日蓮大聖人御書拝読と御法話

平成25年9月8・13日 日蓮大聖人御報恩御講拝読御書

三世諸仏総勘文教相廃立

三世諸仏総勘文教相廃立 (平成新編御書一四二二頁)
弘安二年一〇月 五八歳

三世諸仏総勘文教相廃立 (平成新編御書一四二二頁)

化他の諸経は自行を具せざれば鳥の片翼を以て空を飛ばざるが如し。故に成仏の人も無し。今の法華経は自行・化他の二行を開会して不足無きが故に、鳥の二翼を以て飛ぶに障り無きが如く成仏滯り無し


《題号について》

○三世諸仏総勘文教相廃立=弘安二年(一二七九年)十月、身延において著された御書。『総勘文抄』と略称される場合が多くあります。題号には本抄の内容が要約されております。その意を拝しますと、三世諸仏の勘え決定された教相の廃立とは、化他方便の権教を廃し、自行真実の法華経を立てることにある、とするものです。本抄では、教相判釈の上で、法華経が真実の教えであることを顕かにされたものです。


《拝読の御文の意》

幸いなことに、総本山で開催された「平成十八年度 第4回法華講夏期講習会」において、御法主日如上人の御講義がございますので、ここに掲載して御書の御意を拝したいと思います。


【日如上人御講義】

「この「自行・化他」の解釈には、「法体」に約す場合と「修行」に約す場合の二通りがあるのです。 そこで、この法体に約す場合の自行とは何かと言いますと、仏様の境(きょう)智(ち)をそのまま説いたところの教えでありまして、判りやすく言うならば随(ずい)自意(じい)の教えであります。それから化他というのは、様々な九界の衆生の機(き)根(こん)に応じて説いたところの教えでありますから、言うなれば随他意の教えであります。ですから、法体に約しますと、法華経は随自意になり、それ以前の四十余年の経々というのは相手の機根に応じて説いてきたところの教えですから随他意ということになるわけであります。

もう一方で修行に約す場合の自行というのは、自分が功徳を受けるためにする修行のことであります。それから化他というのは、他人にその功徳を得せしめるために化導、育成していくということであります。

この『三世諸仏総勘文教相廃立』の御文は、本来は法体に約しておっしゃっているのですが、ここでは敢あえて修行、行体に約して申し上げます。

したがって、この御文を修行に約せば、自行と化他になりますが、一見、自行と化他は相対(あいたい)するように見受けられますけれども、法華経においては共に重大なる仏道修行として捉とらえているわけです。

それはあたかも
「鳥の二翼を以もって飛ぶに障り無きが如く成仏滞り無し」
とあるがごとくであります。これは大聖人様が『三大秘法抄』に、
「末法に入って今いま日蓮が唱ふる所の題目は前代に異なり、自行化他に亘わたりて南無妙法蓮華経なり」(御書・一五九四頁)
と仰せの有名な御文がありますが、この御文と合わせて解釈をしてくださればよろしいのではないかと思います。要するに、我々の信心修行においては自行と化他の二つが大切であるということです。

この『三世諸仏総勘文教相廃立』の御文は、直接、行体に約してはおられないけれども、このように解釈をしていくべきであるという次第であります」


 以上のように講義をされております。ここで、「私たちの修行は自行化他の両方が大切である」と仰せ下さることを忘れないようにしましょう。「自行」は勤行唱題、「化他」は折伏であることは知らない人はおりませんが、折伏というと、どうしても腰が引ける時があります。それは、折伏を難しく考えているからではないでしょうか。「相手をねじ伏せてやろう」という強い気持ちは大事ではありますが、それでは自分の心もねじ伏せられているのです。も少し肩の力を抜いて、「大聖人様のお使いをしよう」と言い聞かせ、「御本尊様の功徳は偉大です。一緒に南無妙法蓮華経と唱えてみませんか」と声をかけることで立派な折伏行になっています。青年部を中心に行っている「ポスティング」も、素晴らしい折伏行です。間違いなく自行化他の修行がありますので、鳥の両翼が揃って大空を自由自在に飛ぶことが出来るように、私たちも、この娑婆世界に在って願うところに飛び行く功徳を受けられます。

拝読の御文は、以上のようなことを教えて下さっております。繰り返し拝して、指針としてまいりましょう。


《語句の意味》

○化他=他を導くための修行。自行に対する語。法体に約すときには、隨他意の教えをいう。

○諸経=釈尊が三十歳で覚りを開いた後、七十二歳で法華経を説くまでの四十二年間に説いた教え。阿弥陀経や大日経、般若心経とうがある。

○自行=自身の成仏ために励む修行。化他に対する語。法体に約すときには、随自意の教えをいう。

○開会(かいえ)=開顕会融(かいけんえゆう)・開顕会帰(かいけんえき)のこと。開会には、法開会と人開会の二種がある。法開会は法華経以前に説かれた一切の教えも、法華経の中に含まれること。つまり、爾前経に執われたままでは実相は覆われたままであるが、法華経が説き顕された以後には、それらの教えも真実の一分が説かれたものとなり、実相を明らかにする用をなす、という法門。
人開会は、声聞・縁覚・菩薩の三乗(さんじょう)に、隔たりがある、という爾前経から、法華経の方便品にいたって、一仏乗が明かされた。すなわち、一切衆生に悉く仏性が備わり、平等に仏に覚りを得られるとする法門。法華経が爾前権教に勝れる理由は、この開会の法門が明らかにされたところにある。



《自我偈その二》
我常住於此 以諸神通力 令顛倒衆生 雖近而不見 衆見我滅度 広供養舎利 咸皆懐恋慕 而生渇仰心 衆生既信伏 質直意柔軟 一心欲見佛 不自惜身命

《書きくだし文》

我常に此に住すれども 諸の神通力を以て 顛倒の衆生をして 近しと雖も而も見えざらしむ 衆我が滅度を見て広く舎利を供養し 咸く皆恋慕を懐いて 渇仰の心を生ず 衆生既に信伏し 質直にして意柔軟に 一心に仏を見たてまつらんと欲して 自ら身命を惜しまず


《現代語訳》

常にこの裟婆世界にあって法を説いているのです。私は常にこの裟婆世界におり、さまざまな神通力を用いて、心が顛倒している衆生には、近くにいても見えないようにしているのです。衆生は、私の入滅の姿を見て、広く舍利を供養し、仏を恋い慕う心を懐きます。衆生はすでに教えを信じ順うことを決意した上は、心が素直で柔軟になり心から仏にお会いしようと願って、自らの命も惜しまないようになりました。


《今日のポイント》

先月のところに、「常に法を説いて無数億の衆生を教化して 仏道に入らしむ」とありました。これは、仏様はいつもこの娑婆世界にあって私たちを導いて下さっている、という御文です。ところが、凡夫である私たちは、そのことを知りません。知ろうともしないから凡夫というのでしょう。気づきさえすれば仏様のお力を受けることができるにもかかわらず、愚かにして、「常説法教化」から目を背けているのです。そこで、「衆生を救済するために、教化の方法として涅槃を現したこともありますが、実際に入滅したわけではありません」という仮りの姿を用いられたのです。

顛倒した心の衆生には仏様の尊さがわからなくなっております。そこで、仮りに涅槃(入滅すること)の姿を示されたのです。仏様の御姿が見えなくなるとそこではじめて仏様の偉大さに気づくからです。いつも目の前におわしますといつの間にか有り難さが薄れる、とは日々の生活の中でも経験することです。「親の有り難さがやっとわかった」と不孝をわびる言葉があります。同じことです。

しかし、次に、「衆我が滅度を見て、広く舎利を供養し」とありますように、仏様が涅槃に入られたことを知った衆生は、仏様の舎利(遺骨)を安置するための塔を建て、仏様のために供養をしたのです。そうすることにより、「咸(ことごと)く皆恋慕(みなれんぼ)を懐(いだ)いて、渇仰(かつごう)の心を生ず」という状態になりました。すべての衆生が、仏様を恋い慕い、心から仏様をあこがれ慕うようになったのです。

仏様の有り難さに気づかずにいたことを反省し、心から仏様を恋い慕う気持ちが、「衆生既に信伏し、質直にして意柔軟」ということなのです。正直で素直な心から、仏様の前に手を合わせ身を伏せ、そして仏様を一心に見つめたとき、仏様のためならば我が命も惜しくない、という心が湧き上がってくるのです。「質直」とは真っ直ぐという意味です。また「意柔軟」の「意」とは心のことで、「柔軟」は柔らかいということですから、我意我見がなくなることです。「素直で正直、さらに我見に支配されない心」が仏様の心であるといえます。勤行で、「質直意柔軟」ところに差しかかったならば思い出してください。我見に支配されない心、素直で正直な気持ちで周りの人達のことを思うときの自分の姿を思い浮かべて下さい。成仏の功徳の一端が明らかになると思います。

次に、「不自惜身命」と説かれております。命は世界中の宝物を集めたものよりも尊い、と経文には示されますように、私たちにとって最も大切なものです。ところが、それよりも仏様のことを思う気持ちが重要である、ここでは説かれます。何故でしょうか。その答へが『御義口伝』にあります。大聖人様は次のように御教示です。
「日蓮等の類南無妙法蓮華経と唱へ奉るは捨是身已(しゃぜしんい)なり。不惜身命の故なり云云。又云はく、是の身を捨(ほどこ)すと読む時は、法界に五大を捨すなり。捨つる処の義に非ず。是の身を捨てゝ仏に成ると云ふは権門の意なり」(一七四四頁)
とあります。つまり、我が身命を捨てる、と思うのではなく、宇宙法界に我が命を供養する、との決意が功徳を受ける原点である、ということなのです。換言すれば、広宣流布のために身を捧げることが、「一心欲見佛 不自惜身命」なのです。お金や地位や名誉などに左右されない心を持ち、御本尊様のお使いをすることを唯一の願いとして、折伏を実践をするならば、常に仏様に見守られた自分を感じることのできる、大きく広い自在の境地を開き、何不自由のない境界に住することができるようになる、と大聖人様が教えて下さいます。

凡夫の狭い心で今世を生きるのではなく、一瞬の生命の中であっても、「一心欲見仏」の思いが湧き上がれば、それは尊い仏様の心と同じなのです。そのように感じられることを、「功徳」というのです。一日の間に、一瞬でも「仏様と同じ心」と感じられることがあれば、それは大功徳を受けたことになります。御題目を唱え、大聖人様のお使いをして沢山の功徳を積み、皆で幸せになってまいりましょう。

(日蓮正宗佛乘寺)

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