日蓮大聖人御書拝読と御法話

平成25年8月13日 日蓮大聖人御報恩御講拝読御書

曽谷殿御返事

曽谷殿御返事 (平成新編御書一三八六頁)
弘安二年八月一一日 五八歳

曽谷殿御返事 (平成新編御書一三八六頁)

抑貴辺の去ぬる三月の御仏事に鵞目其の数有りしかば、今年一百余人の人を山中にやしなひて、十二時の法華経をよましめ談義して候ぞ。此らは末代悪世には一えんぶだい第一の仏事にてこそ候へ。いくそばくか過去の聖霊もうれしくをぼすらん。釈尊は孝養の人を世尊となづけ給へり。貴辺あに世尊にあらずや。


【通解】

さて、貴男が三月に執り行った父上の十七回追善供養において、たくさんの金銭を御供養されました。その御供養のお陰で、今年は百余人の弟子たちをこの山の中で養うばかりか、昼夜に亘って法華経を読誦させたり、談義をすることが出来ます。このことは、悪世末法の、一閻浮提で最も貴い仏事です。亡くなられた父上が、どれほど嬉しく思われていることでしょう。釈尊は親孝行に励む人のことを世尊と名付けられました。このことからすれば、貴男のことを仏世尊と申しあげるべきでしょう。


【語句の意味】

○去る三月の仏事=曽谷教信殿の父親の十七回忌の法事のこと。建治元年(一二七五年)四月に著された『法蓮抄』に、「慈父幽霊第十三年の忌辰に相当たり」とあることから、当抄述作の四年前に、十三回忌が奉修されたことが明らかである。その年から四年後の弘安二年三月の仏事であれば、亡き父親の十七回忌の仏事であることが類推される。

○鵞目=真ん中に四角い穴が空いており鳥の目に似ていることから、「鵞鳥の目に似た錢」、「鳥の目に似た錢」という意味で、「鵞目」とか「鳥目」といわれた。奈良時代や平安時代に中国から輸入された「開元通宝」や「宋元通宝」が知られている。通貨として江戸時代の末期まで用いられていた。余談ながら、野村胡堂の原作になる「銭形平次」で、主人公が投げる「寛永通宝」も鵞目である。

○一百余人の人を山中に養い=百人を超す弟子たちが大聖人様のもとで、未来広布の目標を掲げて教学の修得に励んでいた姿が彷彿として蘇る。

○十二時=一日中の意。

○談義=経文や経文をもとにして示される宗旨を学ぶこと。また、法論や問答をすること。

○一閻浮提=須弥山の南方海上にある国土。南閻浮提ともいう。私たちの住している国土。

○いくそばく=どれほど多いか不明である・どのくらいあるかわからない、等の数量を表す副詞。ここでは、亡くなった父上がどれほどお喜びであろうか、大変に喜ばれている、等の意味で用いられている。

○過去の精霊=曽谷教信の父親であることが推察される。

○世尊=仏の十号の一つ。十号は、 如来(にょらい)・応供(おうぐ)・正遍知(しょうへんち)・明行足(みょうぎょうそく)・善逝(ぜんぜい)・世間解(せけんげ)・無上士(むじょうし)・調御丈夫(じょうごじょうぶ)・天人師(てんにんし)・仏世尊(ぶっせそん)の十種。


《寿量品》
「自我得仏来 所経諸劫数 無量百千万 億載阿僧祇 常説法教化 無数億衆生 令入於仏道 爾来無量劫 為度衆生故 方便現涅槃 而実不滅度 常住此説法」

「我仏を得てより来 経たる所の諸の劫数 無量百千万 億載阿僧祇なり 常に法を説いて 無数億の衆生を教化して 仏道に入らしむ 爾しより来無量劫なり 衆生を度せんが為の故に 方便して涅槃を現ず 而も実には滅度せず 常に此に住して法を説く」


【現代語訳】

私が仏と成ってからこれまでに、長い時間が経過しました。その時間の長さは、無量・百千万、億・載・阿僧祇というものです。その間、私は、常に法を説き、無数億の人々を教え化導をし、仏道に入らせてまいりました。このようにして来て、量ることのできなほどの時間が経過しております。人々を救うためには、仮りの手立てを用いて涅槃の姿を表すこともありました。しかし、真実には滅度をしたのではなく、常にここに住して法を説き続けているのです


【語句】

○自我偈=自我得仏来と説かれた偈頌の意味で、「自我偈」と称されます。経文の中で最も有名な偈頌であり、また古来、多くの人々から大切にされてきました。偈頌とは文字数や韻を踏む等の一定の決まりがある文のことで、偈頌とか、詩偈(しげ)といいます。詩や五七五七七の字数の短歌なども偈頌にあたります。自我偈は一文が五字からなっており、偈頌にあてはまります。また、方便品にも私たちが毎朝毎夕読誦している、十如是の「如是本末究竟等」のすぐ後に、「世雄不可量 諸天及世人」と始まる「世雄偈(せおげ)」という偈頌があります。

先月、学びましたように、寿量品の長行の最後に、「爾時世尊。欲重宣此義。而説偈言」とありました。復習いたしますと、「世尊は、これまでに説いてきたことを、偈頌(げじゅ)にして重ねて説きます、と仰せられた」ということでした。

「自我偈」について、大聖人様は『法蓮抄』で、次のように仰せです。
「夫法華経は一代聖教の骨髄なり。自我偈は二十八品のたましひなり。三世の諸仏は寿量品を命とし、十方の菩薩も自我偈を眼目とす(乃至)法蓮法師は毎朝口より金色の文字を出現す。此の文字の数は五百十字なり」(御書・八一九頁)

○自我得仏来=『御義口伝』では次のように仰せです。
御義口伝に云はく、一句三身の習ひの文と云ふなり。自とは九界なり、我とは仏界なり、此の十界は本有無作の三身にして来たる仏なりと云へり。自も我も得たる仏来たれり。十界本有の明文なり。我は法身、仏は報身、来は応身なり。此の三身無始無終の古仏にして自得なり。無上宝珠不求自得之を思ふべし。然れば則ち顕本遠寿の説は永く諸教に絶えたり。今日蓮等の類南無妙法蓮華経と唱へ奉るは自我得仏来の行者なり云云。
(「自我得仏来」の一句に法身・報身・応身の三身が顕かにされている。自は九界のことである。我は仏界のことである。この地獄界から仏界までの十界は、もともと無作の三身に具わっているもので、その仏が出現されたものである。十界互具の仏が出現されたことである。十界互具を明かにされた経文である。我は法身、仏は報身、来は応身である。この三身は無始無終の本仏であり、自得の仏である。法華経信解品第四には、「無上の宝聚を求めることなく自ら得た」とあることを思うべきである。したがって、久遠元初の南無妙法蓮華経のことは他の経文には説かれていない。いま日蓮が南無妙法蓮華経と唱えるのは、自我得仏来の行者である)

○億載阿僧祇=「載」は十の四十四乗、つまり、十×十×十×十と。また、「億」は十の八乗ですから、「億載」では十の六十二乗ということになります。さらに、「阿僧祇」は十の五十九乗が加えられますので想像を絶する数になることが分かります。


暑い毎日です。御題目を唱え、体調に留意し、三〇〇〇ヘルツで進んでまいりましょう。

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日蓮正宗向陽山佛乗寺