日蓮大聖人御書拝読と御法話

平成25年10月13日 日蓮大聖人御報恩御講拝読御書

白米一俵御書

白米一俵御書 (平成新編御書一五四五頁)
弘安三年 五九歳

白米一俵御書 (平成新編御書一五四五頁)

爾前の経々の心は、心のすむは月のごとし、心のきよきは花のごとし、法華経はしからず。月こそ心よ、花こそ心よと申す法門なり。此をもってしろしめせ。白米は白米にはあらず。すなわち命なり。


○『白米一俵御書』について

『白米一俵御書』の御真蹟は総本山に厳護されていることから、富士方面の法華講員に対して与えられたものであると拝されます。冒頭に
「白米一俵・けいもひとたわら・こふのりひとかご・御つかいをもってわざわざをくられて候」
とありますように、精米をしたお米を一俵、毛芋(けいも)と言われる山芋を一俵、さらに河で採れる食用のノリを一籠。これらの御供養に対する御返事です。
別名を『事理供養御書』ともいいます。
「凡夫は志と申す文字をへて仏になり候なり」
と述べられ、つずいて、「志というのは観心の法門のことであり、観心の法門は、ただ一つしかない衣を仏に供養することで、それは身命を供養することになる」と御教示下さっております。

また、世間と仏法と別々であると説くのは爾前の教えであり、法華経は仏法即世法であることを述べられております。

拝読の御文の、
「心のすむは月のごとし、心のきよきは花のごとし」
は、爾前の経々では、心の清らかなことを、月や花に譬えて説いていることを挙げ仏法即世法を説いていない例証とされます。

法華経では、
「月こそ心よ、花こそ心よと申す法門なり」
と説かれ、月の中に心があり、花と心は一体である、と仰せになります。これは、法華経の教えは、仏法と世法とは別々のものではない、と御教示くださる御言葉です。

以上のことをふまえて、
「白米は白米にあらず、すなわち命なり」
を拝する時、真心からの白米はただの白米ではなく命そのものの御供養である、と御嘉賞下さり、それこそが仏に成るための観心の修行であることを知ることができます。

供養とは、「進供資養(しんぐしよう)」・「供給奉養(くきゅうほうよう)」の事で、仏法僧の三宝に報恩感謝の意から、真心を込めて種々の財物等を捧げることをいいます。

当抄で、「薬王菩薩や雪山童子のように命を仏に供養することで自らも仏に成ることができる」と述べられております。また、「末法の凡夫は、命を仏に供養することはできないが、たった一枚しかない衣服を、わずかしかない食べ物を供養することが命を供養したことになる」と述べられております。

命を供養することは仏道修行であり「事供養」、財物の供養は世法での修行であり、「理供養」との御教示とも拝することができます。

そのように拝すると、白米の御供養は世法での御供養ではありますが、仏法即世法の上からは、成仏の修行である、と仰せ下さっているのです。

私たちは、いにしえの聖人や賢人のように、命を捧げる修行を行うことはできないかも知れません。また、誰にでもできるものではありません。しかし、私たち凡夫にあっても、叶う修行があることを知り、実践を重ねることが肝要である、との御教示でもあります。ただ、末法において成仏の功徳を受けるための最高の実践は折伏行であることはいうまでもありません。志を高くもって、観心の修行に励みましょう。


《自我偈その三》
時我及衆僧 倶出霊鷲山 我時語衆生 常在此不滅 以方便力故 現有滅不滅 余国有衆生 恭敬信楽者 我復於彼中 為説無上法 汝等不聞此 但謂我滅度

《書き下し文》

時に我及び衆僧 倶に霊鷲山に出ず 我時に衆生に語る 常に此に在って滅せず 方便力を以ての故に 滅不滅有りと現ず 余国に衆生の 恭敬し信楽する者有れば 我復彼の中に於て 為に無上の法を説く 汝等此を聞かずして 但我滅度すと謂えり


《現代語訳》

(衆生が執着の心を捨て去り、仏様のことを一心に思うようになったならば)その時に私と私の弟子たちは霊鷲山に姿を現すのです。私はその時に衆生に語ります。私は常に此の所にあって入滅することはありません。衆生を導く上から、入滅あるいは入滅しないという姿を方便の力を持って顕したのです。
他の国土の衆生の中で、私(仏)のことを恭しく敬い、信じ願うものがいたならば、私はまた彼らの中に入りこの上も無ない尊い法を説きます。
貴方たちは、この私の言葉を聞かないで、ただ私が入滅したと思いこんでいます。私が多くの衆生を見たときに、すべての人々は一様に苦しみの海の中に落ち込んでもがきあえいでております。


【解説】

霊鷲山とは法華経が説かれたインドの地名です。霊山という言い方もあります。御書では、「霊山浄土」と仰せになり、日蓮大聖人様がおわします処が霊鷲山であると教えてくださっております。ですから、私たちの信心の上からこの「倶出霊鷲山」を拝しますと、御本尊様御安置の処であるということがいえます。また、仏様は私たちの心をお感じになり、出現されるとも説かれております。ですから私たちが仏様のことを思うならば、常に私たちの前に仏様はおわしますのです。そして、常に私たちに法を説き私たちを導いてくださっているのです。仏様のお言葉を素直に信じることができるならば大きな功徳を受けることができることを教えてくださる御経文である、と心にとどめておいてください。

『法蓮抄』(御書 八一四頁)には、
「信なくして此の経を行ぜんは手なくして宝山に入り、足なくして千里の道を企つるがごとし」
とあります。宝の山の中に入っても手がなければ宝をつかむことが出来ないように、足がないものが千里先まで行くことができないように、信心のないものがいくら読経しようとも功徳はない、と仰せです。御本尊様を信じる心が大切であることを、この御言葉で教えて下さっております。つまり、御本尊様を御安置し、朝夕お水をお供えしたり、お樒の水を取り替えたり、季節の果物が出回る頃になるとそれを求めてお供えをしたりするお給仕はまことに大切なことです。

さらにその上で、財物を我が物にするために、御本尊様にお給仕するご信心から、一歩前に進んで、御本尊様を信じてすべてを御本尊様とともに、という心をもって修行に励もうではないか、という御指南なのです。御本尊様への信をより強く持って、御法主上人の御指南を拝し、素直な心、正直な命で精進を重ねれば、必ず法界を自在に遊行することのできる大きな境界を受けることができるのです。

信が大切であることをお経文と御書ではこのようにお示し下さいます。好き季節を迎えました。自他共に幸福になれる折伏行に精進をいたしましょう。

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