日蓮大聖人御書拝読と御法話

平成25年7月7日 広布唱題会拝読御書

妙密上人御消息

《祈りの叶う唱題を》

妙密上人御消息(平成新編御書九六七頁)
建治二年閏三月五日  五五歳

妙密上人御消息 (平成新編御書九六七頁)

伝教大師ことはりて云はく「法華経を讃むと雖も還って法華の心を死す」云云。例せば外道は仏経をよめども外道と同じ。蝙蝠が昼を夜と見るが如し。又赤き面の者は白き鏡も赤しと思ひ、太刀に顔をうつせるもの円かなる面をほそながしと思ふに似たり。
今日蓮は然らず。已今当の経文を深くまぼり、一経の肝心たる題目を我も唱へ人にも勧む。麻の中の蓬、墨うてる木の自体は正直ならざれども、自然に直ぐなるが如し。経のまゝに唱ふればまがれる心なし。当に知るべし、仏の御心の我等が身に入らせ給はずば唱へがたきか。


【現代語訳】

伝教大師が法華秀句の中で、「法華経を讃えているようであるが反対に法華経の心を死している」と云っております。例を挙げれば、外道の者たちが法華経を読んでも、外道の心で読む故に法華経を外道の立場でしか理解することができず、法華経の教えを貶めるのと同じです。また、蝙蝠が昼を夜と見て、人間とは反対の夜行性であるようなものです。赤い顔の者が、鏡に映った自らの赤い顔を見て、白い鏡を赤い鏡と見るようなものです。また、細長い刀に映った顔を見て、自らの顔が細長いと思うことと似ています。
しかし今の日蓮はこれらとは全く違います。已説・今説・当説と説かれる経文の意義を深く守り、一経の肝心である南無妙法蓮華経の題目を自ら唱えるばかりではなく、周りの人々にも勧めています。これは、麻の中に蓬を植えると真っ直ぐに成長するようなものです。曲がった材木に墨を打って真っ直ぐな柱にするならば、もともと真っ直ぐに成長した木と違いがないのと同じです。経文に説かれたように南無妙法蓮華経と唱えるならば、まがった心も真っ直ぐになります。このように、仏の御心が我が身に入って下さらなければ唱えがたい題目であることを知るべきです。


【御文の要点】

○大聖人の信仰は自己流を排すること。
大聖人様は、伝教大師の言葉を引用されて、自己流の信心は功徳がないことを示されております。功徳がないばかりか、「法華の心をころす」とあるように、謗法である、と厳しく戒められております。また、「法華の心をころすとは、大聖人様の信仰に傷を付けることです。自己流の信仰では、御本尊様を貶めることになることを知らねばなりません。
「南無妙法蓮華経と唱へてさえいればよい」との信心から、さらに一歩進めて、「日蓮大聖人様と同じ御題目を」と願い、「御法主上人と同じ御題目を」との思いで唱題を重ねることで、より功徳を積むことが叶います。
姿勢も大事です。イスにふんぞり返って、手をだらんとして唱える唱題より、胸の前で合掌して、背筋を伸ばし、足を揃え、御本尊様を真すぐに拝する唱題に努めようではありませんか。服装もまたその人の心を表しているといえます。御本尊様の前に身を置くに相応しい服装を心がけることで、自己中心の信心を克服することができます。

○私たちの唱える御題目は仏様が仰せの御題目
「当に知るべし、仏の御心の我等が身に入らせ給はずば唱へがたきか」との仰せは、私たちにとって誠にありがたい御言葉です。つまり、御法主上人のご指南のままに、南無妙法蓮華経と御題目を唱え、折伏の修行に励むことにより、「大聖人様が私たちの心の中に入ってくださっている」との意だからです。呉々も、「法華の心をころす」ことのないように、仰せのままに御題目を唱え、「一経の肝心たる題目を我も唱へ人にも勧む」修行に励みましょう。
まもなく梅雨が明け、暑い夏を迎えます。体調に留意をして、明るく元気に御題目を唱えましょう。

文責編集部 転載複写等禁止



日蓮正宗向陽山佛乗寺