また、腫れものが化膿して痛みがあるにも拘わらず、切開して膿を出すことをせずに腫れものを悪化させるようなものである。


池田氏が重篤な病にあるとすれば、この御書で示されるような状況にあるといえます。長年の謗法によって地獄の苦しみを受けているのであれば、そこから救うこと第一に考えるのが弟子の役目です。ところがそれをしないばかりか、元気にしている、と偽ることによって、さらに罪を重ねることになります。もしかしたら、病床にあって此れまでの謗法を悔い改める言葉が出ているのかも知れませんね。例えば、
「御法主上人猊下の御指南を通して御書を拝読することが大切である」
とか、
「創価学会は永遠に総本山大石寺を外護することが役目である」
等など。
しかし、このようなことが外に漏れると、組織として成り立たなく成ると心配する者がいるのかも知れません。そうしますと、口を塞いで喋らせないようにします。益々苦しみが増長しているのであれば哀れこの上もないことです。無間地獄の姿はこのようなものかも知れませんね。大聖人様が、
「つみふかき者を口をふさいできうもんし」
と述べられているのは、このような状況に陥ることのないようにするには、日頃から正直で素直な心でお題目を唱えることですぞ、という御慈悲であると思います。

 押さえつけられる者も苦しいでしょうが、押さえつける側も苦しいでしょう。師弟共に苦しみ抜かねばならないのが『妙法尼御前御返事』で示される念仏等の無間地獄の姿です。現世でも生まれ変わった来世にあってもこの苦しみから逃れることはできないのですから「無間地獄」といいます。間のない苦しみ、少しも痛みがおさまることのない苦しみほど辛いことはないでしょう。

 この御書で示されるような状況は鎌倉時代に実際にあったのです。平成の今日もあてはまるものです。我が身におこることのないように、他山の石として自身を誡めることが肝要です。

 池田創価学会も、罪に罪を重ねるのではなく、師の誤りを認めて懺悔し、本門戒壇の大御本尊様に御目通りを願って、罪障消滅に精進すべき時です。日寛上人の、「富士大石寺に御安置の本門戒壇の大御本尊様の下に参詣して南無妙法蓮華経ととなえるならば、消えない罪はない、叶わない願いはない」との御指南を今こそ実践することがなによりも大切なのです。

 佛乗寺檀信徒の皆さまは、かつては創価学会にあって信仰に励んだ方も少なくありません。縁ということを考えるならば、それも決して無駄なものではありません。むしろ有意義であった、と転換するためには、かつて縁のあった創価学会員に対して破折を加え、正信に立ちかえるように勧め導くことです。折伏の修行を怠らないことです。

 七百五十年の間、日蓮大聖人様の御教えを純粋に守り通している日蓮正宗富士大石寺の信仰に自信と誇りを持って前進してまいりましょう。向寒の砌、また年末に向かって慌ただしい世相となってまいります。御身ご自愛下さい。

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