日蓮大聖人御書拝読と御法話

平成23年12月11日 日蓮大聖人御報恩御講拝読御書

阿仏房御書

阿仏房御書 (平成新編御書七九三頁)
文永一二年三月一三日  五四歳

阿仏房御書 (平成新編御書七九三頁)

多宝如来の宝塔を供養し給ふかとおもへば、さにては候はず、我が身を供養し給ふ。


 3月の震災以降被災地ばかりか日本全国・各方面で、「絆」・「つながり」を密にしよう、という動きが活発になってきました。

 このことは、私たち日本人が、それまで個人主義の名のもとに、他者には干渉しない、全ては自己責任という風潮から、生きて行く上で、社会に関心を持たなくてはならない、一人だけでは生きて行けない、と気づいた、と言い換えてもよいかと思います。

 「絆」・「つながり」について考える時、
@空間的な「絆」・「つながり」
A時間的な「絆」・「つながり」
が思い浮かびます。@の空間的な絆は主に、地域社会や会社、友人知人などの横の関係です。Aの時間的な絆は先祖・子孫を中心とした縦の関係です。

○空間的「絆」 

大聖人様が『立正安国論』で、
「汝須く一身の安堵を思はゞ先ず四表の静謐を祈るべきものか。」
と仰せになるのは、空間的な絆を示されていると拝される。私たちが、信心修行の第一と心得る「折伏行」は空間的な絆を構築する修行なのである。さらに、四座の観念文では、
祈念し奉る一天四海本因妙、広宣流布、大願成就御祈祷の御為に。
と御祈念をするのは、折伏の修行を怠らないように決意する意味が込められております。

 総本山で七百五十年の間、一日も休まずに続けられている丑寅勤行こそ、空間的な絆が大切であることを示される御法主上人のお振る舞いであると有り難く拝するのです。


○時間的「絆」

『開目抄』 (御書・五六三頁)では、
儒家の孝養は今生にかぎる。未来の父母を扶けざれば、外家の聖賢は有名無実なり。外道は過未をしれども父母を扶くる道なし。仏道こそ父母の後世を扶くれば聖賢の名はあるべけれ。しかれども法華経已前等の大小乗の経宗は、自身の得道猶かなひがたし。何に況んや父母をや。
 これは、過去世・現世・来世に亘る三世の絆を結ぶことができるのは、法華経のみであると御本仏が教えて下さるもので、時間的な絆・つながりは南無妙法蓮華経と唱へ修行に励むことによって叶えられる、ということである。

 動物も集団生活を営み、社会生活といえる行動がある。それは横の絆であり、時としては人類よりも強固であると言えます。ただ、時間的な絆は人類のみが認識できることです。これは、親子の関係ばかりか、先輩と後輩、さらにそれを広げて見ると、「今の私」があるのは、先人達が永い年月を費やして築いたことの上にあることに気づきます。また、「今の私」は次の代、さらにその次と影響を与え続けていきます。

『法蓮抄』には、
六道四生の衆生に男女あり。此の男女は皆我等が先生の父母なり。(御書・八一五頁)
と説かれています。これは、仏法の一念三千の極理から見た絆を御教示されたもので、人界の先人先達ばかりではなく、地獄界・餓鬼界・畜生界・修羅界・天界の衆生全てが私たちにとっては、母であり父であることを教えるものです。このことは、過去に遡るだけではなく未来に向かう時にも当てはまるとされるのです。

ただ残念なことに、空間的絆と違って時間的絆を実感することはできません。何故なら、過去から現在に来た人も、未来から現在にかえってきた人もいないからです。科学的ではない、と切り捨てられる事柄です。しかし、この時間的絆を信じる人は、心を豊かにすることが叶います。それは、まさに心の領域だからです。

 『上野殿後家尼御返事』には、
いかにもいかにも追善供養を心のをよぶほどはげみ給ふべし (御書・三三八頁)
とあります。「亡くなられた人を大切にしなさい」と教えて下さる日蓮大聖人の信仰は、まさに、時間的絆を大切にすることを通して、私どもの心を豊かにする信仰なのです。 『妙法尼御前御返事』で、
されば先づ臨終の事を習ふて後に他事を習ふべし (御書・一四八二頁)
と仰せになり、私たちにとって最も重要な「死の問題」を解決する方法を教えて下さるのが日蓮大聖人様の仏法なのです。

 その実践方法が五座の勤行の観念文に示されております。
某先祖代々並びに当宗信仰の面々・内得信仰の面々・各々先祖代々の諸精霊、追善供養證大菩提の為に。
と。観念上の修行ではなく、勤行を行うことが具体的な修行となります。そこからさらに進んで、追善供養の実践になってまいります。それが、例えば『中興入道御消息』に示される塔婆供養です。そこには、亡くなった娘御前の十三回忌の追善供養に塔婆を建立したことにより亡き方が仏に成ることはもちろん、
孝養の人並びに妻子は現世には寿を百二十年持ちて、後生には父母とともに霊山浄土にまいり給はん(御書・一四三四)
と仰せになり、亡くなった方の命を大切にする修行に大きな功徳が具わることを明かされております。さらに、
此より後々の御そとばにも法華経の題目を顕はし給へ。 (御書・一四三四)
と述べられ、後々の追善供養にも、御題目を認めた塔婆を建立して励むことを勧められているのです。

『中興入道御消息』は佐渡の島に住していた中興入道殿に与えられた御書です。同じ佐渡の島の住人であった阿仏房に与えられたのが冒頭の御書です。『中興入道御消息』では、亡き方を大切にすることで受けられる功徳、『阿仏房御書』では、御本尊様を大切にすることで受けられる功徳が示されています。

 「多宝如来の宝塔」とは御本尊様の事です。その御本尊様を「供養し」とは、御本尊様をお守りすることであり、御本尊様のことを周囲の人々に教えることです。それが菩薩の修行である自行化他であり、末法の修行は自行化他だからです。この自行化他の修行が空間的な絆を結ぶことになります。そして、その修行は自身の徳となることを
我が身を供養し給ふ
と教えて下さるのです。

 阿仏房も中興入道も共に佐渡で信仰に励んでおりました。大聖人様が佐渡へ配流された時は念仏の信仰を熱心にしていたようですが、大聖人様の折伏を受け南無妙法蓮華経と唱え、自行化他の信仰に入りました。頂いた御書を互いに拝読しあって、信心を深めたことが伺えます。

 『中興入道御消息』では時間的絆の大切さを学び、『阿仏房御書』では空間的絆を結ぶための実践方法を学び、成仏の信心を確立したのです。

 震災で、横のつながりが大切であることに気づいた私ども日本人ですが、未だ時間的絆の大切さには気づいておりません。気づかないどころか益々粗略になっているように思えます。

 創価学会を破門して二十年が経過しましたが、その間に彼らが犯した謗法は枚挙に暇がありません。大聖人様が仰せになる追善供養を否定したことは時間的絆を断つことであり、富士大石寺に連綿と相伝される日蓮大聖人の信仰を、池田流の信仰にすり替えたことは、広宣流布を妨げることであり空間的絆をねじ曲がったものにしていることです。ゆえに、池田創価学会の犯した罪が、積もり積もって今日の日本の状況があるといっても過言ではないでしょう。

 謗法を犯した現罰が今池田の上に顕われております。過日の新聞の写真から、重篤な病にあることが見て取れました。しかし、彼らはそのことをひた隠しにしております。むしろ今日郵便受けに投げ込まれた新聞を見ますと、池田から会員へのメッセージが掲載されておりました。百歩譲って、メッセージが本物であったとしても、肉声ではありません。今現在、肉声を発することができない状況にあることは間違いありません。にも拘わらずそれには触れずに健在であるように装うことが正直ではないのです。正直になれないことが謗法の現証なのです。『寿量品』にある、
「毒に中られて、心皆顛倒せり。我を見て喜んで、救療を求索むと雖も、是の如き好き薬を、而も肯えて服せず」
の文がそのことを教えています。素直な心になれば、仏様の大良薬を服して、毒を取り除くことができます。しかし「心皆顛倒せり」ですから、大良薬を服することができません。「心皆顛倒せり」とは謗法であり不正直な心であり曲がった根性です。得意の同時中継で肉声を届けることが不可能になったのなら、そのように伝えるのが正直な信仰です。病気で声帯をとりましたので声が出ません。かわりに手紙にします、と。脳が不調で声を出すことが叶いません。私の心を側近が読み取ってメッセージにしています、と。 反対に、池田大作の健在をアピールすればするほど毒は体中に回っていきます。ついには最悪の事態に陥らないとも限りません。罪を懺悔して正法に立ちかえることを祈ります。

 いつも述べるように、生きている限り病と無縁であることは不可能です。大聖人様が、
病ありて道心起こり候
と仰せになるのは、素直な心で病を受けとめ、病気になったことを悲しむのではなく、病によってこれまでのことを振り返り、正しい信仰に入ることができる、と励ます意味からです。

 南無妙法蓮華経と唱えていても、
「質直意柔軟」
の信心でなければ、御本尊様の功徳は受けられません。
「是の如き好き薬を、而も肯えて服せず」
薬を飲むことができないのですから。前に置いてあるだけです。「他山の石」あるいは「人の振り見て我が振り直せ」等の諺がたくさんあります。彼の姿を反面教師とし進んでまいりましょう。

 年末を迎え慌ただしくなってまいります。そのような時だからこそ、上野殿後家尼に与えられた御文の一節、
「人のためによる火をともせば人のあかるきのみならず、我が身もあかし」
を思い起こし、大震災によって、自分一人では生きて行けない、ということに気づき、絆・つながりを求めて行動をするようになった今こそ、日蓮大聖人様の教えが世に弘まるまたとない機会と捉えて、御本仏大聖人様のお遣いをしようではありませんか。そして、大きな功徳を受けてまいりましょう。必ず功徳を受けることが叶います。

 御法主日如上人は、先日四日の広布唱題会において、「功徳を確信すること」と御指南下さっています。功徳を受けていても確信がなければ功徳とは思わないのです。信ずる心がなければ功徳に気づきません。気づかない、ということは功徳がないことと同じです。

 功徳を受けられる人とそうではない人の違いは、素直な心かそうでないかです。素直な人には功徳が表れます。そうでない人には表れません。信じるか信じないか、正直か曲がっているか、その違いだけです。佛乗寺の皆さま、より素直で正直に進んでまいりましょう。そしてよりたくさんの功徳を受けてまいりましょう。

 寒さが厳しくなり、インフルエンザの流行も聞こえてきました。お体ご自愛のほどお祈りいたします。

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