日蓮大聖人御書拝読と御法話

平成24年11月1日 永代経

中務左衛門尉殿御返事

病にある身を励まして下さる御書

その二

中務左衛門尉殿御返事 (平成新編御書一二三八頁)
弘安元年四月二三日  五七歳

中務左衛門尉殿御返事 (御書一二三八頁)

将又日蓮が下痢去年十二月卅日事起こり、今年六月三日四日、日々に度をまし月々に倍増す。定業かと存ずる処に貴辺の良薬を服してより已来、日々月々に減じて今百分の一となれり。しらず、教主釈尊の入りかわりまいらせて日蓮を扶け給ふか。地涌の菩薩の妙法蓮華経の良薬をさづけ給へるかと疑ひ候なり

現代文

なおまた、日蓮の下痢(くだりはら)は、去年の十二月三十日から続いております。今年の六月三日・四日は特に大変でした。日々に症状が重くなり、月々に悪化するようで、前世からの定められた命が尽きるのかと思っておりましたところ、貴男が調合した薬を服用して以来、日々月々に快方に向かい、今は重篤なときに比べて百分の一くらいになりました。
この病が快方に向かったのは、貴男の身に教主釈尊が入り代わって日蓮を救って下さったのでしょうか。あるいは、地涌の菩薩が妙法蓮華経の良薬を授けて下さったのでしょうか、と不思議に思っております。


法華経の『涌出品』に
「如来は安楽にして、少病少脳なり」
とあります。

 誰しも病気などにはなりたくありません。しかし、生きていれば何らかの病にはなります。仏様も、私たちと同じお体をしておりますので、病もあれば悩みもお持ちです。ただ、その病や悩みは、衆生を仏道に導く上からのものですから、私たちのものとは少し違うかも知れません。また、仏様の御身にも病や悩みのお姿があるのですが、それは、安楽のお姿を示されているといえます。

 法華経の『安楽行品』には、「四安楽」が説かれております。
@身安楽  身を安楽にする。粗暴な行いをしない。悪所に出入りしない等。
A口安楽 悪口を言わない。
B意安楽 心を平穏に持つ。
C誓願安楽 人々を導く願いを常にもち実践する。
という意味があると思います。

 病があっても、うろたえたりせずに、病に向き合って、さらに、その病の原因を振り返って見れば過去の過ちに気づくことになる場合もあるでしょう。身・口・意の三業において我が身の病について考えることを、@・ABの各安楽行として示されているのです。また、病気になったのは自らの過去世からの因縁であることに気づけば、罪障消滅の信心に励むことが叶うようになります。それがCの誓願安楽です。

四安楽から考えてみれば、病や悩みもまた仏道修行の因となるのですから、私たちにとってマイナスではないのです。仏様が「少病少脳」は「安らかで楽しみである」と仰せられたことを忘れないようにしたいものです。

 日蓮大聖人様も、凡夫のお姿で末法に御出現遊ばされました。故に、経文の如く「少病少脳」のお姿をもって私たちを成仏に導いて下さいます。

 以上のことを念頭に、『中務左衛門尉殿御返事』を拝読いたしますと、医師や薬の効能も、私たち一人ひとりの信心が大切であることが分かります。即ち、医師である四条金吾の調合した薬を服用して病が快方に向かったのではありますが、そこには、「四条金吾さんの身に御本尊様(教主釈尊)が入れ代わって日蓮の病を治してくれたのでしょうか」とあり、御本尊様のお力が働いていることを仰せになっております。さらに重ねてその薬が「妙法蓮華経の良薬」であることを述べられております。つまり、私たちが「病気」になったときに、南無妙法蓮華経の仏力・法力を頼みとして、自らの信力・行力を励ますことで、名医と良薬に恵まれることが出来る、と教えて下さっているのです。

 生きている証しとしての「病」です。お墓に入ってからの「病」ではありません。そのことを忘れずに、仏様が「少病少脳」ならば、私たちは「一病息災」と励まして、自行化他の修行に励んでまいりましょう。


以上

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日蓮正宗向陽山佛乗寺