日蓮大聖人御書拝読と御法話

平成25年2月7日 日興上人御報恩御講(興師会)

白米一駄御返事

〜 日興上人が拝した【御本仏日蓮大聖人様】 〜

白米一駄御返事 (歴代法主全書一巻)

白米一駄御返事

故尼御前の十三年の御ために、白米一駄・芋一俵・用途三貫・清酒瓶子一具・濁酒大瓶一・ちまき三把・きのこ・山の芋・葛の粉・豆・栗・?(たら)・甘海苔・土筆(つくし)・草の餅飯(もちい)・わらび・ひじき・麻実(あさのみ)・いものさす・蕗(ふき)・前胡(せんこ)・搗布(かちめ)・牛蒡(こんはう)・野老(ところ)・篠芽(しのへ)・煮豆・味噌・塩・海老根(えびね)山葵(わさび)・折敷(おしき)・箸給候て法華聖人の御見参(けさん)に心をいたしまいらせて申し上げ奉り候ぬ。いずれもいずれも御具足莫大に見まいらせ候ぬ。恐々謹言。

 三月七日

日興花押

御返事   

(歴代法主全書一巻)
  (※拝読の便宜上、平仮名を漢字をあてたところ有り)


語句の意味

○故尼御前の十三年の御ため=逝去された尼御前の十三回忌の追善供養を日興上人にお願いした時の御返事であることがわかります。故尼御前が何方かはわかりませんが、以下に、御供養の品々が記されております。

○白米一駄=精米されたお米二俵。一駄は馬の背に両側に分けて乗せることから二俵で一駄といいます。

○芋=当時の芋はサツマイモではありません。多くは今日でいう里いもだったようです。後に、「山の芋」とあることからもわかると思います。

○用途三貫(ようとさんかん)=用途はお金。一貫は一千枚。つまり、三千枚のお金のことです。当時の日本人の平均で、大人一人が一年間に一石のお米を食べたようです。お米一石の値段が一貫文であったといわれております。

○清酒瓶子(せいしゅへいし)=清酒を入れる容器のことをいう。

○濁酒大瓶一(にごりざけおおびんいち)=濾過して清酒になる手前のお酒を大きな瓶に入れて御供養としてお供えした様子がうかがえます。

○葛の粉=葛の根を粉末にしたものは良質のデンプンで栄養価が高く、体を温める時などにも用いられたようです。

○いものさす=芋を加工したものでしょうか。わからないところです。

○前胡(せんこ)=野竹こと。発熱や咳などの風邪に効用があるとされる薬草です。

○搗布(かちめ)=コンブ科の海藻のこと。食用に用いられていたのか他の用途があったのかわからないようです。一説には、糊に加工した、とありました。

○野老(ところ)=ヤマイモ科の多年草で、根を食用にしたり煎じて薬用とするようです。

○篠芽(しのへ)=竹の子の別名。

○海老根(えびね)=ラン科の多年草。

○折敷(おしき)=檜や杉などを薄くはいだ板で作ったお盆のこと。

○法華聖人の御見参=法華聖人は日蓮大聖人様のことです。見参はその大聖人様にお見せした、ということです。


【日興上人】

 日興上人は寛元四年(一二四六年)三月八日、甲斐国巨摩郡大井庄鰍沢に誕生されました。幼いころお父様が亡くなり、お母様は武蔵国の網島家に再嫁されました。そのようなことから、富士郡上方庄河合(冨士郡芝川町)に住していた、お母様の祖父である由比入道のもとで御幼少時代を過ごされました。生来が利発あられたことから、七歳の時、蒲原荘にあった天台宗の寺院である四十九院に上り修学に励まれました。この時に、漢籍や和歌、また書を学ばれました。後に、日興上人に対して、「日興(上人)は外典読みである」といわれもない批難中傷を加えるものが出ましたが、それだけ漢籍や和歌に造詣が深かった事の証拠であり、御幼少のころの修学が如何に秀でていたかを知る事柄であると云えます。


【大聖人のお弟子に】

 正嘉二年(一二五八年)に、日蓮大聖人様が岩本実相寺の経蔵おいて、一切経を閲覧された時に、大聖人様の御尊容に接して、お弟子になり伯耆房(ほうきぼう)日興の名を賜わりました。それ以来、常に師である大聖人様に付き随い、お給仕を怠らずに励まれました。伊豆や佐渡の御流罪にもお供をされております。竜の口で、末法の御本仏として「発迹顕本(ほっしゃくけんぽん)」された時も、当然のことながら、お供をされていたことと拝します。


【常随給仕】

 佐渡の島では、大聖人様にお給仕されるとともに、阿仏房等と語らって、積極的な折伏を推し進められ、大きな成果を挙げられておりました。このことは、後の佐渡一国に建立された多くの寺院が富士大石寺の末寺となっていたことからも明らかなことです。
 佐渡の地は、末法の一切衆生を導く御本仏が最初に活動をされた地です。したがって、その間近でお仕えしている日興上人は、大聖人様の深い御境界をご承知であったと拝察いたします。この時期に著された『開目抄』は、末法の御本仏が日蓮大聖人様であることを明かされた書です。また、『如来滅後五五百歳始観心本尊抄』は、末法の一切衆生を成仏に導く為の御本尊様のお姿を明らかにされた書です。この大切な御書の御執筆を、間近に拝し、さらには大聖人様より直々に御教示を賜っていたことは想像に難くありません。


【大聖人様が御本仏】

 大聖人様が御入滅になった後、日興上人が御書写遊ばされた御本尊様に、大聖人様を御本仏と拝された証拠が示されています。つまり、「南無妙法蓮華経」のお題目とともに、「日蓮」と御認めになっていることです。これは、南無妙法蓮華経が即座に日蓮大聖人様であられ、日蓮大聖人様が即座に南無妙法蓮華経の御題目であられることを意味しております。
 ところが、日昭や日朗など他の弟子方は、お題目の下に自らの名前を書いた曼荼羅を以て、本尊とするような誤りを犯しております。ここに、大聖人様を御本仏と拝したか、菩薩としか拝することが出来なかったか、の違いが顕われているのです。


【法華聖人】

 拝読した『白米一駄御返事』の中にも、「法華聖人の見参」とあります。他のお手紙にも「仏聖人の御見参」や「法華聖人の御宝前に申し上げ」等のお言葉を述べられていることからも、日興上人が大聖人様を御本仏と拝していたことが明らかなのです。
 阿仏房や千日尼を始めとした佐渡の法華講衆も日蓮大聖人様の深い御境界を感じていたと思います。それは、日興上人が身延を離山された後には、佐渡の法華講衆は身延山へは参詣しませんでした。当時の佐渡からの登山の道中は、先ず日本海を渡り、信州を経由し、甲府から富士川沿いに下るものです。富士大石寺に至る途中に身延はあります。しかし、阿仏房や千日尼の子や孫たちは、謗法の地となった身延に立ち寄ることはなく、日蓮大聖人様の教えを正しく守り伝える日興上人がおわします富士大石寺に参詣をしたのです。
 大聖人様が身延に入られた時、日興上人は二十九歳でした。生まれた地でもあり、縁故もあります。それをたどって甲斐、駿河へと折伏の闘いを推し進められました。
 日興上人の折伏が如何に素晴らしくまたその結果が邪宗邪義を震撼させたことは、後に惹起した、「熱原法難」によって知ることができます。


【正しいことには抵抗がある】

 『兄弟抄』に
「此の法門を申すには必ず魔出来すべし。魔競はずば正法と知るべからず」(九八六頁)
と大聖人様が述べられているように、「熱原の法難」を通して、折伏が末法の修行であり、南無妙法蓮華経が正法である、と現証を教えて下さったのも日興上人です。
 今日は日興上人の六八一回目の御入滅の日です。明後年の三月八日には御生誕七百七十年の佳節を迎えます。私たち日蓮正宗富士大石寺の信仰を持つものは、「日興上人が拝した御本仏日蓮大聖人様」が信仰の根本であることを忘れることなく、正法広布に進んでまいりましょう。
 
 立春を過ぎたとはいえ、寒い毎日です。ただ、寒い中にも春の訪れを感じる時があります。家の中に籠もっていたのでは折角の春の便りも見過ごすことになりかねません。天気の良い日には外に出て、大聖人様のお手伝いをいたしましょう。大聖人様に御縁のない方ばかりの世の中をよくするために。ご精進をお祈りいたします。

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日蓮正宗向陽山佛乗寺