日蓮大聖人御書拝読と御法話

平成25年2月16日 日蓮大聖人御誕生会拝読御書

三沢御房御返事

三沢御房御返事(日蓮大聖人御書七六二頁)
文永一二年二月一一日 五四歳

三沢御房御返事(平成新編御書・七六二頁)

佐渡国の行者数多此の所まで下向ゆへに、今の法門説き聞かせ候えば、未来までの仏種になる事、是皆釈尊の法恩ありがたし。越後にて此の歌詠じ候ゆへ書き送り候なり。

 おのづからよこしまに降る雨はあらじ 風こそ夜の窓をうつらめ

 二月十一日


【通解】

 佐渡の国から多くの法華経の行者がここへ参詣されました。そこで、今の法門を説き聞かせました。このことで未来までの仏種となることは皆釈尊への法恩となりますので有り難いことです。越後で此の歌を詠みましたので書き送ります。

 自ら横なぐりに降る雨はありません。風が吹くことで夜の窓を打つような雨になるのです。


【拝読の栞】

 当抄の対告衆である「三沢御坊」は、三沢小次郎のことと思われます。三沢小次郎は、現在の富士宮市油野に住していた信徒です。総本山大石寺から西に約六キロほど下ったところにあたります。
「日蓮が佐渡に流罪される前に説いた教えは、釈尊の爾前経と同じようなものであり、佐渡に流罪になった後に真実の教えを説いたのである(取意)」(御書一二〇四頁)
と、「佐前・佐後(さぜん・さご)の法門」を示された『三沢抄』も同じく三沢小次郎に与えられた御書です。

 この御書が認められた文永十二年二月十一日は、大聖人様が身延に入られてから九ヶ月後です。文永十一年三月十三日に配流の地であった佐渡の一谷(いちのさわ)を出発され、三月二十六日に鎌倉に入られました。四月八日には鎌倉幕府の侍所司書であった平頼綱(たいらのよりつな)に対面して、三度目の国家諌暁をされました。しかし、平頼綱が大聖人様のお言葉に従うことはありませんでした。そこで、五月二日に、鎌倉を発たれ、十七日に甲斐国・波木井郷に入られました。

『種々御振舞御書』には、
三度国をいさめんにもちゐずば国をさるべしと (御書・一〇六九頁)
とございます。

 国家諌暁の一回目は、文応元年(一二六〇年)七月に『立正安国論』を宿屋光則を通して執権の北条時頼に上程し、幕府の信仰を問い質し正法への帰依を勧めました。二回目は文永八年(一二七一年)九月です。この時は平頼綱に見参して折伏をされました。三回目が佐渡から鎌倉に帰られた四月八日です。再び平頼綱に対面して厳しく破折をされました。

 三度の諌暁も聞き入られなかったことから、隠棲を決意されたのです。隠棲とはいっても、身を隠し時を過ごす、というものではありませんでした。従って、大聖人様の周りには常に大勢のお弟子と檀信徒が集い、将来の正法広布の時に備えておりました。
抑貴辺の去ぬる三月の御仏事に鵞目其の数有りしかば、今年一百余人の人を山中にやしなひて、十二時の法華経をよましめ談義して候ぞ (御書・一三八六頁)
との御書があります。これは曽谷入道の御供養で百人を超すお弟子方が修行に励むことができる、と厚い信仰をお誉めになるお言葉ですが、この御文からも、ただの隠棲ではないことが分かるのです。

 佐渡からも大勢の檀信徒が登山し、大聖人様から直々に御法門を聴聞したことが述べられております。どのような御法門であったか、というと、
「今の法門説き聞かせば」
とあります。ここで、「今の法門」と態々仰せになっているいは、「末法の御本仏が説く法門」との意がこめられていることに留意すべきかと思います。つまり、釈尊の教えは去年の暦のようなものであり、それに執着するのではなく現在の私たちの役に立つ暦、つまり今年の暦を用いるべきことを教えて下さった、ということです。その御法門が、
「未来までの仏種」
となるのです。仏種とは仏の種です。この種から芽が出て、花を咲かせ実を付けるようになります。実は仏に成ることですから、仏種があれば間違いなく仏になれるのです。

 それが説かれているのが、法華経です。ですから、法華経を説かれた釈尊に、
「法恩有り難し」
と仰せになるのです。法華経は末法に大聖人様が御出現あって、末法の人たちを導くことが説かれている、ということが分かれば、この御文の意が領解できるのです。

 『寂日房御書』では次のように仰せになります。
日蓮となのる事自解仏乗とも云ひつべし。かやうに申せば利口げに聞こえたれども、道理のさすところさもやあらん。経に云はく「日月の光明の能く諸の幽冥を除くが如く、斯の人世間に行じて能く衆生の闇を滅す」と此の文の心よくよく案じさせ給へ。「斯人行世間」の五つの文字は、上行菩薩末法の始めの五百年に出現して、南無妙法蓮華経の五字の光明をさしいだして、無明煩悩の闇をてらすべしと云ふ事なり。日蓮等此の上行菩薩の御使ひとして、日本国の一切衆生に法華経をうけたもてと勧めしは是なり。此の山にしてもをこたらず候なり。今の経文の次下に説いて云はく「我が滅度の後に於て応に此の経を受持すべし。是の人仏道に於て決定して疑ひ有ること無けん」云云。かゝる者の弟子檀那とならん人々は宿縁ふかしと思ひて、日蓮と同じく法華経を弘むべきなり (御書・一三九三頁)
御文の意を拝しますと、おおよそ次のようになります。

「日蓮との名乗りは自ら仏の悟りを開いた上でのことである、というべきです。このように申せば自慢しているように聞こえるかも知れませんが、道理の上から指し示すところで、その通りです。(そこでお経文を見ますと)

  法華経の『神力品』に、
「日月の光明の能く諸の幽冥を除くが如く、斯の人世間に行じて能く衆生の闇を滅せん」(法華経・五一六頁)
と説かれております。この経文の意味をよくよく考えるべきです。

 『神力品』の「斯人行世間」の五文字は、上行菩薩が末法の初めの五百年に出現して、南無妙法蓮華経の五字の光明により、全ての煩悩の根本である無明の闇を取り除くことを説かれているのです。

 日蓮は上行菩薩の御使として、日本国の一切の人々に、南無妙法蓮華経と法華経を信仰することを勧めるのは、経文に説かれているからです。この山にあっても、怠ることなく勧めております。

 また、経文の次の所には、「我が滅度の後には法華経を受持すべきです。そうであれば仏道修行によって仏に成ることは間違いがありません」と説かれております。

 このような日蓮の弟子檀那となったのですから、過去からの深い縁であると心に定めて、日蓮と同じように、法華経を弘めるべきです」

以上のように述べられております。


 このようなことを登山参詣をしてくる檀信徒にお話しされていたのです。また、日興上人をはじめとするお弟子方に命じて、各地で折伏に励む方々にお手紙をもって教導や激励をされておりました。
「佐渡国の行者数多此の所まで下向ゆへに、今の法門説き聞かせ候えば」
との御文から、大聖人様の身延でのお姿の一端を拝することができるように思います。


【お歌の意を拝す】

このお歌は、
「越後にて此の歌詠じ候ゆへ書き送り候なり」
とありますことから、佐渡からお帰りなる途中の越後でお読みになったものであることが明らかです。夜、雨戸を打つ雨音を聞きながらお詠みになったのでしょうか。それとも、静かに降る雨をご覧になって、本来の雨はこのようなものであるが、心が乱れていると慈雨も暴風雨に感じる、という自己中心の心を戒める意味で詠まれたのでしょうか。

 「窓を打つ」と言っても、今日の窓と違い、木で作られた雨戸のことです。電気もない真っ暗な中で、強い雨音を聞きながら、早く夜明けが来ることを願う気持ちもこめられているように感じます。

 色々な解釈ができますが、ここでは「雨」を私たちの「仏種」、風を「煩悩」として拝してみます。私たちは生まれた時には、煩悩もなく素直な心で生まれてきますが、成長するに従って知恵も付きますが煩悩に汚されます。本来真っ直ぐに地上に降ってくる雨が、風によって横なぐりの雨になるように、素直で正直な心であれば易々と仏に成ることが叶うのですが、煩悩という風に吹かれて思わぬ方向に進んでしまい、折角の仏種から芽を出すことが出来ない状況にある場合が少なくありません。

 そのような姿を見て、皆仏に成ることが出来る可能性を秘めていることに気づかず、正しい仏道修行を忘れて、自己中心の生活に陥っていることを哀れんで詠まれたものであると思います。

 幸いに、私どもは、煩悩を菩提(悟り)に変える御本尊様をかたく信じております。ゆえに、煩悩の風に吹かれることはありましても、真っ直ぐに降る雨のように、御本尊様の御加護を頂き、成仏という大地に到達することが出来ます。

 大聖人樣が末法に御出現され、私たちに教えて下さることを深く信じ、過去からの深い因縁を心に刻み、自らの幸せと周囲の方々の幸せを願って、折伏の修行に励みましょう。

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日蓮正宗向陽山佛乗寺