日蓮大聖人御書拝読と御法話

平成25年4月13・14日 日蓮大聖人御報恩御講拝読御書

聖愚問答抄

聖愚問答抄 (平成新編御書六六六頁)
文永一〇年五月一七日  五二歳

聖愚問答抄 (平成新編御書六六六頁)

妙法蓮華経を信仰し奉る一行に、功徳として来たらざる事なく、善根として動かざる事なし。譬へば網の目無量なれども、一つの大綱を引くに動かざる目もなく、衣の糸筋巨多なれども、一角を取るに糸筋として来たらざることなきが如し


【通解】

 妙法蓮華経を唯一の正法と信じて修行に励むことにより、受けられない功徳はなく、動かない善根はありません。譬えていえば、網の目は数え切れないほどあっても、一本の太い綱を引くことにより、すべての網の目が連動して動くようなものです。衣は沢山の糸からできておりますが、衣の片隅を引っ張るだけでたぐり寄せることが出来ます。


【要点】

 聖愚問答抄は、聖人(大聖人様)と愚人(私たち凡夫)の対話形式で認められた御書です。浅い教えから深い教えに愚人を導き、やがて妙法蓮華経の教えがただ一つの正しい教えであることを信解し、愚人は不退転の信仰を決意するにいたることが述べられています。

 大聖人様は、ここで、妙法蓮華経を信仰することで受けられる功徳の大きさを述べられております。無量の網の目や沢山の糸を功徳に譬え、南無妙法蓮華経と唱える修行を、網を引く綱や太い綱や衣の角に譬えられ、南無妙法蓮華経と御題目を唱える「一行」に、叶わない願いはない、来らない功徳はない、と教えて下さる誠に有り難い御言葉です。

 どのようなことがあっても、大聖人様が教えて下さるように、御題目唱へるならば御加護を受けられます。唱題に励みましょう。  



【寿量品 その五】
諸善男子。如来見諸衆生。楽於小法。徳薄垢重者。為是人説。我少出家。得阿耨多羅三藐三菩提。然我実成仏已来。久遠若斯。但以方便。教化衆生。令入仏道。作如是説。諸善男子。如来所演経典。皆為度脱衆生。或説己身。或説他身。或示己身。或示他身。或示己事。或示他事。諸所言説。皆実不虚。所以者何。如来如実知見。三界之相。無有生死。若退若出。亦無在世。及滅度者。非実非虚。非如非異。不如三界。見於三界。


【書き下し文】

諸の善男子、如来諸の衆生の、小法を楽える徳薄垢重の者を見ては、是の人の為に、我少くして出家し、阿耨多羅三藐菩提を得たりと説く。然るに我、実に成仏してより已未、久遠なること斯の若し。但方便を以て、衆生を教化し、仏道に入らしめんとして、是の如き説を作す。諸の善男子、如来の演ぶる所の経典は、皆衆生を度脱せんが為なり。或は己身を説き、或は他身を説き、或は己身を示し、或は他身を示し、或は己事を示し、或は他事を示す。諸の言説する所は、皆実にして虚しからず。所以は何ん。如来は如実に三界の相を知見す。生死の、若しは退、若しは出有ること無く、亦在世、及び滅度の者も無し。実に非らず、虚に非ず、如に非ず、異に非ず。三界の三界を見るが如くならず。


【現代語訳】

善き人々よ、仏は劣った教えを望み徳が薄く汚れの多い人々の姿を見て、「私は若いときに出家となり最高の悟りを得たのです」と説きました。しかし、私が仏に成ったのは実のところ、久しく遠い時間を経過していることは先に述べたごとくです。ただ方便を用いて人々に教え、仏の道に導き入れるためにこのようなことを説いたのです。

 善き人々よ、仏の説く経典は、すべて人々を仏に導くためのものです。ある時には仏自身のことを説き、ある時には他の仏のことを説き、ある時には仏の身体のことを現し、ある時には他の仏の身体のことを現し、ある時には自己の仏としての行いを示し、ある時には他の仏の行いを示しました。

 このようにして説かれたことは、すべて真実であり虚偽ではありません。それは何故であるかといえば、仏は如実(ありのまま)に三界(欲界・色界・無色界)の姿を見ることができます。生まれたり死んだりすることもありません。またこの世に存在し悩みの姿にあるように思うことも、反対に悩みを解決したように思えることもしません。真実でもなく虚偽でもなく、如(そのままのあり方)でもなく、異(別のあり方)でもありません。つまり、三界に住している人々と捉え方が違うのです。


如斯之事。如来明見。無有錯謬。以諸衆生。有種種性。種種欲。種種行。種種憶想。分別故。欲令生諸善根。以若干因縁。譬喩言辞。種種説法。所作仏事。未曽暫廃。如是【我成仏已来。甚大久遠】。寿命無量。阿僧祇劫。常住不滅。諸善男子。【我本行菩薩道。所成寿命】。今猶未尽。復倍上数。然今非実滅度。而便唱言。当取滅度。如来以是方便。教化衆生。所以者何。若仏久住於世。薄徳之人。不種善根。貧窮下賎。貪著五欲。入於憶想。妄見網中。


【書き下し文】

斯の如きの事、如来明らかに見て、錯謬有ること無し。諸の衆生、種種の性、種種の欲、種種の行、種種の憶想、分別有るを以ての故に、諸の善根を生ぜしめんと欲して、若干の因縁、譬喩、言辞を以て、種種に法を説く。所作の仏事未だ曽て暫くも廃せず。是の如く、【我成仏してより已来、甚だ大いに久遠なり】。寿命無量阿僧祇劫なり。常住にして滅せず。諸の善男子、【我本菩薩の道を行じて、成ぜし所の寿命】、今猶未だ尽きず。復上の数に倍せり。然るに今、実の滅度に非ざれども、而も便ち唱えて、当に滅度を取るべしと言う。如来、是の方便を以て、衆生を教化す。所以は何ん。若し仏、久しく世に住せば、薄徳の人は善根を種えず。貧窮下賎にして、五欲に貪著し、憶想妄見の網の中に入りなん。


【現代語訳】

仏は三界の姿をハッキリと見て誤りがありません。人々には、色々な性格があり、色々な欲望をもち、色々なおこないをし、色々に思いをめぐらします。そのような人々に、善根を生じさせようとして多くの因縁や譬えを、言葉をもって説きました。このような仏としての行いは、これまでに些さかも怠ったことはありません。

 このように【私が仏になったのは、極めて久しくまた遙か遠い昔です】。その寿命は無量であり数えることはできません。そして常にこの世界にあって入滅することはありません。善き人々よ、【私が菩薩の修行をして成じたところの寿命】はこのように長い時を経過した今も尽きておりません。それどころか先に示した年数の倍の寿命があるのです。しかし、今は、真実の入滅ではありませんが、人々を導く手段として入滅をする、と説くのです。

 仏はこのように方便をもって人々を教え導きます。何故ならば、仮りに仏が永遠にこの世に住するこを知ったならば、徳の薄い人は善根を植えることをしないで、貧しく卑しい心により、眼・耳・鼻・舌・身の五欲に執着して自己を中心とした心の網の中に入り込み、永久に迷いの網の外に出ることができなくなるからです。


若見如来。常在不滅。便起O恣。而懐厭怠。不能生於。難遭之想。恭敬之心。是故如来。以方便説。比丘当知。諸仏出世。難可値遇。所以者何。諸薄徳人。過無量百千万億劫。或有見仏。或不見者。以此事故。我作是言。諸比丘。如来難可得見。斯衆生等。聞如是語。心当生於。難遭之想。心懐恋慕。渇仰於仏。便種善根。是故如来。雖不実滅。而言滅度。


【書き下し文】

若し如来、常に在って滅せずと見ば、便ちO恣を起して、厭怠を懐き、難遭の想、恭敬の心を生ずること能わじ。是の故に如来、方便を以て説く。比丘当に知るべし。諸仏の出世には値遇すべきこと難し。所以は何ん。諸の薄徳の人は、無量百千万億劫を過ぎて、或は仏を見る有り、或は見ざる者あり。此の事を以ての故に、我是の言を作す。諸の比丘、如来は見ること得べきこと難し。斯の衆生等、是の如き語を聞いては、必ず当に難遭の想を生じ、心に恋慕を懐き、仏を渇仰して、便ち善根を種ゆべし。是の故に如来、実に滅せずと雖も、而も滅度すと言う。


【現代語訳】

 もし仏が常に存在して入滅しないと見たならば、人々はおごり高ぶる心をおこし、うみ怠ける心を懐くようになり、仏に遭いがたいという思いや、仏を敬う心が生じなくなります。

 そのような理由から、仏は教え導く手だてとして方便の教えを説くのです。比丘たちよ、あなた達は知らなければなりません。仏がこの世に出現されることに遭うことが難しいことを。何故ならば、徳の薄い人々は、はかりしれない百千万億という長い時間を経過した後に、あるいは仏に出会う者も、あるいは会うことができない者もおります。このようなことがある故に、私はこのようにいいます。諸々の比丘よ、仏には出会うことは難しいものなのです、と。

 これらの人々は、私の言葉を聞いて、そうだ、仏に出会うことは難しいことなのである、という思いが生まれるのです。そして、心に仏を恋い慕い、喉が渇いたときに水を求めるように、仏を熱心に慕い求めることにより善根を植えることができるのです。このような理由で仏は、真実には入滅することはないのですが、あえて入滅をすると説くのです。


【ポイント】

☆三妙合論

三妙とは、@本因妙、A本果妙、B本国土妙のことです。この三つが寿量品で初めて顕かにされました。法華経の寿量品が他のお経文に比べて貴いのは、この三妙合論が説かれているからです。

@本因妙を顕す経文は、「我本行菩薩道 所成寿命」です。仏に成るための修行のことです。仏様も最初から仏様だったのではなく菩薩の修行をして仏様に成った、という意味です。

A本果妙は、「我成仏已来。甚大久遠」というお経文です。修行をして仏に成ったのは久遠の昔であることを述べ、仏道修行の因により仏の功徳を得たことを明かしております。

B本国土妙は「我常在此 娑婆世界 説法教化」です。これは先月でてまいりました。仏様が常に私たちと同じ此の娑婆世界に御坐しまして、導いて下さっている、と説かれます。これは、仏様が活動される国土を顕かにされるお経文です。

この三妙を三大秘法に配すれば、本因妙は「本門の題目」、本果妙は「本門の本尊」、本国土妙は「本門の戒壇」となります。これについては、別の機会に勉強をしたいと思いますが、三妙のお経文と、三大秘法から拝すればどこにあたるかを知っておいて下さい。


☆小法を楽える徳薄垢重の者

小法とは、小さい教え、低級な教え、劣った教えという意味です。法華経から見れば、阿弥陀経や大日経など法華経以外の教えは全て「小法」です。また文底の教えから見ると、南無妙法蓮華経と唱えていても、富士大石寺の大御本尊様を的としての南無妙法蓮華経でなければ「小法」なのです。

 「楽」はねがうと読みます。意味は「願う・好む」です。小法を願うのですからその人も境界の小さな人、低い考えに支配された人、ということになります。このような人は「徳薄垢重(徳は薄く垢は重い)」です。徳とは功徳の徳であり、人徳や福徳の徳です。徳は薄いよりあつい方がいいですね。反対に垢についてはいかがですか。誰しも軽くありたいものです。垢が付いて身動きができないようでは困ります。経文で示される「垢」はお風呂で流せる垢ではなく煩悩のことです。凡夫は煩悩につつまれています。垢(煩悩)まみれの生活で身動きがとれない状況が思い浮かびます。

 しかし、垢が付くのは生きている証拠であり、垢がでなくなったときは臨終の時です。煩悩もまた同じです。生きているから煩悩があるのですから、煩悩をなくすることを考えるのではなく、煩悩をよい方向に変えて行く工夫が賢い生き方です。法華経は煩悩を否定しません。むしろ積極的に煩悩を見つめ、煩悩の中に悟りがあると説きます。ですから徳の薄い煩悩の重い私たちも成仏が叶うのです。安心してよいのです。もっとも、ここでの意味は、法華経以外の教えに執着している人のことを垢がこびり付いて身が重くなっている、といわれております。ですから、今は身軽でもいつ垢まみれになるかわかりません。互いに注意しましょう。

 もう一つ、「小法」とありますことから「大法」があることを知らねばなりません。邪宗の人たちに、「あなたのお経は劣っている」といいますと、「そんなことをいうものではない」と怒りを露わにします。それはお経文に暗いからです。「小法」と「大法」のあることを教えることも折伏です。ゆえにここに「小法」とあることを覚えておきましょう。そして「徳の薄い人」たちに、垢にまみれていながら気づかない人たちに、垢を落として清々しくなる富士大石寺の教え示して行きましょう。


☆《心懐恋慕》しんねれんぼ。

心に恋慕を懐く。恋慕は恋い慕う。懐くとは心に思うこと。つまり、仏を心から恋い慕うこと。私たちの信心で拝すれば、御本尊・大聖人を恋い慕い思うことです。御本尊が有り難いと思い、尊いと感じ、御本尊・大聖人から絶対に離れないと思う心のことです。したがって、心が御本尊のことで満たされた状態、いつも御本尊が頭から離れない、御本尊のお使いをしたい、そのような心の働きは成仏の姿であるといえます。そのように考えますと成仏はむつかしいことではありませんね。ただひたすら御本尊・大聖人を思う、大聖人を心に恋い慕うればよろしいのです。そして渇仰するのです

「日蓮こいしくをはせば、常に出づる日、ゆうべにいづる月ををがませ給へ」(七四〇頁)
とは佐渡の国の国府尼に与えられた御文です。恋慕の心を懐き励むことは大聖人が仰せになられたことでもあります。佐渡の人々は大聖人を御本仏と仰ぐことにより成仏の功徳を受けました。しかし、御在世の信徒であっても、恋慕の心がない者たちは退転しております。信心の厳しさがここにあります。 

 また、恋慕の心を凡夫の常として忘れるときもあります。勤行唱題を形式的に行う時は恋慕の心が薄れているときです。注意したいものです。仏壇の中には日蓮大聖人が御坐しまし見守って下さっっております。それを形式的に拝んでいたのではすぐに見抜かれます。功徳を積むことは到底できません。努々油断なきように。「心懐恋慕」の所になりましたなら、「日蓮大聖人」を恋い慕っているご自身がいることを思いましょう。繰り返します。その境界が成仏の境界です。

 好い季節になりました。外に出て、縮こまっていた心と体を伸ばし、御本尊様のお使いをしようではありませんか。今月は宗旨建立の月です。七百五十年の間立宗の精神を伝えてきた日蓮正宗の信仰を次世代に伝えるために励みましょう。



永代経 【寿量品 その五】(平成十八年二月一日)

又善男子。諸仏如来。法皆如是。為度衆生。皆実不虚。譬如良医。智慧聡達。明練方薬。善治衆病。其人多諸子息。若十。二十。乃至百数。以有事縁。遠至余国。諸子於後。飲他毒薬。薬発悶乱。宛転于地。是時其父。還来帰家。諸子飲毒。或失本心。或不失者。遙見其父。皆大歓喜。拝跪問訊。善安穏帰。我等愚癡。誤服毒薬。願見救療。更賜寿命。父見子等。苦悩如是。依諸経方。求好薬草。色香美味。皆悉具足。擣?和合。与子令服。而作是言。此大良薬。色香美味。皆悉具足。汝等可服。速除苦悩。無復衆患。其諸子中。不失心者。見此良薬。色香倶好。即便服之。病尽除愈。余失心者。見其父来。雖亦歓喜問訊。求索治病。然与其薬。而不肯服。所以者何。毒気深入。欠本心故。於此好色香薬。而謂不美。


【書き下し文】

又善男子、諸仏如来は、法、皆是の如し。衆生を度せんが為なれば、皆実にして虚しからず。譬えば、良医の智慧聡達にして、明らかに方薬に練し、善く衆病を治するが如し。其の人諸の子息多し、若しは十、二十、乃至百数なり。事の縁有るを以て、遠く余国に至りぬ。諸の子後に、他の毒薬を飲む。薬発し悶乱して、地に宛転す。是の時に其の父、還り来って家に帰りぬ。諸の子毒を飲んで、或は本心を失える、或は失わざる者あり。遥かに其の父を見て、皆人いに歓喜し、拝跪して問訊すらく、善く安穏に帰りたまえり。我等愚癡にして、誤って毒薬を服せり。願わくは救療せられて、更に寿命を賜え。父、子等の苦悩すること是の如くなるを見て、諸の経方に依って、好き薬草の色香美味、皆悉く具足せるを求めて、擣?和合して、子に与えて服せしむ。而して是の言を作さく、此の大良薬は、色香美味、皆悉く具足せり。汝等服すべし。速かに苦悩を除いて、復衆の患無けん。其の諸の子の中に、心を失わざる者は、此の良薬の色香、倶に好きを見て、即便之を服するに、病尽く除こり愈えぬ。余の心を失える者は、其の父の来れるを見て、亦歓喜し、問訊して、病を治せんことを求索むと雖も、然も其の薬を与うるに、而かも肯えて服せず。所以は何ん。毒気深く入って、本心を失えるが故に、此の好き色香ある薬に於て、美からずと謂えり。


【現代語訳】

たとえば、智慧が聡く全てに達している優れた医師がいたとします。その医師は薬を調合したり、さまざまな病気に対応して適切な治療を施すことに熟達しておりました。またその医師には多くの子供たちがおりました。十人、二十人、あるいは百数十人の子供たちがいたとしましょう。医師は、ある時、所用で外国へ出かけました。子供たちは(父が出かけた)後に、薬棚にあった薬(毒薬)を飲んでしまいました。その薬を飲んだことにより、(子供たちは)悶え、悩乱して、地の上でころげまわりました。その時に、父が(外国から)家に帰ってきました。毒薬を飲んだ子供たちは、本心を失ったままの者もおれば、あるいは失わなかったものたちもいました。子供たちは、帰ってくる父の姿を見て、みな大いに喜んで、ひざまずいてお辞儀をして、丁寧に言いました。『よく御無事でお帰りくださいました。愚かな私たちは、薬棚にあった毒薬を誤って飲んでしまいました。どうか治療して下さい。そして寿命をお与え下さい』と。父は、苦しみ悩んでいる子供たちの姿を見て、色・香り・味ともにそろったすぐれた薬草を探してきて、それを臼でつき、ふるいにかけ、調合して、子供たちに与え、服用させました。そして、つぎのように言いました。
『このすぐれた良薬は、色・香り・味ともにすべてそなえています。子供たちよ、これを飲みなさい。すみやかに苦しみや悩が除かれて、病はすべてなおります』と。
 毒薬を飲んだ子供たちの中で、本心を失わない者は、色もよく香も素晴らしい良薬を見て、いわれるままに素直な心ですぐさま服用したところ、それまでの苦しみがたちまちに除かれて治癒しました。
 しかし、本心を失ってしまっている子供たちは、自分たちの父が帰ってきたのを見て、同じように喜び、ひざまずいてお辞儀をして丁寧に、病を治してくれるように求めましたが、父親である医師から与えられた薬を、あえて服用しようとはしませんでした。そのわけは、毒薬の効き目が深く心の中にまで行きわたり、本の心を失ってしまっていたためです。そのすばらしい色・香りある薬を、(色も香りも)良くないと思ったからです。


〔今日のポイント〕

 良医病子(ろういびょうし)の譬がここから始まります。すぐれた医師と病を得たその子供、と言うことです。有名な法華経の七つの譬の中でもことに大切なものです。
 文底の信仰からは、「良医」は大聖人様。「病子」は私たち末法の衆生。そして、「大良薬」は三大秘法の南無妙法蓮華経であることはいまさら申すまでもありません。幸いなことに、私たちは毒薬を飲みましたが、医師の勧めにしたがって素直に良薬を飲むことができておりますので「更賜寿命」は疑いのないところです。「更賜寿命」はさらに命を賜る、と言うことですから、「元気で長生きができる」と読み代えることができます。南無妙法蓮華経の御本尊様の大きなお力を教えて下さる経文です。御本尊様の薬を飲む行為は、お題目を唱え、折伏実践することですから、日蓮正宗の信仰は、寿命さえも延ばすことができる大きな功徳があるのです。
 ここでもう一つ学ぶことができます。それは薬であっても飲み方次第では毒薬になってしまう、ということです。父親である医師の薬棚から、子供たちが薬を勝手に取り出し、誤って飲んだことにより、大きな苦みや悩みを抱える結果を招いたことを忘れてはなりません。今日的な言い方をすれば、「自分勝手に飲んだ薬による副作用」に苦しめられる姿といえます。
 念仏や真言の教えを信じている人々は、仏の教えを信じているようですが自分勝手に信仰をしておりますので寿量品の経文では「飲他毒薬」(勝手に誤って薬を飲む姿)です。当然そこには「副作用」があります。したがって「薬発悶乱。宛転于地」となります。
 実は、折伏とはそのことを教えてあげることなのです。薬には違いないのですが飲み方が違うゆえに毒薬となっているのですよ、いま私が正しい飲み方を教えましょう、と。これが折伏なのです。そこで、朝夕の勤行の時に、この箇所になりましたら、私たちは素直に「大良薬」を飲むことができている、ありがたい、と感謝し、本心を失って毒薬を飲んだか人、飲み続けている人達を可哀想に思い、薬の飲み方を教えてあげようという慈悲の心をもって読経することが仏のお使いの立場であるといえます。
 成仏は難しいことはありません。ただ素直に教えを受けるのみです。成仏とは本心を取り戻すことなのです。私たちの本心は、生まれたときの心は皆仏なのです。仏身が悪縁により表に出ていないだけです。外からもってくることではないのですから、難しく考える必要はありません。日蓮大聖人様の教えを信じ実践するか否か、ただこれだけです。そして教えることができる自分であるように御本尊様に祈りましょう。
 建設工事も急ピッチで進んでいます。太陽の光も日に日に力強さが感じられるようになりました。寒い日もありますがいま佛乗寺は希望の中の日々です。もちろん檀信徒の皆さまもその渦の中です。ご精進をお祈りします。来月は今日のところをもう少し詳しく学びたいと思います。誘い合ってご参詣下さい。
本日は永代経(御経日)の大切な日にもかかわらず所化に代理を勤めさせ申し訳なく思っております。ただ住職は本山の用で留守になっていることをご理解下さい。そして、住職は留守ではありますが、「檀信徒」の皆さまがこのようにご参詣下さることで、住職は安心して本山でのご奉公に励むことができます。まさに「外護の知識」という働きが皆さまの信心の上に現れている、と思います。ありがたいことです。今後も留守がちになりますが、「外護の知識」のお立場を貫くご精進を念願致します。



しょうぐもんどうしょう(聖愚問答抄)上下二巻。文永二年(1265)、日蓮大聖人が四十四歳の時の著作。対告衆は明らかでない。聖人と愚者との問答形式で、愚者が法華一乗に帰する次第が述べられ、権実相対の義が明かされている。上巻では、まず律宗・浄土宗・真言宗・禅宗などの智者が次々と愚者を訪ね、それぞれ前の宗を破して自宗を宣揚し、愚者に信仰を勧める。愚者はその度にどれが是か非かと問い、法華経を聞くに及んで、真実の法を求めて自ら法華経の聖人を訪ねる。聖人は法華経こそ最第一の法であることを説き、浄土・真言を破折する。下巻では、聖人が禅宗の非を破して法華経に帰すべきことを説き、愚者は真実の法を知るが、先祖の孝養や唱題修行についてまだ疑問を持っているため、聖人は真実の孝養・折伏修行を教え、妙法五字を受持する功徳の深厚について述べている。そして、ついに愚者は妙法を受持し、不退転の信心を誓うことで終わっている。この書は大聖人の真筆がなく、文体が大聖人の他の文体と違うとして偽書とする説や、六老僧の一人・日持の著を大聖人が印可したという説もある。⇒権実相対(参考)聖愚問答抄上474、同下487

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日蓮正宗向陽山佛乗寺