日蓮大聖人御書拝読と御法話

平成25年6月9・13日 日蓮大聖人御報恩御講拝読御書

崇峻天皇御書

法華取要抄 (平成新編御書一一七三頁)
建治三年九月一一日 五六歳

崇峻天皇御書 (平成新編御書一一七三頁)

人身は受けがたし、爪の上の土。人身は持ちがたし、草の上の露。百二十まで持ちて名をくたして死せんよりは、生きて一日なりとも名をあげん事こそ大切なれ。


【意訳】

人間に生まれることを当たり前のように思っているかもしれませんが、そうではなくとても希なことです。例えていえば、手の甲を上にして土の中に入れ、それを持ち上げたときに、爪の上に土が残っていることが少ないようなものです。また、人として命を持つことも簡単ではありません。それは、草木の葉にある朝露が、太陽の光に当たると忽ちに消えてしまうようなものです。そのうえ、百二十歳まで長生きをしたとしても、我が身につけられた名前を汚したままで死を迎えるようでは、せっかくの人生を無駄にすることになります。命がわずか一日であっても、名前を世に知らしめることが大切です。


【拝読のポイント】

○【生きて一日なりとも名をあげん事こそ大切なれ】

 私たちは、人として貴重な生命を受けることができました。この地球上だけでも、無数の生物が存在する中で、「人類」に生まれたのですから、我が身だけではなく全ての人を大切にしよう、と思えます。しかし、その生命もまことに儚いものであることを「草の上の露」のようなものである、と仰せです。また、長寿であっても、「名をくたし」ては致し方ないと述べられます。「くたす」は「腐たす」と漢字で書き表す。この手紙を与えられた四条金吾は鎌倉武士ですから、名前を大切にすることは現在の私たちの想像を絶するものであったと思われます。そこで、
「生きて一日なりとも名をあげん事こそ大切なれ」
と御指南され、私たちに人として生まれたことの意義をどのように捉え、どのようにすればよいかを示されるのです。換言すれば、「生き方」を教えて下さるものです。

 貴重な命を、我が身のためだけに費やすのではなく、世界中の人々の幸福のために働かせることこそ、「名をあげる」ことであり、その修行に徳が備わりるのである、と大聖人様は御教示下さっております。

 言うまでもありませんが、仏道修行とは、末法の御本仏日蓮大聖人様の立てられた、南無妙法蓮華経を唱えることであり、周りの方々に伝えることです。一日でも、その志を持って過ごしたならば、一回でもそれを実践したらばその功徳は計り知れないものがあります。まして、ご参詣の皆さまのように、常に広宣流布のことを思って精進されるのであれば、功徳は無量です。世間一般の名誉ではなく、大聖人様からお誉め頂くことが「名をくたす」ことのない人生です。「三世の名誉」といえるでしょう。



【壽量品 その七】
父作是念。此子可愍。為毒所中。心皆顛倒。雖見我喜。求索救療。如是好薬。而不肯服。我今当設方便。令服此薬。即作是言。汝等当知。我今衰老。死時已至。是好良薬。今留在此。汝可取服。勿憂不差。作是教已。復至他国。遣使還告。汝父已死。是時諸子。聞父背喪。心大憂悩。而作是念。若父在者。慈愍我等。能見救護。今者捨我。遠喪他国。自惟孤露。無復恃怙。

【書き下し文】

父是の念を作さく、此の子愍れむべし。毒に中られて、心皆顛倒せり。我を見て喜んで、救療を求索むと雖も、是の如き好き薬を、而も肯えて服せず。我今当に方便を設けて、此の薬を服せしむべし。即ち是の言を作さく、汝等当に知るべし。我今衰老して、死の時已に至りぬ。是の好き良薬を、今留めて此に在く。汝取って服すべし。差えじと憂うること勿れ。是の教を作し已って復他国に至り、遣を使して還って告げしむ、汝が父已に死しぬ。是の時に諸の子、父背喪せりと聞き、心大いに憂悩して、是の念を作さく、若し父在しなば、我等を慈愍して、能く救護せられまし。今者、我を捨てて、遠く他国に喪したまいぬ。自ら惟るに孤露にして復恃怙無し。

【現代語訳】

父は(苦しむ子供たちを見て)、『この子たちのふびんなことよ。間違って飲んだ薬のために、心が乱れきっている。私を見て、喜んで治療を求めたのは良いのだが、ここにあるすぐれた薬を、あえて服用しようとはしない。この上は、私は方便をもって、この薬を飲ませることにしよう』と考えたのです。そして、次のようなことをいいました。『子供たちよ、よく知っておきなさい。私は、今はもう年老いて、死期が近づいております。そこで、素晴らしい良薬を、今、ここに置いておきます。子供たちよ、手に取って飲みなさい。病が治らないのではないかと疑ってはなりません』と。このような教えを残し、父である医師はまた他国に行きました。そして、その地から使いを出して、子供たちに、『あなたたちのお父さんは、もう亡くなってしまいました』と伝えさせたのです。この時、父親が亡くなったと聞いた子供たちは、心に激しい衝撃を受け深く憂い悩み、次のような心が湧き上がってきました。『もしも父が生きていてくれたなら、私たちをいつくしみ、あわれみ、救い護ってくれるであろうに。いま父は遠く他国で亡くなり、私たちは父から捨てられてしまったような者である。おもえば、私たちは孤児になり、誰も守ってくれる人はいなくなった、また、頼みとする人もいなくなってしまった』と。


【今日のポイント】

『御義口伝』には
「毒気深入とは権教謗法の執情深く入りたる者なり。之に依て法華の大良薬を信受せざるなり。服せしむと雖も吐き出す、而謂不美とて美味からずと云ふ者なり。今日蓮等の類南無妙法蓮華経と唱へ奉る者は而謂不美のものに非らざるなり」(御書・一七六八頁)
とございます。大聖人様は、誤った教えに深く入っている者は、せっかくの良薬を服用しても吐き出してしまう、と仰せです。それだけ、誤った教えは恐ろしいということです。それに対して、素直に南無妙法蓮華経と唱えることができる私たちは、「とても善く効くクスリだ」と信じている者たちである、と仰せ下さっております。

また、クスリだと思って飲んでいても、誤った飲み方であったり、病に効かないクスリであっては副作用で身体を害することになります。ですから、有り難いと闇雲に信仰をするのではなく、効能や服用方法を知らなければせっかくのクスリであっても毒薬になり、深く身体の中に止まり、本心を失うことになるのです。

大聖人様が調合して下さった南無妙法蓮華経の大良薬を効き目がないと思うのは悪しきクスリを飲みすぎている「毒気深入」の姿です。お経文の、「為毒所中」は、毒が心の中に充満していることです。それ故に、「心皆顛倒」と、皆の心が反対になっている、と説明されます。心が反対ですから、効き目のあるクスリも効かないと思い込んでいるのです。このような子供は救いがたいのですが、私たちには「此子可愍」との父親の役目があります。この子供が可哀想でならない、どうにかして救ってあげよう、との思いを強く持ち、「汝可取服」と、南無妙法蓮華経の最高のクスリを手にとって飲むべきである、と強く勧めることが大切なのです。つまり、慈悲を根底に置き、折伏の修行に励むことを教えている経文であるといえます。

またそのことが、我が身の病をも克服する原動力となることを自覚しなくてはなりません。周囲を見渡しますと、薬に迷い苦しんでいます。その人たちに「是好良薬」である、三大秘法の南無妙法蓮華経を教え、導くことが良医であり父である私たちの役目です。


【心のカビを防ごう】

梅雨に入り、ジメジメとした気候です。油断をすると、カビが付いてご馳走も台無しです。このような季節に合わせ、心までジメジメすることのないようにしたいものです。三千ヘルツの御題目と、それぞれの役目、立場を自覚した精進が「心のカビ」を防ぐことになります。心を引き締め、唱題を重ねましょう。

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日蓮正宗向陽山佛乗寺