日蓮大聖人御書拝読と御法話

平成24年5月13日 日蓮大聖人御報恩御講拝読御書

開目抄
諸法実相抄
曽谷二郎入道殿御報

◇私たちが生まれてきた意味を日蓮大聖人様はどのように教えて下さっているでしょうか

@『開目抄』
「天台云はく『今我が疾苦(しっく)は皆過去に由(よ)る、今生の修福(しゅうふく)は報将来(むくいしょうらい)に在(あ)り」等云云。心地観経(しんじかんぎょう)に云はく「過去の因を知らんと欲せば、其(そ)の現在の果を見よ。未来の果を知らんと欲せば、其の現在の因を見よ』等云云」
(御書・五七一頁)
(通解)
天台大師は、「今、私たちが悩み苦しむのは過去に原因がある。今生で福を修めればその報いはこれから表れてくる」と述べている。心地観経には、「現在の結果から過去に行ったことが明らかになる。同じように現在の行いを見ることで、未来の結果を知ることができる」と説かれている。


《過去・現在・未来の三種類の世界があることを教えるのが仏教》

 過去から現在、現在から未来へ、と説くのは仏教の徳性です。過去を知り、現在を見つめ、さらに雄々しく未来を迎えることを学ぶのが日蓮大聖人様の教えです。世界中には多くの宗教があり、真剣に修行に励んでおります。ただ残念なことに、それらの宗教には、過去・現在・未来を見通した教えはなく真実の悟りには到達することは叶いません。例えば、世界宗教の一つであるキリスト教では、全てを神が創造したと説きます。国土も国土に住する人間をはじめとする生き物も、ことごとく神が造ったものです。死後は、天国か地獄のいずれかに定まっております。

 全ての出来事はあらかじめ決定されており、なるようにしかならない。したがって人間の努力もこれをかえることは出来ない、とする「運命論」の根底にはキリスト教の考えがあるのです。

大聖人様は
A『諸法実相抄』で、
「法華経の行者となる事は過去の宿習(しゅくじゅう)なり、同じ草木なれども仏とつくらるヽは宿縁(しゅくえん)なるべし、仏なりとも権仏となるは又宿業(しゅくごう)なるべし」
と仰せになります。

 ここには、人間ばかりか草や木であっても過去世の宿習や宿縁によると御指南されるのです。宿習、宿縁の意味は次のようなものです。

☆宿習・・宿は過去世、習は習気(じっけ)のことで過去世において身につけたもの。過去世から身につけた煩悩の名残、隠された余力。過去世になした行為(宿業)が善悪の名残となってとどまることで、(宿)が久しい、古いの意から、過去世を宿世という。過去世の善悪の行為(善業・悪業)が習慣となってとどまり(習)、その名残がひきつづいて今世以後の生存にかかわることをいう。(参考岩波・佛教辞典)
☆宿縁・・過去世に生を受けたときの善悪の行い(業)と、現在に表れている結果との因果(縁)の関係をいう。(同)
☆宿業・・過去の行為、過去世における業、前世の生存においてなされた善悪の行為の力。過去の生存中においてなされた善悪の行為の現在に及ぶ潜在的な力を特に宿業という(同)

 仏法の「宿命論」とキリスト教思想が根底にあると思われる「運命論」は似て非なるものであることがお分かりいただけると思います。私たちの命は、神によって定められたものではなく、過去世の行為によって受けたものです。ですから、今生における行為によって、変革することが出来るのです。

◇仏様のお使い〈たとえ定められた運命であってもかえることが出来るのが大聖人様の信仰〉

B「アンパンマンのテーマ」
何のために生まれて 何をして生きるのかわからないまま終わる そんなのはいやだ!今を生きることで 熱いこころ燃えるだから 君は 行くんだ 微笑んで そうだ うれしいんだ 生きるよろこびたとえ 胸の傷がいたんでも(やなせたかし作詞)
 これは、子供向けアニメのテーマソングではありますが、私たちがここにいることの意味、存在する価値を問い、この世に生を受けた意義、さらに生きる意味を考えさせるものです。


C『曽谷二郎入道殿御報』
法師品の如くんば、末代に法華を弘通せん者は如来の使ひなり。此の人を軽賤するの輩の罪は、教主釈尊を一中劫に蔑如するに過ぎたり等云云。(御書・一五六三頁)
○法師品・・法華経法師品第十。迹門の流通分。五種法師(五種の妙行ともいう五種類の修行。受持・読・誦・解説・書写)と衣座室の三軌(如来の室・如来の衣・如来の室)等が説かれる。「如来の使」としての菩薩行が説かれる。この「如来の使」について、同品には、
「薬王(やくおう)、当に知るべし。是の人は自ら清浄の業報(ごうほう)を捨てて、我が滅度の後に於て、衆生を愍(あわ)れむが故に悪世に生れて、広く此の経を演(の)ぶるなり」(新編法華経三二〇頁)
と説かれている。この経文を解釈した『法華文句記』(妙楽大師)には、
「次に『薬王より是の人は自の捨清浄』に至っては、悲願牽(ひがんひ)くが故なり。仍(よって)是れ業生(ごうしょう)なり、未(いま)だ通応(つうおう)に有らず。願って業を兼ぬ」
(法華文句記会本 中 六三三頁)
とあります。

《願兼於業》
 薬王菩薩は清浄な行いによって仏果を得、善きところに生まれるところを、悪世の衆生を導くために願って悪世に生まれ、そこにおいて法華経を説きました。このことを「願兼於業(がんけんおごう)」といいます。大聖人様はこの「願兼於業」について、次のように御指南をされています。

D『開目抄』
「願兼於業と申して、つくりたくなき罪なれども、父母等の地獄に堕(お)ちて大苦をうくるを見て、かたのごとく其の業を造りて、願って地獄に堕ちて苦しむに同じ。苦に代はれるを悦びとするがごとし。此も又かくのごとし」(御書・五四七頁)
御文の意は、大聖人様がご自身の修行を「願兼於業」であるとされたもので、濁世末法に生を受けた衆生のために御出現され、南無妙法蓮華経の教えをもって成仏に導かれるお立場を明かされているものです。

《仏様の願い・誓願》

E『方便品』
「舎利弗当に知るべし 我本誓願を立てて一切の衆をして 我が如く等しくして異ること無からしめんと欲しき」〔しゃりほつまさにしるべし われもとせいがんをたてていっさいのしゅをして わがごとくひとしくしてことなることなからしめんとほっしき〕(新編法華経一一〇頁)
〈現代語訳〉
舍利弗よ、知るべきです。私は全ての人々が私と同じようになることを願っているのです


F『自我偈』
「毎時作是念 以何令衆生 得入無上道 速成就佛身 毎に自ら是の念を作さく 何を以てか衆生をして 無上道に入り 速かに仏身を成就することを得せしめんと」〔つねにみずからこのねんをなさく なにをもってかしゅじょうをして むじょうどうにいり すみやにぶっしんをじょうじゅすることをえせしめんと〕
〈現代語訳〉
つねに仏様は願っています。どのようにして人々を最高の教えに導き、すみやかに仏身を成就することができるように、と。

文責編集部 転載複写等禁止



日蓮正宗向陽山佛乗寺