日蓮大聖人御書拝読と御法話

平成25年5月12日 日蓮大聖人御報恩御講拝読御書

法華取要抄

法華取要抄 (平成新編御書七三六頁)
文永一一年五月二四日 五三歳

法華取要抄 (平成新編御書七三六頁)

末法に於ては大小・権実・顕密、共に教のみ有って得道無し。一閻浮提皆謗法と為り了んぬ。逆縁の為には但妙法蓮華経の五字に限る。例せば不軽品の如し。我が門弟は順縁、日本国は逆縁なり。


【現代語訳】

末法の今日にあっては、大きな乗り物に譬えられる教えも、小さな乗り物に譬えられる教も、権りの教えも実の教えも、比叡山の法華経も、高野山の真言宗も教えのみがあって、その教えで得道をする者はおりません。世界中の人達が仏の教えにしたがっておりません。このような人々のためには、妙法蓮華経の五字を説くことが大切です。例えば、法華経の不軽品でとかれますように、勇気をもって人々に真実の仏法を説いた不軽菩薩の修行がこれにあたります。我が日蓮の門弟は順縁であり、それ以外の日本国の人々は逆縁です。


【要点】

『法華取要抄』は日蓮大聖人様が房州に住していた富木常忍に与えられた書で、三大秘法の南無妙法蓮華経が末法弘通の本尊であることを明かされる重要な御書です。大切で有名な御文、
「日蓮は広略を捨てゝ肝要(かんよう)を好む、所謂(いわゆる)上行菩薩所伝の妙法蓮華経の五字なり」
は拝読の二行後に記されております。

 法華経と云っても、「広」・「略」・「要」と三種類に分けて拝することが大切です。広の法華経は、法華経の一部八巻二十八品全てをさします。略の法華経は、法華経の「方便品」と「寿量品」です。そして、要の法華経が三大秘法の南無妙法蓮華経なのです。そして、三種の中でも要の法華経こそが、末法の人々を仏に道に導く唯一の教えであることが示されるのです。

 大聖人様は、「我が門弟は順縁」と仰せ下さっております。順縁の順は素直、付き随う、正しい、受けつぐ等の意味があります。縁は、えにし、ゆかり、つながり、かかわりあい、等の意味です。ここで、大聖人様が、「あなたは順縁です」仰せ下さるのは、私たちを、「正直で・素直で・正しい心で・過去から日蓮との縁があります」と信心をお誉め下さり励まして下さるお言葉です。有り難く嬉しいお言葉です。



【寿量品 その六】
又善男子。諸仏如来。法皆如是。為度衆生。皆実不虚。譬如良医。智慧聡達。明練方薬。善治衆病。其人多諸子息。若十。二十。乃至百数。以有事縁。遠至余国。諸子於後。飲他毒薬。薬発悶乱。宛転于地。是時其父。還来帰家。諸子飲毒。或失本心。或不失者。遙見其父。皆大歓喜。拝跪問訊。善安穏帰。我等愚癡。誤服毒薬。願見救療。更賜寿命。父見子等。苦悩如是。依諸経方。求好薬草。色香美味。皆悉具足。擣?和合。与子令服。而作是言。此大良薬。色香美味。皆悉具足。汝等可服。速除苦悩。無復衆患。其諸子中。不失心者。見此良薬。色香倶好。即便服之。病尽除愈。余失心者。見其父来。雖亦歓喜問訊。求索治病。然与其薬。而不肯服。所以者何。毒気深入。失本心故。於此好色香薬。而謂不美。

【書き下し文】

又善男子、諸仏如来は、法、皆是の如し。衆生を度せんが為なれば、皆実にして虚しからず。譬えば、良医の智慧聡達にして、明らかに方薬に練し、善く衆病を治するが如し。其の人諸の子息多し、若しは十、二十、乃至百数なり。事の縁有るを以て、遠く余国に至りぬ。諸の子後に、他の毒薬を飲む。薬発し悶乱して、地に宛転す。是の時に其の父、還り来って家に帰りぬ。諸の子毒を飲んで、或は本心を失える、或は失わざる者あり。遥かに其の父を見て、皆人いに歓喜し、拝跪して問訊すらく、善く安穏に帰りたまえり。我等愚癡にして、誤って毒薬を服せり。願わくは救療せられて、更に寿命を賜え。父、子等の苦悩すること是の如くなるを見て、諸の経方に依って、好き薬草の色香美味、皆悉く具足せるを求めて、擣?和合して、子に与えて服せしむ。而して是の言を作さく、此の大良薬は、色香美味、皆悉く具足せり。汝等服すべし。速かに苦悩を除いて、復衆の患無けん。其の諸の子の中に、心を失わざる者は、此の良薬の色香、倶に好きを見て、即便之を服するに、病尽く除こり愈えぬ。余の心を失える者は、其の父の来れるを見て、亦歓喜し、問訊して、病を治せんことを求索むと雖も、然も其の薬を与うるに、而かも肯えて服せず。所以は何ん。毒気深く入って、本心を失えるが故に、此の好き色香ある薬に於て、美からずと謂えり。


【現代語訳】

たとえば、智慧が聡く全てに達している優れた医師がいたとします。その医師は薬を調合したり、さまざまな病気に対応して適切な治療を施すことに熟達しておりました。またその医師には多くの子供たちがおりました。十人、二十人、あるいは百数十人の子供たちがいたとしましょう。医師は、ある時、所用で外国へ出かけました。子供たちは(父が出かけた)後に、薬棚にあった毒の薬を勝手に飲んでしまいました。その薬を飲んだことにより、(子供たちは)悶え、悩乱して、地の上でころげまわりました。その時に、父が(外国から)家に帰ってきました。毒薬を飲んだ子供たちは、本心を失ったままの者もおれば、あるいは失わなかったものたちもいました。子供たちは、帰ってくる父の姿を見て、みな大いに喜んで、ひざまずいてお辞儀をして、丁寧に言いました。『よく御無事でお帰りくださいました。愚かな私たちは、薬棚にあった毒薬を誤って飲んでしまいました。どうか治療して下さい。そして寿命をお与え下さい』と。父は、苦しみ悩んでいる子供たちの姿を見て、色・香り・味ともにそろったすぐれた薬草を探してきて、それを臼でつき、ふるいにかけ、調合して、子供たちに与え、服用させました。そして、つぎのように言いました。

『このすぐれた良薬は、色・香り・味ともにすべてそなえています。子供たちよ、これを飲みなさい。すみやかに苦しみや悩が除かれて、病はすべてなおります』と。

 毒薬を飲んだ子供たちの中で、本心を失わない者は、色もよく香も素晴らしい良薬を見て、いわれるままに素直な心ですぐさま服用したところ、それまでの苦しみがたちまちに除かれて治癒しました。

 しかし、本心を失ってしまっている子供たちは、自分たちの父が帰ってきたのを見て、同じように喜び、ひざまずいてお辞儀をして丁寧に、病を治してくれるように求めましたが、父親である医師から与えられた薬を、あえて服用しようとはしませんでした。そのわけは、毒薬の効き目が深く心の中にまで行きわたり、本の心を失ってしまっていたためです。そのすばらしい色・香りある薬を、(色も香りも)良くないと思ったからです。


〔今日のポイント〕

 良医病子(ろういびょうし)の譬がここから始まります。すぐれた医師と病を得たその子供に譬えて信仰を勧めるものです。有名な法華経の七つの譬の中でもことに大切なものです。

 文底の信仰からは、「良医」は大聖人様。「病子」は私たち末法の衆生。そして、「大良薬」は三大秘法の南無妙法蓮華経であることはいまさら申すまでもありません。幸いなことに、私たちは毒薬を飲みましたが、医師の勧めにしたがって素直に良薬を飲むことができておりますので「更賜寿命」は疑いのないところです。「更賜寿命」はさらに命を賜る、と言うことですから、「元気で長生きができる」と読み代えることができます。南無妙法蓮華経の御本尊様の大きなお力を教えて下さる経文です。御本尊様の薬を飲む行為は、お題目を唱え、折伏実践することですから、日蓮正宗の信仰は、寿命さえも延ばすことができる大きな功徳が備わりることは、經文の上からも明らかです。

 ここでもう一つ学ぶことができます。それは薬であっても飲み方次第では毒薬になってしまう、ということです。父親である医師の薬棚から、子供たちが薬を勝手に取り出し、誤って飲んだことにより、大きな苦みや悩みを抱える結果を招いたことを忘れてはなりません。今日的な言い方をすれば、「自分勝手に飲んだ薬による副作用」に苦しめられる姿といえます。

 念仏や真言の教えを信じている人々は、仏の教えを信じているようですが自分勝手に信仰をしておりますので寿量品の経文では「飲他毒薬」(勝手に誤って薬を飲む姿)です。当然そこには「副作用」があります。したがって「薬発悶乱。宛転于地」という苦しみを受けてしまうのです。

 また、「或失本心。或不失者」とあります。本心を失う者とそうではない者の二種類です。このことについて、大聖人様は、
「失本心とは謗法なり。本心とは下種なり、不失とは法華の行者なり、失とは本有る物を失ふ事なり。今日蓮等の類南無妙法蓮華経と唱へ奉るは本心を失はざるなり」(『就註法華経口伝』御書・一七六八頁)
と仰せです。久遠の昔に下種された南無妙法蓮華経の教えを忘れない者と忘れてしまった者、と示されます。さらに、忘れてしまった者は法を謗る者となり、忘れない者は法華経の行者である、と述べられます。そう致しますと、大聖人様に順縁である私たちも、本心を忘れない者の中に入れていただけることになります。誤ったクスリを飲み、一時の苦しみがあったとしても、現在南無妙法蓮華経の大良薬を飲むことができているのですから、病が悉く癒えることは仏様が保証して下さっておりますので、安心です。

 私たちの折伏は、このことを教えてあげる修行です。本心を失っている相手ですから、よほど強い言葉で話をしないと奥底まで届きません。強い言葉とは、大声とか乱暴な言葉ではなく、確信と慈悲に満ちた言葉をさすことは申すまでもありません。

 その上で、薬には違いないのですが飲み方が違うゆえに毒薬となっているのですよ、いま私が正しい飲み方を教えましょう、そうすれば、現在の悩みや苦しみが解決します、と真心からお話しすることが折伏です。

 そこで、朝夕の勤行の時に、この箇所になりましたら、私たちは素直に「大良薬」を飲むことができている、ありがたい、と感謝し、誤って毒薬を飲み本心を失った人達に、医師の心、父親や母親の心で、効き目のある薬の飲み方を教えてあげようという慈悲の行いを誓い読経することが仏のお使いの立場であるといえます。

 成仏は難しいことはありません。ただ素直に教えを受けるのみです。成仏とは本心を取り戻すことなのです。私たちの本心、生まれたばかりの時の心は皆仏なのです。仏身が悪縁により表に出ていないだけです。外からもってくることではないのですから、難しく考える必要はありません。日蓮大聖人様の教えを信じ実践するか否か、ただこれだけです。そして教えることができる自分であるように御本尊様に祈りましょう。

 皆さまは、毎月欠かさずに、御報恩御講にご参詣になり、自他共の幸せを願って精進をされています。今はまだささやかな流れですが、やがて大河となって大海に流入する時が必ずまいります。その時を楽しみに励みましょう。

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