日蓮大聖人御書拝読と御法話

平成25年7月13・14日 日蓮大聖人御報恩御講拝読御書

新池御書

新池御書 (平成新編御書一四六一頁)
弘安三年二月 五九歳

新池御書 (平成新編御書一四六一頁)

有解無信とて法門をば解りて信心なき者は更に成仏すべからず。有信無解とて解はなくとも信心あるものは成仏すべし。皆此の経の意なり、私の言にはあらず。されば二の巻には「信を以て入ることを得、己が智分に非ず」とて、智慧第一の舎利弗も但此の経を受け持ち信心強盛にして仏になれり。己が智慧にて仏にならずと説き給へり。舎利弗だにも智慧にては仏にならず。況んや我等衆生少分の法門を心得たりとも、信心なくば仏にならんことおぼつかなし

 当抄は新池左衛門尉(にいけさえもんのじょう)に与えられた御文です。新池殿は、現在の静岡県袋井市新池に住していた鎌倉幕府の地頭で、夫婦そろって日蓮大聖人様に帰依し、自行化他の信仰に励んだ方です。総本山五九世日亨上人の『弟子檀那列伝』には、「遠江の国磐田郡の新池(袋井)に住して、日興上人に依って入信せられたであろう、尼と共に純信の人であった」とあります。

 ここで大聖人様は「有解無信」と、「有信無解」について述べられております。「有解無信」は仏法の法門を理解する力はあるが、仏を心から信ずることのできない者の事を指していう言葉です。「有信無解」は、理解力は劣っていても、仏を信ずる心が強い人のことを指していいます。このことに関して、御隠尊日顕上人が夏期講習会で次のように御指南をされております。


《日顕上人の御指南》

『法華題目鈔』の
「たとひさとりなけれども、信心あらん者は鈍根も正見(しょうけん)の者なり。たとひさとりあれども、信心なき者は誹謗闡提(ひぼうせんだい)の者なり(乃至)迦葉(かしょう)・舎利弗(しゃりほつ)等は無解有信の者なり。仏に授記を蒙りて華光如来・光明如来といはれき。仏説きて云はく「疑ひを生じて信ぜざらん者は、即ち当に悪道に堕すべし」等云々。此等は有解無信の者を皆悪道に堕すべしと説き給ひしなり(御書・三五三頁)
を挙げられて、

 これは「無解有信」の功徳を述べられております。まず、初めに「鈍根」とありますが、この「鈍」とは「にぶい」という意味です。ですから鈍い根ということで、はっきり言えば、仏法をなかなか理解できない、仏法の内容をなかなか掴めないような人のことを鈍根と言います。そして、この「鈍根」に対する語が「利根」という語で、これは鋭利な五根を具えた、利口な人のことであります。

 そこで「たとひさとりなけれども、信心あらん者は鈍根も正見の者なり」とあるのは、鈍根の人であっても、信心があれば、それは仏法に対する正しい考えを持っておる者であるということです。

 それに対して「たとひさとりあれども、信心なき者は誹謗闡提の者なり」とは、たとえ何らかの悟りがあり、仏法に対する理解があったとしても、信心がない者は、正法を誹謗して信じない者と同様であるということです。

 大聖人様の御書に、
 「法門しりたりげに候人々はあ(悪)しく候げに候」(『上野殿御返事』一二一九頁)という御文もありますが、なかには仏法を勉強して少しばかり判ると「自分は偉いんだ」と勘違いをする者がおります。そして僧侶を莫迦にする。これが創価学会であり、特に池田大作がその張本人であります。

 はっきり言えば、私が登座する以前は、日達上人のことまで莫迦にしていました。そして私のことなどは、それ以上に莫迦にしていたわけです。

 ともかく、その莫迦にした結果が、仏法のありとあらゆる内容を、結局、否定することになってしまうんですね。これは恐ろしいことです。そこでまたあの池田大作は、ある一種の権力を持っておりますから、大勢の人間を率いて悪道に向かって突っ走っておる姿があるわけですが、これは本当に気の毒なことなのです。

 ですから、ある程度の悟りを持ってしまって、「私は偉い」「私は悟りを得ている」などと思っていると、そこから狂ってしまうのです。したがって、いくら勉強をして悟ったとしても、根本のところに信ということがなければ、誹謗闡提の者であるということなのです。この御文は、まさしく創価学会のような者のことを、大聖人様がおっしゃっているのです。

 そこで「(乃至)迦葉・舎利弗等は無解有信の者なり」。この迦葉や舎利弗は、法華経に対する深い解は無かったけれども、信が有る者で、したがって「仏に授記を蒙りて華光如来、光明如来といはれき」、つまり舎利弗は法華経の『譬喩品』において華光如来の、また迦葉は『授記品』において光明如来の授記を受けたわけであります。

 次に「仏説きて云はく『疑ひを生じて信ぜざらん者は、即ち当に悪道に堕すべし』等云々」。これは『涌出品』の最後の偈文中の御文なのです。

 『涌出品』において、地涌千界の大菩薩の出現という、かつてない不思議な大事を見て、一切衆生が強い疑いを起こすわけです。そこで弥勒菩薩が一会の大衆を代表し、仏様に対して「これは一体どういうことなのか、その根本の原因、理由をお説きください」と願い、さらに「もし、仏様がこれをお説きくださらなかったならば、我々は疑いを生じて悪道に堕してしまうでしょう」ということを申し上げておる御文なのです。そこで、これを受けて仏様が説かれたのが『寿量品』です。つまり、この「疑ひを生じて・・」以下の文は、弥勒菩薩が仏様に申し上げた言葉なのです。

 けれども大聖人様は、ここのところで「仏説きて云はく」とおっしゃっております。これは要するに、法華経は全体を通じて仏様の御化導と言えるわけですから、その意味において、弥勒菩薩の言葉ではあるけれども、全体的な経意の上から、これを仏説として、仏の言葉として用いられておるのであります。

 すなわちこの御文は、仏様の御言葉としておっしゃっている意味において、一切衆生が仏様の教えに対して疑いを生じて信じないということは悪道に堕すことの原因であるということを、ここにお示しになっておるのです。結局、「『解』があっても『信』のない者は悪道に堕ちるぞ」ということの御指南であります。

「有解無信」
 これは、解のみ有って信が無いということです。

 有解無信(うげむしん)とて法門をば解(さと)りて信心なき者は更に成仏すべからず。有信無解とて解はなくとも信心あるものは成仏すべし。皆此の経の意なり、私の言にはあらず(『新池御書』 御書一四六一頁)

 これは『新池御書』の御文であります。つまり「信」ということが根本となって、初めてこの経の功徳を得ることができるし、また法華経の心はそこに存するのであるということを説かれておるのです。

 この「私の言にあらず」ということは、「信」が根本であるということは日蓮が勝手に言うのではなく、法華経にはっきりと説かれてあるということを断られておるのであります。《以上御指南》



○『寿量品』
常懐悲感。心遂醒悟。乃知此薬。色香味美。即取服之。毒病皆愈。其父聞子。悉已得差。尋便来帰。咸使見之。諸善男子。於意云何。頗有人能。説此良医。虚妄罪不。不也。世尊。仏言。我亦如是。成仏已来。無量無辺。百千万億。那由他。阿僧祇劫。為衆生故。以方便力。言当滅度。亦無有能。如法説我。虚妄過者。爾時世尊。欲重宣此義。而説偈言

【書き下し】

常に悲感を懐いて、心遂に醒悟しぬ。乃ち此の薬の色香味美を知って、即ち取って之を服するに、毒の病皆愈ゆ。其の父、子悉く已に差ゆることを得つと聞いて、尋いで便ち来り帰って、咸く之に見えしむ。諸の善男子、意に於て云何。頗し人の、能く此の良医の虚妄の罪を説く有らんや不や。不なり、世尊。仏の言わく、我も亦是の如し。成仏してより已来、無量無辺百千万億那由他阿僧祇劫なり。衆生の為の故に、方便力を以て、当に滅度すべしと言う。亦能く法の如く、我が虚妄の過を説く者有ること無けん。爾の時に世尊、重ねて此の義を宣べんと欲して、偈を説いて言わく。


【現代語訳】

(父親が亡くなった)という強い悲しみにより、心が揺り動かされ本心を取り戻した子は、父の残した薬が、色も味も香りも素晴らしいことに気づき、すぐに手に取って飲みました。そして、誤った薬を飲んだことが原因となっていた病はすべて治癒しました。子供たちの病が全て治癒したことを聞いた父は子供たちのところに帰り、子供たちに元気な姿を見せたのでした。
この例え話の後に仏は次のようにいいました。「善男子たちよ、このことをどう考えますか。この良医が自らのことを亡くなった、と偽った罪を取り上げて、それを責めることができる者が少しでもおりましょうか」と。その問いに答えて弟子たちは、「仏様、そのような者はひとりもおりません」と答えたのです。さらに仏様は言われました。「私もまた、これと同じです。私が仏となってより今日まで、無量無辺・百千万億・那由佗・阿僧祇劫という永い永い時間が過ぎています。私は、衆生のために、あらゆる手だてを用いて、『私は入滅します』といいます。しかし、このように説いたことを、私の偽りの言葉であり過失であるとあげつらう者はいないでしょう」と。その時に、仏様は、重ねてこれまでのことを宣べようとされて、詩頌(自我偈)を説かれました。


【良医病子の譬 まとめ】

○父(良医)=仏=良薬を与える。《良薬は法華経》
○子(衆生・私たち)=誤って毒薬を飲み苦しむ=良薬を飲み病が癒える。
誤って飲んだクスリの毒により本心を失った子供たちは、良医である父が与えた良薬を、飲むことができませんでした。また、飲んでも「而謂不美(美味しくない)」と吐き出す始末で、本心を取り戻すことはできなかったのです。そこで、良医は、「あなた達のお父さんは異国の地で亡くなりました」と使いの者に語らせたところ、子供たちは「常に悲感を懐いて、心遂に醒悟しぬ」となりました。今日の所ですね。お父さんが亡くなった、という悲しみによって心が揺り動かされて本心を取り戻し、そこに置いてあったクスリを飲むことができたのです。人はこのような状況にならないと本当のことがわからない、ということでもあります。さらに、ショック療法といういい方もあてはまるかも知れませんね。私たちは、本心を失ってしまった子供たちと同じで、せっかくの良薬に手が伸びません。しかし、何かあると、クスリがあることに気づいて手に取り服用するようなものです。できれば、日頃からキチッと服用するように心掛けることがより効き目を実感することになります。
いうまでもありませんが、お経文の「色香美味(色も香りも味もよい)」の「大良薬」は、三大秘法の大御本尊様であり、御題目です。「即取服之(手に取って服用する)」とは、「南無妙法蓮華経・南無妙法蓮華経」と御題目を唱えることです。クスリを飲んだ効き目は、「毒病皆愈」とあり、「病盡除癒」となります。全ての病が除かれる、という功徳が受けられます。良薬を飲むことで、南無妙法蓮華経と唱える修行で、最高の功徳が受けられる、と仏様が教えて下さっていることを心に留めておきましょう。

 大聖人様は、『御義口伝』で「南無妙法蓮華経と御題目を唱えれることは、仏様の一分に加えて頂いたことで、それまでの誤ったクスリを飲んで受けた苦しみを取り除くことが叶う(趣意)」(御書・一七六九頁)
と述べられております。これは、「罪障消滅」ともいいます。ですから、大良薬の効き目は計り知れないのです。

 また、各ご家庭に、御本尊様を御安置することは、常に大良薬を目の当たりにしていることになります。今は素直に御題目を唱えることができなくとも、「今留在此(今ここに留めおく)」との修行があれば、子供さんやお孫さんが、やがて御題目を唱えることができるようになる、と信じてお給仕をすることが肝要です。さらに、友人や知人に対して、仏壇に御安置の御本尊様に導くことは、「汝可取服(汝服すべし)」という折伏になっております。すぐに御授戒を受けることができなくとも、やがて本心を取り戻し、日蓮正宗富士大石寺の大御本尊様の「色香美味」の「大良薬」を思い出して服用できるようになります。諦めないで化他行を継続することで良い結果になります。法統相続の上からも、折伏の上からも、御本尊様を御安置することが大切なのです。

 いよいよ暑さが増してまいりますが、暑いから美味しい果物が食べられる、と思い、暑さを嘆くことなく味方にする位の心構えでまいりましょう。実際、今年の「桃」や「スイカ」は甘いそうです。「梨」も「ブドウ」も楽しみですね。「トウモロコシ」も例外ではないようです。ただし、「熱中症」は要注意です。無理をなさらず、暑いときには、「我が家で御題目」でも構いません。そして、その功徳もって「天高く折伏の秋」を待ちましょう。若くて元気な方は別ですよ。夏は、「鍛えの夏」です。暑いときの活動は、身体をより丈夫にすることができますので、運動部の人達は「夏合宿」で鍛えるのです。信心も同じです。「極楽百年の修行」と「穢土一日の修行」の御書を思い起こし、精進をいたしましょう。
来月から「自我偈」です。

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日蓮正宗向陽山佛乗寺