日蓮大聖人御書拝読と御法話

平成25年8月1日 永代経

法華経の七譬

その五 「貧人繋珠の譬」
○法華経の七譬 その五
【貧人繋珠の譬】
五、「貧人繋珠の譬」

譬えば貧窮の人 親友の家に往き至るが如し 其の家甚だ大いに富んで 具に諸の肴膳を設け 無価の宝珠を以て内衣の裏に繋著し 黙し与えて捨て去りぬ 時に臥して覚知せず 是の人既已に起きて 遊行して他国に詣り衣食を求めて自ら済り 資生甚だ艱難にして 少しきを得て便ち足りぬと為して 更に好き者を願わず 内衣の裏に 無価の宝珠有ることを覚らず 珠を与えし親友 後に此の貧人を見て 苦切に之を責め已って 示すに繋けし所の珠を以てす 貧人此の珠を見て 其の心大いに歓喜し 富んで諸の財物有って 五欲に而も自ら恣にす
我等も亦是の如し 世尊長夜に於て 常に愍れんで教化せられ 無上の願を種えしめたまえり 我等無智なるが故に覚らず亦知らず 少しき涅槃の分を得て 自ら足りぬとして余を求めず 今仏我を覚悟して 実の滅度に非ず 仏の無上慧を得て 爾して乃ち為れ真の滅なりと言う 我今仏に従って 授記荘厳の事 及び転次に受決せんことを聞きたてまつりて身心遍く歓喜す

(新編法華経・三〇六頁)

【現代語訳】

たとえば、貧しい人が親友の家に招かれたとします。その親友は大富豪で貧しい友にご馳走をし、お酒を振る舞いました。貧人は酔いつぶれて寝てしまいました。親友は貧しい友の着物の内側に計り知れない価値のある宝物を縫い付け、所用のために家を空けました。貧しい友は着物の内側に宝物が縫い付けられたことに気づかず、親友の家を辞して国々を放浪しました。食べ物や飲み物を求め方々を転々とし、常に困難な生活が続いておりました。しかし、少しの食べ物や飲み物に満足し、それ以上のことは願うようなことはありませんでした。自らの着物に宝物が縫い付けられていることも知らずにおりました。宝を与えた親友はこの友を見て、「あなたはどうしてこのような貧しい境涯にいるのですか。
あなたには、かつて宝物を差し上げたではありませんか。どうしてそれを用いて衣食等を満足させないのでしょうか」と。このことを聞いた貧しい友は、宝物を持っていることに初めて気付いて、五欲を満たすことができました。
私たちもこの例えにある貧しい友と同じです。仏は昼となく夜となく常に私たちのことを憐れんで教化され、幸せになるの種を植えてくださっております。しかし、私たちは無智で、覚ることがなく、宝のあることさえ知りません。願が少しだけ叶ったことに満足して、それ以上のことは求めません。今、仏の真実の姿を見、授記を得て身も心も歓びに満ちあふれました。


【語句の意味】

○貧窮=貧しく生活に困窮すること。
○肴膳=酒を飲むときに食べる料理とそれを盛りつけるもの。饗膳
○無値の宝珠=無価は最高の意。宝珠は宝の珠のこと。
○内衣の裏=衣の裏のこと。
○繋著=繋は結ぶ、縛り付ける。著は着の意。したがってここでは、着物に宝物を縛りつけた、という意になる。
○資生=資は助ける。生は生命。ゆえに生命を助ける物の意。衣食住など。
○苦切=ねんごろ。親身になる。親切。手厚いこと。情熱のこもるさま。切実であるさま。
○五欲=五種類の欲望のこと。「大智度論」では@色欲A声欲B香欲C味欲D触欲が説かれる。五根である、眼・耳・鼻・舌・身が、@色A声B香C触の五境を対象として起こる欲望。つまり、目で見える色(物質・目で見えるもの) ・声(音声、耳で聞こえるもの)・香(香り、鼻で嗅ぐもの)・味(味わい、舌で味わうもの)・触(触れてわかるも の)から起こる欲望のこと。この五境は真理を汚すゆえに五塵(ごじん)と云われる。また、「大明三蔵法数」には、@財欲A色欲B飲食欲C名欲D睡眠欲が説かれる。
○長夜=私たち凡夫が、生死の輪廻を繰り返すことを真っ暗闇の長い夜に譬える言葉。
○教化=教え化導すること。化導は凡夫を仏に化す意。
○少しき涅槃=小さな覚り。涅槃は覚りの意。
○滅度=仏の入滅をいう。
○無上慧=これ以上ない智慧のこと。
○授記荘厳=授記は未来の成仏を仏に約束されること。荘厳はその国土が荘厳された貴い所であること。
○転次=次から次に、との意。
○受決=成仏の決定を受けること。授記と同じ意。


『御義口伝』 
第一 衣裏の事

御義口伝に云はく、此の品には無価の宝珠を衣裏に繋くる事を説くなり。所詮日蓮等の類南無妙法蓮華経と唱へ奉る者は、一乗妙法の智宝を信受するなり。信心を以て衣裏にかくと云ふなり。

(御書・一七四七頁)

【意訳】

大聖人様は次のように仰せになりました。「法華経の五百弟子授記品第八には、最高の宝石を衣の裏に結びつけたことが説かれております。つまりこのことは、日蓮等の南無妙法蓮華経と唱える者は仏の最高の覚りである妙法蓮華経の智慧の宝を信じ、受持していることです。妙法蓮華経と唱題をすることは、衣の裏に最高の宝石を結びつけていることになります。


無価の宝珠を成仏の功徳に譬えられております。ただし、お経文にありますように、最高の宝石を我が身に持っているにもかかわらず、気づかないで貧しい心で日々を過ごしているのが末法の凡夫です。

『御講聞書』
「貧人此の珠を見て、其の心大に歓喜し」の事

仰せに云はく、此珠とは一乗無価の宝珠なり、貧人とは下根の声聞なり、総じては一切衆生なり。所詮末法に入りて此珠とは南無妙法蓮華経なり。貧人とは日本国の一切衆生なり。此の題目を唱へ奉る者は心大歓喜せり。

(御書・一八四三頁)

【意訳】

大聖人様は次のように仰せになりました。「法華経の五百弟子授記品第八に説かれる、『此の珠』とは、成仏を宝の珠に譬えた言葉である。貧人とは一往は下根の声聞乗を指すが、再往は一切衆生のことである。つまり、私たち末法の衆生にとって、「此の珠」は南無妙法蓮華経のことである。また貧人とは日本国の人々である。ゆえに、私たちは、「南無妙法蓮華経」と唱えることにより、最高の宝を得たことに気づくのであり、その心は歓喜に満たされるのである」と。


《貧人繋珠の譬》まとめ

この譬の「貧人」は、経文では声聞乗となっていますが、文底の立場では、私たち一人ひとりのことです。また、富める親友は仏様のことになります。

一口に「貧人」といいますが、色々に考えることが出来ます。経済的に貧するばかりではなく肉体的に貧すれば病苦に喘ぐことになります。また精神的な面での貧人は、我が身のことしか思わず、自己中心的な振る舞いに終始しております。これは、自らの衣に宝石が縛り付けられていることに気づかずにその日その日の糧を求めて放浪する姿であるといえます。

大聖人様はこのような末法の貧人に対して、「南無妙法蓮華経」御題目を唱えることにより、我が身の中に最高の宝石があることを知り、その宝石をより輝かすことができると仰せ下さっていると拝するものです。経済的な欲望には限りがありません。肉体的な衰えにあらがうことはできません。しかし、精神的な宝は私たちの命の中に厳然として存在することを忘れてはなりません。大聖人様が仰せ下さることを信じ、「南無妙法蓮華経・南無妙法蓮華経」と精進を重ねるならば、「世界第一の富者は我なり」と思い定めましょう。そして、その宝物を周囲に充満している「貧人」に分け与える修行に励むことで、我が命の中にある宝石の輝きがさらに増します。光り輝く宝石は、来世を照らす明かりでもあります。

暑い日々ですが、秋の実り(成仏)を思い浮かべ、明るく楽しく、そして心豊かに乗り切ってまいりましょう。

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