日蓮大聖人御書拝読と御法話

平成24年5月6日 広布唱題会

題目功徳御書

題目功徳御書 (御書・一六七三頁)

題目功徳御書(御書一六七三頁)

 功徳は先の功徳にたくらぶれば、前の功徳は爪上の土のごとし、法華経の題目の功徳は十方の土のごとし、先の功徳は一Hの水のごとし。題目の功徳は大海のごとし。先の功徳は瓦礫のごとし、題目の功徳は金銀のごとし。先の功徳は蛍火のごとし、題目の功徳は日月のごとしと申す経文なり。


【通解】

(法華経の題目の)功徳と、法華経以前に説かれた経文の題目の功徳を比較すれば、先の経文の題目の功徳は爪の上の土のようなものであり、法華経の題目は十方の土のようなものである。先の功徳は一滴の水のようなものであり、法華経の題目の功徳は大海のようなものである。先の功徳は瓦礫のようなものであり、法華経の題目の功徳は金銀のようなものである。先の功徳は蛍の光のようなものであり、法華経の題目の功徳は日月のようなものである、と説かれる経文である。


【指導】

 宗祖日蓮大聖人は、爾前権教の題目を唱えるの題目の功徳を、「爪上の土」・「一Hの水」・「瓦礫」・「蛍火」と示される。ここで、「功徳」との仰せを取り上げて、「爾前の教えでも、少ないかも知れないが功徳はある」という根性の幼い者がいる。示されるところの「爪上の土」とは涅槃経等に説かれている譬えであり、よく知られた文である。経文では、爪の上の土は得がたいが、十方の土は甚だ多い。同じように、正法を行じる者は少ないが謗法を行じる者は甚だ多い。そこで、正法にめぐり会うことの尊さを教えている。当抄では、その経文の意義を転用されて、法華経の題目を唱える功徳の多さを教えて下さる。
 ところが、前述のごとき「幼き根性の者」は、「功徳」の一点のみを取り上げるのである。
 しからば、「瓦礫」をどのように捉えるのか、それを見るべきである。また、ゴミを手にして「功徳」だと喜んでいる姿を目にして、黙止することができようか。
 世間一般の信仰間は、ここで破折されることと、七百五十年の時を経ても何ら変わるものではない。
 教えの浅深に暗い故に功徳の厚薄に迷い、挙げ句にゴミを宝物と思い、有り難がっているばかりなのである。
 日蓮正宗富士大石寺の信仰は、宗教の正邪を峻別し、財は財、ゴミはゴミと知ることのできる教えである。さらに、自ら行ずるばかりではなく他をも導く信仰である。そこに「十方の土」のごとくの無量の功徳を得るのである。「大海の水」のごとく、枯れることなき功徳で我が心を満たすことが叶うのである。「金銀」のごとき最高最大の徳を積めるのである。それは「日月」のごとく全人類の心の闇を除く用きをなすのである。
 一人ひとりが唱える南無妙法蓮華経の題目の偉大さを確信しようではないか。日々唱える題目の功徳を、点から線に広げ、線を面に、面を立体に、と銘記し精進を重ねようではないか。
 御法主上人の御指南に信伏随従し、素直な心で誓願達成に立ち向かおうではないか。                        

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