日蓮大聖人御書拝読と御法話

平成26年2月9日 日蓮大聖人御報恩御講拝読御書

最蓮房御返事

最蓮房御返事 (平成新編御書五八八頁)
文永九年四月一三日  五一歳

最蓮房御返事 (平成新編御書五八八頁)

されば我等が居住して一乗を修行せんの処は何れの処にても候へ、常寂光土の都たるべし。我等が弟子檀那とならん人は一歩を行かずして天竺の霊山を見、本有の寂光土へ昼夜に往復し給ふ事、うれしとも申す計り無し、申す計り無し。     


【通解】

そのようなことから、私達が住んで法華経の修行をする所は、どのような所であっても常寂光の都です。私達の弟子や檀那となる人は一歩も歩くことなくインドの霊鷲山を見ることになります。本有の寂光土に昼となく夜となく往復することが叶う嬉しさは、言葉に言い表すことができません。


《あなたのいるところが最高のところ》

当抄は佐渡に配流中の文永九年(一二七二年)四月十三日に認めら、最蓮房に与えたものです。大聖人様は前年の十一月一日、佐渡・塚原の配流所にお着きになりました。北国の厳しい冬に向かう季節です。佐渡の島の様子を大聖人様は、
「北国の習ひなれば冬は殊に風はげしく、雪ふかし。衣薄く、食ともし」(『法蓮抄』八二一頁)
と記されております。北国の冬の風はことのほか強く、雪も降り積もり、寒さを防ぐはずの衣は薄く、食べ物も乏しい中で、一冬を過ごされ春を迎えたときの御文です。

この御文の前で、
「我等は流人なれども身心共にうれしく候なり。大事の法門をば昼夜に沙汰し、成仏の理をば時々刻々にあぢはう。是くの如く過ぎ行き候へば、年月を送れども久しからず、過ぐる時刻も程あらず」
とあります。「我等」とは大聖人様のことです。「大事の法門を昼夜に沙汰する」とは、『開目抄』や『観心本尊抄』で、末法のご本仏であることを明かにされたことであると拝します。つまり、当抄の二月前に顕された『開目抄』では、
「日蓮は日本国の諸人に主師父母なり」(五八七頁)
と仰せになり、ご自身が末法の御本仏であることをあきらかにされました。さらに、当抄の半月後の二十五日には、『観心本尊抄』で、末法の一切衆生の尊敬すべき御本尊のことを説き明かされたことを仰せになるのです。

この御本仏としての「成仏の理」は、時々刻々にご自身が体験されたことである、と述べられます。ですから、流罪の身であり、寒さも厳しく食べ物も満足にないような過酷な状況にあっても、「身心共に嬉しく候なり」と仰せになるのです。

その上で、本日拝読のところに繋がって参ります。
「一乗」は一仏乗のことで、すべての人々を絶対幸福境界に導く教えのことを乗り物に例えた言葉です。つまり、御本尊様のことです。その御本尊様の修行をすることにより、辛く苦しい所であっても、御本尊様と共に、という強い心があれば、そこは最高最大の善きところとなる、と大聖人様は仰せになります。日蓮の教えを信じて共に修行に励むならば、即座に仏様の所に行くことができる、仏様の所に自由自在に行き来することができる、と仰せになり、その嬉しさを言葉に表すことはできません、と御本尊様の功徳の大きさを教えて下さるのです。

私達は日蓮正宗の信仰をしております。絶対最高で、唯一無二の正法ですが、信仰をする私たちは末法の凡夫です。したがいまして、色々な縁により、心がゆれ、ちりぢりになる時が少なくありません。そして、自分の置かれた環境に不平不満が募ったとき、この御文を思い出しましょう。無実の罪で流罪になり、命に及ぶような中にあっても、そこが常寂光土である、とされる大聖人様のお姿は、そのまま私達にもあてはめることができます。恐れ多いことではありますが、「我等が弟子檀那」と仰せ下さっておりますことを心に刻み、周りの人達にも伝えてまいりましょう。


【語句の意味】

○沙汰=善悪を選び分けること。理非を論じ定めること。
○あじはう=経験して深く印象に残す。体験する。


○自我偈 その五

【御経文】
我浄土不毀 而衆見焼尽 憂怖諸苦悩 如是悉充満 是諸罪衆生 以悪業因縁 過阿僧祇劫 不聞三宝名


【書き下し】

我が浄土は毀れざるに 而も衆は焼け尽きて 憂怖諸の苦悩 是の如く悉く充満せりと見る 是の諸の罪の衆生は 悪業の因縁を以て 阿僧祇劫を過ぐれども 三宝の名を聞かず 


【現代語訳】

私の清らかな国土は壊れることはありません。しかし、人々は焼け尽くされた、憂いや恐れや諸の苦悩が充満している世界であると見ております。このように罪多き衆生は、悪しき業を積んだ因縁から、十を五十九乗もした長い年月を経過しても、仏・法・僧の三宝の名を聞くことができないのです。


本日のところでは、仏様は、「我浄土不毀」と説かれて、仏様の常住されているこの娑婆世界は絶対に壊れるものではありません、とハッキリと仰せになります。ところが、私たち凡夫には、苦悩に満ちた世界であると映るのです。なぜそのように感じるのでしょうか。それは、「是諸罪衆生」だからである、と示されております。

では、「この諸の罪の衆生」とはどのような意味なのでしょうか。世間法の上からは、法律を犯した者のことを「罪人」といいます。泥棒や殺人を犯した者、目を覆いたくなるような悲惨な犯罪も日常茶飯事です。しかし、このような世法上の罪は、法に触れなければ罪人とはなりません。ところが、仏法では、十四誹謗(十四謗法)を説き、その第二番目にある、「懈怠」をもって積極的に悪いことをしない者であっても謗法である、と説きます。

大聖人様は『戒体即身成仏義』で
「謗と云ふは但口を以て誹り、心を以て謗るのみ謗には非ず。法華経流布の国に生まれて、信ぜず行ぜざるも即ち謗なり」(一〇頁)
と仰せになります。意味は、「謗法とは、口で法華経を誹謗するばかりが謗法ではありません。法華経の教えが広まっている国に住んでいながら、信ずることもなく、手を合わせることもしないのは謗法です」ということです。

 また『新池御書』で
「然れども此の経の十四謗法の中に、一も二もをかしぬれば其の罪消えがたし」(一四五六頁)
と仰せになり、十四誹謗を犯さないことが成仏の道である、と御指南です。

 要するに、何もしない、ということは積極的に悪いこともしないが善いこともしない、ということになります。それは心が緩んでいることであり懈怠となり、「罪の衆生」であるということです。そしてそのような者は成仏が出来ない、ということなのです。

 私たちの信心の立場からこのことを考えてみますと、悪いことをしていないからそれでよい、という考えからもう一歩進んだ生き方が法華経を信ずる私たちの生き方である、ということをここで教えてくださるのです。一生懸命励んでいると思っていても、怠け心は起きます。また、心の緩みが起こらない人はおりません。そのような凡夫の心を励ます日寛上人のお言葉が、「懈怠を防ぐのは精進である」(如説修行抄文段)です。精進とは、コツコツと努力をすることですから、誰にでも出来きます。

 仏教で説く「罪」と、キリスト教でいう「罪」の違いを考えてみますと、キリスト教での罪は、神に背くこと、神の掟を破ること、神からの罰を受けることを含めて「罪」と規定されております。すなわち、他律的なものといえます。ゆえに、犯した罪は神に祈ることで許される、という安易な考えになり、結局は自省の場を失うことになるように思われます。

 それに対して、大乗仏教で説く罪は、衆生には仏性があり、それが顕われたときが悟りであり、迷うときが凡夫ですから、衆生の中にある仏性を自覚しないことが罪なのです。つまり、自律的な罪であるといえます。ですから、罪を滅するために自らが修行に励む以外にないのです。このお経文にもありますように、「悪業の因縁」により罪を背負うのですから自己の問題であり、周囲に責任を転嫁することは法華経の教えに反することになります。したがって、大聖人様は私たちに、「罪障消滅の修行は折伏です」と自らが手本を示されました。

 過去世の罪を自覚し、自行化他の修行に励むならば仏法僧の三宝に巡り合うことが叶い、さらに罪障消滅に進むことが出来るのですが、そうではない人々は苦しみの生活を繰り返し繰り返し続けなくてはならないことを「不聞三宝名」と説かれているのです。

日蓮大聖人様は仰せです。
「冬は必ず春となる。いまだ昔よりきかずみず、冬の秋とかへれる事を。いまだきかず、法華経を信ずる人の凡夫となる事を」
と。

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日蓮正宗向陽山佛乗寺