日蓮大聖人御書拝読と御法話

平成24年4月28日 立宗会拝読御書

三大秘法稟承事

三大秘法稟承事(御書・一五九四頁)
弘安五年四月八日  六一歳

三大秘法稟承事 (御書・一五九四頁)

題目とは二意有り。所謂正像と末法となり。正法には天親菩薩・竜樹菩薩、題目を唱へさせ給ひしかども、自行計りにして唱へてさて止みぬ。像法には南岳・天台等は南無妙法蓮華経と唱へ給ひて、自行の為にして広く化他の為に説かず。是理行の題目なり。
 末法に入って今日蓮が唱ふる所の題目は前代に異なり、自行化他に亘りて南無妙法蓮華経なり。名体宗用教の五重玄の五字なり。


【通解】

 南無妙法蓮華経の題目には二通りの意味があります。それはすでに周知のように正像と末法である。正法の時には、天親菩薩や竜樹菩薩は南無妙法蓮華経の題目を唱えましたが、それは自行のためだけに唱えたものです。像法の時にも、南岳大師や天台大師等も南無妙法蓮華経と唱えましたが、同じように自行のためであり、広く化他のためには説きませんでした。これらの方々の唱えた題目は理行の題目です。

 末法に入って今、日蓮が唱える南無妙法蓮華経の題目は正像の時とは違い、自行と化他の両方に亘る南無妙法蓮華経です。これを名体宗用教の五重玄の五字です。


【語句】

○正像と末法・・・正像は正法時代と像法時代のこと。正法時代は仏滅後千年の間をいう。この時代には、仏の教えを良く守り、正しい修行が行われ、悟りが得られる時代。像法時代は、仏の滅後千年後から二千年までの千年間をいう。この時代には、教えと修行はあるが、悟りは得られなくなった。像はかたどる、似るの意で、正法時代に似る、ということ。
末法時代は、仏の滅後二千年以降をいい末法万年という。末法には教えのみがあり修行も悟りもなくなる。
○天親菩薩(てんじんぼさつ)・・インドの僧侶。世親(せしん)ともいう。千部の論師といわれることからも分かるように、大乗仏教を讃嘆する多くの論述をした。
○竜樹菩薩(りゅうじゅぼさつ)・・インドの僧侶。大智度論や中論、十住毘婆沙論などの論を顕し、大乗仏教を宣説した。倶舎宗・成実宗・律宗・三論宗・華厳宗・真言宗・天台宗の八宗の祖と言われる。
○自行・・修行の面からいえば、自らが利益を受けるために、仏道修行に励むこと。仏の立場から拝すれば、悟られたものを衆生の機根に合わせるのではなく御心のままに説いた「随自意(ずいじい)」の教え。すなわち法華経のこと。ここでは、修行の面からの意。
○化他・・修行の面からいえば、周囲の人々を仏道に導き、成仏の道を教えること。仏の立場からはいすれば、衆生の機根に合わせた法を説かれた「隨他意(ずいたい)」の教えのこと。
○南岳・・南岳大師のこと。慧思禅師ともいう。中国の天台宗の第三祖。天台大師の師。大聖人は『和漢王代記』で、
「南岳大師。また慧思禅師と云う。観音の化身なり。六根清浄の人。日本国の上宮太子是れなり。天台大師の御師なり」(御書・一〇九三頁)
と示されている。上宮太子とは聖徳太子のことで、南岳大師の生まれ変わりとして日本に聖徳太子が誕生され、仏教を弘めた、との意である。中国から仏教を伝えるために渡来し、東大寺を開いた鑑真の記したものにもあることから、同じことが書かれており、仏教と聖徳太子、日本国と仏教、特に法華経との関係を知る上で重要なものである。
○天台等・・天台とは中国天台宗の第四祖。当時の中国では多くの宗派が乱立し、仏の真実の教えが失われていた。天台大師はそのような中にあって、真実の教法である法華経をもって人々を導いた。天台大師は、法華三大部と云われる、法華玄義・法華文句・摩訶止観を講述し、仏の教えが法華経にあることを人々に説き示した。特に、法華経の極理である一念三千の法門は、天台大師が摩訶止観の中で説き明かしたもので、日蓮大聖人様は、外用、つまり外面に表れた姿からは、天台大師が仏法の上での師匠である、と仰せになっている。御書には「大師講」として、天台大師の命日に御報恩の御講を奉修されていることが述べられている。『富木殿御消息』では、
「大師講の事。今月は明性房にて候が」(御書・四一八頁)
とあり、天台大師の御報恩の御講の責任者を決めて毎月奉修されていたことを記されている。『富木殿御消息』では、明性房という大聖人のお弟子がこの月の責任者であったことが分かる。
現在、私どもが「宗祖日蓮大聖人御報恩御講」を奉修申し上げるのも、大聖人が外用の師と仰ぐ天台大師の御報恩御講を奉修されていたことと無関係ではない。ゆえに、毎月の御講を単に大聖人への御報恩、と捉えるのではなく、大聖人がされていたことを、今度は弟子檀那の立場で執り行っている、との心構えが大切である。
○名体宗用教の五重玄・・「五重玄」とは、天台大師が諸経を解釈する上から説き示したもので、一切の教えはこの五重玄によって明らかになること。具には@釈名、A弁体、B明宗、C論用、D判教という。@の釈名は経文の題号(名)の解釈。Aの弁体はその本体となるもの、実体を明らかにすること。弁の字義は、区別する、より分ける、明らかにする等。Bの明宗は、本体・実体に具わる因果、特質等の一切を明らかにすること。Cの論用は用き、作用を明らかにすること。Dの判教は諸経の中における位置づけを決判すること。つまり、天台大師は、この五重玄を用いて妙法蓮華経が諸経の中で第一であり、その功徳が最も勝れたものである事を明かした。
 ただし、大聖人は、当抄で、
「末法に入って今日蓮が唱ふる所の題目は前代に異なり、自行化他に亘りて南無妙法蓮華経なり。名体宗用教の五重玄の五字なり」
と、仰せである。したがって、大聖人が末法の時に唱えられる南無妙法蓮華経は、南岳大師や天台大師等がとなえた題目ではなく、真実の五重玄の上からの題目であり、その題目は自行化他の題目であることを銘記しなければならない。
 御隠尊日顕上人は、『観心本尊抄』の御講義の中で次のように御指南下さっている。
「法だけがあっても、それを悟る方がいなければその値打ちが現れず、衆生に示すこともできません。だから仏法の法という存在にそのまま、それを悟るところの因果の筋道が存するのです。名・体・宗・用・教の五重玄はそれを示しております。名は妙法蓮華経であり、体は融妙不可思議な実相の内容、それに対しよくそれを身に宛てて行じ体現するのが宗であり、その究竟のところから無数の慈悲を起こして衆生を導くのが用です。故に体・宗・用ということは法に即する人の意味であります。いわゆる妙法蓮華経は法即人、人即法、したがってそこに『人法一箇』という意味が存する」(観心本尊抄御説法・大日蓮平成元年八月号)

 南無妙法蓮華経と唱える宗旨は巷に多く存する。しかし、霊友会や立正佼成会や創価学会などの新興宗教が唱える題目と、我ら法華講衆の唱える題目の違いがこの御文から明らかなのである。大聖人門下であっても、身延や池上が唱える題目は、正像過時の題目・自行の題目である。日蓮正宗富士大石寺の題目こそ、自行化他に亘る題目であり、真実の題目であることを説き示された大切な御書である。
 さらに申せば、『秋元御書』で、
「三世十方の仏は必ず妙法蓮華経の五字を種として仏に成り給へり」(御書・一四四八頁)
と示される如く、一切の仏はこの文底独一の題目によって仏と成ることが叶ったのであり、その偉大な功徳は私どもにも等しく受けることができるものなのである。
 故に、南無妙法蓮華経と自行化他の修行に励むならば、どのような環境にあっても、円満な精神を育み、争いのない安穏な生活を確立する功徳が具わる事を確信するものである。南無妙法蓮華経と唱えていながら、大聖人の御心から離れた題目の人々に対して、『前代に異なり、自行化他に亘りて南無妙法蓮華経なり』を教える修行に精進を。

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