日蓮大聖人御書拝読と御法話

平成25年7月1日 永代経

法華経の七譬

その四
【化城宝処の譬】
○法華経の七譬 その四
【化城宝処の譬】


 法華経に説かれる七種の譬の四番目です。法華経化城喩品第七に示されます。大意は、五百由旬の彼方にある宝処に向かう衆生が、道中があまりにも悪路であることに恐れ、引き返したい、という思いになったことを知った導師が、神通力を現じて三百由旬の所に仮りの城を設け、そこで人々を休息させてやがて宝処に導くという譬です。お経文には次のように記されております。
『法華経化城喩品第七』

譬えば、五百由旬の険難悪道の曠かに絶えて、人無き怖畏の処あらんが如し。若し多くの衆有って、此の道を過ぎて珍宝の処に至らんと欲せんに、一りの導師有り。聡慧明達にして、善く険道の通塞の相を知れり。衆人を将導して此の難を過ぎんと欲す。所将の人衆、中路に懈退して、導師に白うして言さく、我等疲極して、復怖畏す。復進むこと能わず。前路猶遠し、今、退き還らんと欲す。導師、諸の方便多くして、是の念を作さく、此等愍れむべし。云何ぞ大珍宝を捨てて、退き還らんと欲する。是の念を作し已って、方便力を以て、険道の中に於て、三百由旬を過ぎ、一城を化作して、衆人に告げて言わく、汝等、怖るること勿れ。退き還ること得ること莫れ。今此の大城、中に於て止って、意の所作に随うべし。若し是の城に入りなば、快く安穏なることを得ん。若し能く前んで宝所に至らば、亦去ることを得べし。是の時に疲極の衆、心大いに歓喜して、未曽有なりと歎ず。我等今者、斯の悪道を免れて、快く安穏なることを得つ。是に於て衆人、前んで化城に入って、已度の想を生じ、安穏の想を生ず。爾の時に導師、此の人衆の、既に止息することを得て、復疲倦無きを知って、即ち化城を滅して、衆人に語って言く、汝等、去来、宝処は近きに在り。向の大城は、我が化作する所なり。止息せんが為耳。

(新編法華経・二七八頁)

【意訳】

譬えば、五百由旬という遙か彼方に、宝処があるとしよう。そして、人々がその宝処にたどり着くまでのことを話そう。その道は険しく困難な悪道である。誰も通ったことのない道であった。人々はあまりにも険しく厳しい道中に、恐れや懈怠から、引き返そうと思った。その時に、人々の中に勝れた導師がおり、多くの人々が疲れや恐れの心に支配されていることを知った。導師は神通力をもって、五百由旬の途中の三百由旬の所に、化城を造り、次のように語った。「あなた達は恐れることはないのである。退き引き返そうなどと思ってはならない。彼処にある大城に入るならば、疲れも癒され、心も安穏になるであろう。その上で、さらなる宝処を目指すのであればそこから出発するとよい」と。この言葉を聞いた人々は、心が大いに励まされ、険しく厳しい道は過ぎたと思い、化城に入ったのである。そこで疲労も和らぎ心も安らいだのである。その姿を見た導師は、再び神通力をもって化城を消滅させ、「諸君、さあ、行こうではないか。真実の宝処はまもなくである」と語り、化城は仮りの休息所であり、人々を励ますために設けたものであることを明かしたのである。


ポイントを挙げますと、化城宝処の譬に説かれる
○「導師」は仏。
○「多くの衆(ひとびと)」は私たちのこと。
○「宝処」は三大秘法の南無妙法蓮華経。
○「化城」は爾前権教になります。
また、「宝処」は悟りであり、「化城」は迷いともいえます。

 このお経文から、私たち凡夫は、煩悩に支配されている汚れた命を、清らかな命に変えようと願って、五百由旬先の清浄な世界を目指して修行の旅にでたと考えます。しかし、良きことをしようと思ったならば、そこには必ず妨害者が現れる、との教えがあるように、途中に現れる三障四魔という妨害によって、修行の旅が未だ半ばながら、とても堪えられないと気弱になって引き返そうとするのが私たちです。そのような私たちに、功徳の一分を見せて下さり、励まして下さっているのだと考えることもできます。

 このように、仏様はわかりやすい譬を用いて、私たちを心豊かで幸せな生活に導いて下さっております。

 日蓮大聖人様は、『就註法華経口伝』の中で、この「化城」と「宝処」について次のように仰せです。
「第六 即滅化城の事
御義口伝に云はく、我等が滅する当体は化城なり。此の滅を滅と見れば化城なり。不滅の滅と知見するを宝処とは云ふなり。是を寿量品にしては而実不滅度とは説くなり。滅と云ふ見を滅するを滅と云ふなり。三権即一実の法門之を思ふべし。或は即滅化城とは謗法の寺塔を滅する事なり。今日蓮等の類南無妙法蓮華経と唱へ奉る者は化城即宝処なり。我等が居住の山谷曠野皆々常寂光の宝処なり云云」

(御書・一七四七頁)

 御意を拝するのは恐れ多いことですが、申し述べますと、私たちの肉体は必ず死を迎えて元の元素にかえります。土に返る、との表現もありますように、その時を全ての終わりであり、俗に言う「死んだらおしまい」と捉えるのが、「滅を滅と見れば化城なり」との意であると拝します。そうではなく、生物学的な死は肉体の消滅ではあるけれども、仏法上で説く生命は滅してはいない、と覚知することが「宝処」であることを示されます。このことを寿量品では「衆生を度せんが為の故に、方便して涅槃を現ず。而も実には滅度せず。常に此に住して法を説く」と説かれている、と仰せです。このお経文は、仏の入滅は仮の姿であり、真実には、仏は常に私たちの前におわしまして導いて下さっていることを明かされたものです。また、御文の「滅と云ふ見を滅するを滅と云ふなり」は、肉体が消滅することを「滅」と思うのは見惑でありそれは凡夫の迷いである。そうではなく、生命は三世常住である、と知ることが、見惑を含む煩悩を滅することであり、悟りである、という意味であると拝することができます。次の、「三権即一実」は、十界の中の声聞界・縁覚界・菩薩界の衆生の狭い心を開いて、仏界のあることを知らしめることで、一念三千の法門のことです。また、「謗法の寺塔を滅する事なり」とは、爾前権教を元にして建立されている寺塔から離れて、総本山大石寺に登山参詣することである、ということです。したがって今日、日蓮大聖人様の仰せのままに、南無妙法蓮華経と御題目を唱えて自らの幸せを祈り、さらに周りの方々の幸せを願って折伏の修行に励んでいる私たちは、常に「宝処」に居住している、とされるのです。つまり、私たちが生活しているところが、そのまま最高の所である、と教えて下さるのです。

 ここで説かれる「宝処」に私たちは住しております。ゆえに、どのようなことがあったとしても、御本仏の御加護は疑いありません。しかし、いまだ「宝処」を知らず、苦悩に沈む周囲の方々に、このことを教えてまいりましょう。ことに、創価学会の中にあって、誤った指導のままに、謗法を重ねている人達には、強く言い聞かせることが大切です。今日から下半期です。日蓮大聖人様のお使いとして、共に励んでまいりましょう。

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