日蓮大聖人御書拝読と御法話

平成26年1月12・13日 日蓮大聖人御報恩御講拝読御書

上野殿御返事

上野殿御返事 (平成新編御書一四四六頁)
弘安三年一月三日  五九歳

上野殿御返事 (平成新編御書一四四六頁)

 十字六十枚・清酒一筒・薯蕷五十本・柑子二十・串柿一連送り給び候ひ畢んぬ。法華経の御宝前にかざり進らせ候。
 春の始めの三日、種々の物法華経の御宝前に捧げ候ひ畢んぬ。花は開いて果となり、月は出でて必ずみち、灯は油をさせば光を増し、草木は雨ふればさかう、人は善根をなせば必ずさかう。其の上元三の御志元一にも超へ、十字の餅満月の如し。事々又々申すべく候。

  正月三日                            日蓮花押 

 上野殿                                     


【通解】

十字を六十を、清酒を一筒、薯蕷を五十本、柑子を二十個、串柿を一連、確かに拝受致しました。法華経の御宝前をお飾りすることができました。
 春の始めの正月の三日に、種々の物を法華経の御宝前にお供え申し上げました。花が咲けばやがて実を結びます。月は出て必ず満月になります。灯火に油をさせばますます明るくなります。草や木は雨が降れば成長します。これらと同じように、人も善根を積めば必ず元気になれます。その上、正月三日の志は元旦の志にも超えるものです。あなたの御供養された十字の餅は満月のように思えます。委しいことは次の機会に申し上げます。


【語句の意味】

○十字=蒸した餅のこと。表面に十文字の切れ目をれて熱が伝わりやすいようにしたことから、「十字」と書いて「むしもち」と呼ぶようになったと言われる。

○薯蕷=山芋、ジネンジョのこと。

○柑子=在来種のミカンの一種。柑子ミカンとも言う。

○法華経の御宝前=南無妙法蓮華経の御本尊様を御安置し申し上げた所。ここで法華経と仰せになるのは、法華経二十八品すべてを指すのではなく、法華経・寿量品の文の底に秘し沈められた南無妙法蓮華経のこと。その南無妙法蓮華経の曼荼羅を御本尊として御安置した所を、「法華経の御宝前」と仰せになられた。ちなみに、「妙法蓮華経の御宝前」とのお言葉は、弘安二年五月二日の『新池殿御消息』(御書・一三六三頁)に、また「法華経の御宝前」という御言葉は、弘安二年九月十五日の『四条金吾殿御返事』(御書・一三九〇頁)にはじめて見える。大御本尊を建立されたのが弘安二年十月十二日であることからすれば、この時期からこのように仰せになられたことは偶然ではないと思われる。なお、日興上人は「法華聖人の御宝前」と仰せになられているが、これは日蓮大聖人の御宝前、という意味である。このことから、日興上人は、大聖人を人法一箇の仏様と拝していたことが明らかである。

○春の始めの三日=春の始めは正月。その三日であるから一月三日のことを指すと思われる。

○善根=全ての善の根本で、無貪(むとん)・無瞋(むじん)・無癡(むち)の三善根を言う。私どもの日常生活では、善いことをすればよい果報を受けます。御信心の上では尚更で、大善根である南無妙法蓮華経と御信心に励むことで、大果報を受けられることを示される御文です。

○元三=正月の三日のこと。

○元一=元旦のこと。



〇自我偈(その四)

園林諸堂閣 種種宝荘厳 宝樹多華菓 衆生所遊楽 諸天撃天鼓 常作衆伎楽 雨曼陀羅華 散仏及大衆


【書き下し】

園林諸の堂閣 種種の宝をもって荘厳し宝樹華菓多くして 衆生の遊楽する所なり 諸天天の鼓を撃って 常に衆の伎楽を作し 曼陀羅華を雨らして 仏及び大衆に散ず


【現代語訳】

 園林やその中にある多くの堂閣は様々な宝によって厳かに飾られております。宝樹には華が咲き誇り、多くの菓が鈴なりです。そこは衆生の楽しく遊ぶところなのです。諸天は天の鼓を打ち、常に多くの音楽や舞を行い、曼陀羅の華をふらして仏や大衆の上に散じます。

【今日のポイント】

 衆生が苦しみの世界と感じているこの世の中も、仏様のご境界では、多くの宝物で飾られた最高の世界である、ということです。

『阿仏房御書』(七九三頁)を拝すると、
「然れば阿仏房さながら宝塔、宝塔さながら阿仏房、此より外の才覚無益なり。聞・信・戒・定・進・捨・慙の七宝を以てかざりたる宝塔なり」 
とあります。

 つまり、御本尊様を受持して南無妙法蓮華経と唱える私たちは、七つの宝物によって飾られる、と仰せです。一般に、七宝・七つの宝といえば、金・銀・瑠璃・シャコ・碼碯・真珠・マイ等の高価な宝石などを言いますが、御本仏日蓮大聖人様は、物質的な宝である、「蔵の財、身の財」ではなく、「聞・信・戒・定・進・捨・慙」の七種が財であると仰せです。

 永遠に崩れることのない、我が身を飾る「心の財」、来世にも共通の宝であることをお示しなのです。換言すれば、相対的・物理的な財ではなく、絶対的・精神的な財のことです。

 この「聞(もん)・信(しん)・戒(かい)・定(じょう)・進(しん)・捨(しゃ)・慙(ざん)」の中でも、一番目に「聞」が挙げられております。「聞」とは、「聞くこと」「聴聞すること」で、耳から入るものです。

@御本尊様のこと・日蓮正宗の教えを聞くことが事が「聞」です。一切は「聞く」ことから始まる、ということです。別の面から見れば、「聞かせる」と言うことでもあります。
大聖人様は『一念三千法門』で、
「此の娑婆世界は耳根得道の国なり」
とおおせです。娑婆世界に住んでいる私たちは、仏の教えを聞いて成仏が叶えられます、という意味になります。さらに
「是を耳に触るゝ一切衆生は功徳を得る衆生なり」
と述べられます。「是」は、一念三千の法門、つまり南無妙法蓮華経の教えのことを指しておりますから、日蓮正宗の教えを聞くことができた一切の衆生には功徳が具わる、ということです。

 また、「聞」について、総本山二十六世日寛上人は『寿量品談義』の中で、
「信心を進むことは法を聞くによるなり。聞かずんば信心生ぜず、信心生ぜずんば修行を怠る。修行を怠れば未来如何なる所に生まるべしや。仍て歩みを運んで聴聞肝要なり」
と御指南されます。聞くことにより信心がおこり、修行が始まり、未来はよき果報を受けることが叶う、とものです。反対に、修行を怠れば、それ相応の未来しかありません、と。ですから、皆さまが御報恩御講に足を運ばれ、大聖人様の御文や、日寛上人のお言葉を耳にすることは、「聞法」の修行であり、功徳が楽しみになる修行なのです。

 大聖人様や日寛上人のお言葉ですから、信じないわけにはまいりません。さらに、「聞」に続いて、
A御本尊様を「信」ずる心がうまれ、唱題につながります。唱題は、
B御本尊様を持つ「戒」へと昇華します。そして、
C御本尊様の前で唱題をすることにより、平安な心を感じることは「定」です。さらに、
Dこの御本尊様と共に前を向いて歩もうという「進」となります。精進の心が高まることです。そういたしますと、次には何とかして、この御本尊様の有り難さに御報恩をしたいという思いが自然自然と心の中に湧き上がってまいります。それが
E番目にある「捨」です。これは、感謝の心が執着の心を捨てさせることをいいます。物心両面の執着から離れるのですから、「自由な心を得る」といってもよいでしょう。そして最後、
Fの「慙」にいたります。聞・信・戒・定・進・捨の修行に励んだが、「私は御本尊様の信心に恥じることがないだろうか」と自己を省みることです。御供養をしたから本山が立派になった、折伏をしたから数が増えた、等の思いをもっていないだろうか、と省みることが「慙」です。

 つまり、自我偈に説かれる「種種宝荘厳」は、私たち一人ひとりの精進によって実現可能なことである、と教える経文なのです。決して別の世界のことではなく、この娑婆世界に住する一人ひとりが貴い役目にあることを思い、寒さ厳しい季節ではあります修行に励んでまいりましょう。

以上

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日蓮正宗向陽山佛乗寺