日蓮大聖人御書拝読と御法話

平成25年11月10・13日 日蓮大聖人御報恩御講拝読御書

曽谷入道殿御返事

曽谷入道殿御返事 (平成新編御書七九四頁)
文永一二年三月  五四歳

曽谷入道殿御返事 (平成新編御書七九四頁)

此の経の文字は盲眼の者は之を見ず、肉眼の者は文字と見る、二乗は虚空と見る、菩薩は無量の法門と見る、仏は一々の文字を金色の釈尊と御覧有るべきなり。即持仏身とは是なり。

《対告衆の曽谷入道殿とは》

 曽谷二郎兵衛教信(そやじろうひょうえのじょうきょうしん)。元仁元年(一二二四年)〜正応四年(一二九一年)。千葉氏の家臣で、下総国八幡荘曾谷郷(現在の千葉県市川市曽谷)の領主です。『立正安国論』を上程された文応元年頃の入信と伝えられています。道号を「法蓮」と大聖人様から賜っております。また、曽谷教信が亡父の追善供養のために法華経の自我偈を毎日読んだ功徳を教え、親孝行を誉められた『法蓮抄』や、末法に流布する教えは南無妙法蓮華経であり、南無妙法蓮華経を流布する役目は地涌の菩薩であることなどの重要な御教示をされた『曽谷入道殿許御書』などの御書を与えられております。富木常忍や四条金吾と共に関東方面の信仰の中心者でした。

 総本山五十九世日亨上人の「弟子檀那列伝」には、「下総葛飾郡曽谷に住して富木氏に次いで入信し信行次第に増進し一生不退に大聖に奉仕したが、教解の進むに伴いて本門に猛進し迹門不読の見を起こして訓悔を蒙ったこともある、但し住地其他の縁故に依り富木・太田に協力して法塁を堅め通した」とあります。ここで、「本門に猛進して迹門不読の見を起こし」と述べられているのは、曽谷殿が、法華経は本門の寿量品が中心であり、迹門の方便品は読む必要がない、という思いに執われたことを指します。それに対して、大聖人様は当御文の冒頭に、
「方便品の長行書き進らせ候。先に進せ候ひし自我偈に相副へて読みたまふべし」
とあるように、わざわざ方便品の長行を御書写になって曽谷殿に送り、誤った信仰を糺すように御教示をされております。

 御本尊様に向かって御題目を唱えていても、自分勝手な思い、自己の心を中心とした信心に陥ると、大聖人様に直接御指導を賜っておりながらも筋道が違ってくる姿があります。これもまた末法の衆生のあり方かも知れませんが、私たちも「教悔」として肝に銘じておかなければならないことです。

 そのためには、常に総本山に参詣し、御法主上人の御指南を拝することが肝要です。また、大日蓮や大白法に掲載される御指南を拝読することを怠ってはならないと思います。

 日蓮正宗の信仰は、宗祖日蓮大聖人・二祖日興上人・三祖日目上人以来法統連綿と続く歴代の御法主上人の許で御題目を唱え折伏の修行に励み成仏を遂げる信仰です。この一点を誤らなければ間違いなく成仏が叶います。曽谷殿の姿を通して学ぶことができます。忘れてはならない大切なことです。


【語句の意味】

○この経=法華経のこと。法華経においてそれまでの仮りの教えを打ち破り、仏の真実が説き明かされました。法華経の方便品で、ほぼ(略して)声聞・縁覚・菩薩という三乗(さんじょう)の心を開いて仏の心を顕す、という「略開三顕一(りゃっかいさんけんいち)」がとかれました。さらに、「広開三顕一(こうかいさんけいんいち)」といって、より確かに(開・ひろく)、三乗に執着した心を打ち破って仏の心に導く教えが説かれました。これは、一切衆生の生命に仏の生命が具わっていることを明らかにしたもので、「一念三千・十界互具」の法門といいます。つまり、私たち一人ひとりも、仏に成ることが叶う、ということを教えて下さるものです。しかし、方便品では、その理論的なことは説かれましたが、実体としての「一念三千・十界互具」は顕かにされておりません。それが明かされたのが、法華経の寿量品です。したがって寿量品が釈尊出世の本懷を説かれた教えであり、釈尊一代の聖教の中で最も尊い教えであるといわれるのです。

 ご承知のように、釈尊が覚りを開き、仏としての姿を顕されたのが三十歳の時です。それより七十二歳にいたる四十二年の間に、現在、念仏宗・禅宗・真言宗等といわれる教えを説かれました。しかし、それらの経文には真実の教えは説かれておりません。そのことは、法華経を説かれる直前の、無量義経に「四十余年未顕真実」と説かれていることからも明らかなのです。

 また、法華経の方便品には、「正直捨方便」と説かれ、これまでに説いてきた教えは方便(仮りの教え)であるから、捨てなければならない、とハッキリ示されております。その上で、七十二歳から説き始められた法華経において、釈尊がインドに出現した意義が顕かにされます。その究極のことが寿量品に説かれるのです。ですから、寿量品を釈尊出世の本懐が説かれた教えである、というのです。

 その究極の教えとは、@釈尊が久遠の昔から教えを説いてきたこと。A久遠の昔に修行をして得た功徳が未だ尽きずにあること。B私たちが住んでいるこの娑婆世界で常に法を説いて導いてきたことです。このような教えは、過去の四十二年の間に教えを聞いてきた衆生にとって驚きであると共に大変な歓びでもありました。何故ならば、それまでの教えでは、女性の成仏は説かれておりませんでした。また即身成仏も明かされておりません。なによりも、私たち一人ひとりがもれなく仏に成ることが明確になったからです。法華経分別功徳品第十七には「仏がこの娑婆世界にあって遠い昔から私たちを導いて下さっていた、ということを聞いた衆生は大きな利益を得た」ことが説かれております。また、「仏の生命が永遠であることを聞き、少しでも信じ理解しようと努力をすれば限りない功徳を受けることが出来る」等と説かれている通りです。故に大聖人様は、『開目抄』に、
「一切経の中に此の寿量品ましまさずば、天に日月の無く、国に大王の無く、山河に珠の無く、人に神のなからんがごとく」
と仰せになるのです。

 しかしこれはいまだ「文上顕本(もんじょうけんぽん)」の教えです。さらに、「文底顕本(もんていけんぽん)」といいまして、一歩深い教えがあります。それが日蓮正宗のみに相伝される尊い教えなのです。つまり、寿量品では「釈尊は久遠の昔に修行をして仏に成った」と説かれますが、何をもって修行をしたかが明かされておりません。そこを顕かにされたのが御本仏日蓮大聖人様なのです。『開目抄』に、
「一念三千の法門は但法華経の本門寿量品の文の底に秘ししづめたり」 (御書・五二六頁)
と述べられた、寿量品の文の底に秘沈された一念三千を、三大秘法の大御本尊として建立下さったのです。この文底に秘し沈められた南無妙法蓮華経を唱えている私たちに、功徳が具わるのは当然のことなのです。

○二乗=声聞界と縁覚界の衆生。人界や天界の衆生よりも一段知恵が優れているとされる。
○虚空=なにも妨げるものがなく全てのものが存在する空間。宇宙という場合もある。
○菩薩=菩提薩?(ぼだいさった)の略。悟りを求める人。利他を根本とした衆生。
○即持仏身=仏説観普賢菩薩行法経の文。「此の経を持つ者は、即ち仏身を持ち、即ち仏事を行ずるなり」と説かれる。


【通解】

 この法華経の文字を目の不自由な人は見ることが出来ません。凡夫は紙に書かれたただの文字と見ます。声聞界と縁覚界の二乗といわれる境界にある者は虚空に見えます。また菩薩は最高の貴い教えが説かれたものであると見ます。さらに仏の境界にある者には一々の文字が仏様(釈尊)に見えます。仏説観普賢菩薩行法経』に、「此の経を持つ者は仏の身を持つことになる」と説かれるのはこのことです。


《拝読の要点》

※ここで法華経に対する五つの見方が示されます。
一、法華経を見ようとしない者。
二、凡夫の見方。
三、二乗の見方。
四、菩薩の見方。
五、仏の見方。

 一は法華経を見ようともしない不信の者を譬えてのお言葉であるといえますから論外です。しかし、二・三・四は、法華経を読んでいても、その生命の状況によってどのような結果となるかを示されたものです。

 五の仏の境界になって法華経を読む時には、一切が仏様の尊い教えであることに気づくことを教えて下さっております。仏の境界とは、大聖人様のことを疑わずに信ずることです。二乗の境界は、自己のことのみを思い、他を利益することに欠ける心のあり方です。まわりから見れば立派なように見えても、自己中心的な言動は二乗の境界が表れた姿です。それであってはせっかくの修行も成仏には至りません。

 そこで、自己の心を中心とするのではなく、日蓮大聖人様のお心を我が心として御題目を唱える時、つまり、自らの境界を「無疑曰信(むぎわっしん)」の修行、どのようなことがあっても大聖人様を疑わない心、換言すれば、我が心を正直で素直な所に置くことが出来れば、「いつも仏様と共に」との「快得安穏(けとくあんのん)」の功徳が受けられることを「即持仏身」と教えて下さるのです。

 当抄の最後に、
「心の師とはなるとも心を師とせざれとは六波羅蜜経の文ぞかし」
と述べられております。これは、凡夫の拙い心、境界を基本とした生き方は、辛い生き方になりますよ、と教えて下さるものであると思います。肩肘を張らずに、日蓮大聖人様と共に、仏様の教えを中心に、という生き方が、暗く辛い世の中を、明るく楽しく生きるコツである、と示されているのではないでしょうか。

 秋がないまま、夏からいきなり冬になったように感じます。仏法の「依正不二」の教えから考えると、日本人の心から、四季を大切にする心が失われたことを表している、といえます。「依正不二」あるいは「身土不二」という考えと、現代科学の考え方とは相違があるように思われますが、人間生活と環境を相対化してみますと、そこには科学的な結論を導き出すことができると思います。経済活動を優先した結果、多くの自然が失われ、回復が見込めないことは、その端的な例です。温暖化問題もまた然りです。

 ともあれ、寒くなります。新手のウイルスが出て重い病が流行するかも知れません。医師も薬も頼りにならないとわかってから「南無妙法蓮華経の大良薬」を飲むのではなく、元気で御題目を唱えることができる体力のある間に、修行に励み、身心に功徳を充満させておくことが大事ではないかと考えます。

 入院したら、病院のベッドの上でゆっくり御題目がとなえられる。だから今は仕事を優先しよう、と元気なときに御題目をあとまわしにした結果、肝心なときに御題目を挙げることができない、と嘆く方を多く見ています。よくいわれます「信心即生活」は、自分の心を中心にしての「信心即生活」ではなく、日蓮大聖人様のお心を中心にした「信心即生活」でなくてはなりません。
 
 御本尊様を護持し、日蓮大聖人様の御教えのままに、御法主日如上人と共に信仰に励む人達が増えることで、環境世界も良き方向に変わることを信じ、仏の境界にある事を常に願って、進んでまいりましょう。

 御影堂の改修落慶入仏大法要が奉修される良き時です。ご精進ご精進。

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