日蓮大聖人御書拝読と御法話

平成26年4月13日 日蓮大聖人御書拝読

上野殿御返事

上野殿御返事(平成新編御書一二一九頁)
弘安元年四月一日  五七歳

上野殿御返事 (平成新編御書一二一九頁)

又日蓮が弟子等の中に、なかなか法門しりたりげに候人々はあしく候げに候。南無妙法蓮華経と申すは法華経の中の肝心、人の中の神のごとし。此れにものをならぶれば、きさきのならべて二王をおとことし、乃至きさきの大臣已下になひなひとつぐがごとし。わざわひのみなもとなり。正法・像法には此の法門をひろめず、余経を失はじがためなり。今、末法に入りぬれば余経も法華経もせんなし。但南無妙法蓮華経なるべし かう申し出だして候もわたくしの計らひにはあらず。釈迦・多宝・十方の諸仏・地涌千界の御計らひなり。此の南無妙法蓮華経に余事をまじへば、ゆゝしきひが事なり。日出でぬればとぼしびせんなし。雨のふるに露なにのせんかあるべき。嬰児に乳より外のものをやしなうべきか。良薬に又薬を加へぬる事なし。此の女人はなにとなけれども、自然に此の義にあたりてしをゝせぬるなり。たうとしたうとし。恐々謹言。

 弘安元年四月一日                         日蓮花押

上野殿御返事



【通解】

日蓮の弟子たちの中にあっても、中途半端に法門を学び、知ったかぶりをする者もおり、(日蓮が説く南無妙法蓮華経でなければなりません、との教えを)いかにも間違った教えであるように考えております。しかし、南無妙法蓮華経は法華経の肝心であり、人に譬えれば魂にあたるものです。この南無妙法蓮華経の教えに他の(念仏や真言などの)教えを並べることは、后が二人の国王を夫とするようなものであり、また、后が臣下に密かに嫁ぐようなもので、災いの元です。 正法時代や像法時代に此の法門を弘めなかったのは、余の経(に具わる功徳)を失わないためです。しかし、末法の今日は余経も法華経も無益・無意味です。ただ南無妙法蓮華経だけなのです。このように申し出すのも私個人の考えではありません。釈迦・多宝仏・十方の諸仏・地涌千界のお計らいです。この南無妙法蓮華経に余事を交えることは甚だしい誤りです。日が昇れば灯火は不要になり、雨の前にして露は役に立ちません。嬰児を乳以外のもので育てることができるでしょうか。良薬にさらに薬を加えることはありません。此の女人はこのようなことを知った上ではなく、自ずから南無妙法蓮華経の教えにめぐり会い、修行を全うされております。尊いことです。貴いことです。


【語句の意味】

○「なかなか」=副詞の「なかなかに」が転じたもの。中途半端で、どっちつかずのさま(日本語大辞典)。中途はんぱな状態で、かえってよくないという感じに用いることが多い(全訳古語辞典)。大聖人の弟子の中にも我見の強く、大聖人の御教示を素直に信ずることができずに、天台や爾前権教に執着する者がいたことが知れる。

○「南無妙法蓮華経と申すは法華経の中の肝心」=『六難九易抄』には、「南無妙法蓮華経の題目の内には一部八巻・二十八品・六万九千三百八十四の文字一字ももれずかけずおさめて候(乃至)法華経一部の肝心は南無妙法蓮華経の題目にて候」(一二四三頁)とある。 ここでは、法華経は六万九千三百八十四文字あるが、悉く南無妙法蓮華経に収まっており、南無妙法蓮華経は法華経の肝心である。肝心の意味は、肝臓と心臓が人体にとって最も大切であり、欠かすことのできない臓器であることから、転じて、重要である、ここに尽きる、等で用いられる。また、『経王殿御返事』には、「日蓮がたましひをすみにそめながしてかきて候ぞ、信じさせ給へ。仏の御意は法華経なり。日蓮がたましひは南無妙法蓮華経にすぎたるはなし」(六五八頁)とある。ここで、釈尊がインドに出現された目的は法華経を説くことにあり、日蓮大聖人が末法に御出現されたのは、南無妙法蓮華経の御本尊を顕すことである、と述べられ、釈尊と大聖人、法華経と南無妙法蓮華経についての関係性を御教示になる。

○余経を失はじがためなり=余経とは法華経以外の経のことで、阿弥陀経や大日経や般若心経などの権教(仮りの教え)のことを指す。ここで示されるように、正法や像法に生を受けた衆生にとっては、権教であっても利益を受けることができたのである。換言すれば、そこで、あえて法華経を弘めることはしなかった、との意。しかし、末法に生を受けた私たちにとっては、利益を受けるどころか、権教の修行をすることは、法華経の寿量品に、「誤服毒薬」と説かれるように、誤った服用はかえって苦しみを増すことになる。

○「せんなし」=役に立たない。無意味である。

○「わたくしの計らひにはあらず」=前文の「但南無妙法蓮華経なるべし」と仰せになるのは、経文にあることで日蓮が我見をもって云っているのではない、との意。

○「釈迦」=釈迦牟尼のこと。古代インドの釈迦族の生まれであることからこのように呼ばれる。釈迦如来、釈迦仏ともいわれる。ちなみに如来は仏の十号の一つ。「如来・応供・正遍知・明行足・善逝・世間解・無上士・調御丈夫・天人師・仏世尊」の十種。

○「多宝」=多宝如来のこと。法華経見宝塔品第十一に説かれる東方宝浄世界の仏のこと。東方宝浄世界の仏ではあるが、菩薩行の時に、何れのところにあっても、法華経が真実であることを証明する誓願を立てている。そこで、釈尊が霊鷲山で法華経を説いた時、「釈尊の説かれることは真実です」と証明するために出現した。

○「十方の諸仏」=東・西・南・北の四土と、東北・東南・西北・西南の四維に上下の二方を合わせた十方世界の仏のこと。ここでは、全ての仏の意。日寛上人は『観心本尊抄』文段で「諸仏諸経の能生の根源にして諸仏諸経の帰趣せらるる処なり」と仰せになり、これら十方の諸仏も、文底下種の大御本尊から生じたことを御指南されている。

○「地涌千界」=地涌の菩薩のこと。法華経従地涌出品第十五で説かれる本化の菩薩。大地から涌出したことから地涌といわれ、千世界の大地の微塵ほどの数であったので、地涌千界と呼ばれる。末法に南無妙法蓮華経と弘通する菩薩で、その上首が上行菩薩である。この上行菩薩について、日寛上人は『文底秘沈抄』で、「本地は自受用身・垂迹は上行菩薩・顕本は日蓮なり」と仰せである。意は、「本来の姿は、久遠の昔には自受用報身如来という御本仏であり、法華経が説かれたインドでは上行菩薩として出現され、今末法では日蓮という御名でそのお立場を明らかにされている」ということです。

○「ゆゝしき」=程度が甚だしいこと。忌まわしい、空恐ろしい。口に出すのも恐れ多くてはばかられる等の意味がある。

○「ひが事」=僻事・心得違い、誤ったこと等。これらから、「ゆゆしきひが事」は、最も大きな誤り、間違ったことの意となる。



自我偈

汝等有智者 勿於此生疑 当断令永尽 仏語実不虚 如医善方便 為治狂子故 実在而言死 無能説虚妄 我亦為世父 救諸苦患者 為凡夫顛倒 実在而言滅

【書き下し文】

汝等智有らん者 此に於て疑を生ずること勿れ 当に断じて永く尽きしむべし 仏語は実にして虚しからず 医の善き方便をもって 狂子を治せんが為の故に 実には在れども而も死すと言うに 能く虚妄と説くもの無きが如く 我も亦為れ世の父 諸の苦患を救う者なり 凡夫の顛倒せるを為て 実には在れども而も滅すと言う。


【現代語訳】

 貴方たちのような智慧のある者は、此処において疑いの心を生じてはなりません。疑いの心を断ち、そのような心が永久に起こらないようにすべきです。仏の言葉は真実であり虚偽の言葉ではありません。医師(仏)がすぐれた仮りの治療法(教え)によって、本心を失った子供を治療するために 実際には生きているのに亡くなったといいました。しかし、誰もその偽り事を言い立てることはありませんでした。
同じように、私もまたこの世の中の全ての人々の父であって、様々な苦しみや患いから救う者です。凡夫は心がひっくり返っているために、本当は入滅したのではありませんが、入滅したというのです。


【講義】

 「汝等有智者 勿於此生疑」とあります。ここで、「智慧のある者たちよ」と仏様は呼びかけて下さいます。そもそも、法華経を読むことが出来る人は、智慧のある人なのです。智慧のない人は法華経を読むどころか手に取ることも出来ないのです。だから仏様は、法華経を読む私たちに対して、「智慧のある者たちよ」と仰せになるのです。ただし、ここで仰せの智慧は、「あの人は頭がいい。勉強がよくできる」というような一般的な知恵ではありません。もっと素晴らしいものなのです。それは、物事の本質を明らかにし、善悪を見極めることのできる力のことです。有り難いことではありませんか。嬉しくなってしまいますね。このように仏様から仰せいただいて。

 ですから、なおさら、仏様のお言葉を、「疑ってはなりません」となるのです。つまり、私たちは仏様から絶対の信頼をいただいているのですから、仏様の期待に応えなければなりませんね。

 日顕上人は、この「疑う」ということについて、世間的な、「疑い」と仏法上の、「疑い」の二通りを挙げて、「世間的な疑いは、例えばニュートンが万有引力を発見したきっかけとなったといわれる、リンゴが落ちるの見て疑問を抱き、それが発見の契機となったように、疑問を解決することによって私たちの心に新しい認識が開け人生を豊かにすることになる」と世間的な疑問、疑いについて、それ自体は悪いものではない、と御指南をされております。一方の仏法上の疑いは、「煩悩から生ずるものであり、果てしない疑いにより人生を迷路の中にさまよわせるものである」と仰せです。さらに、「自己に対する疑い、法に対する疑い、仏に対する疑い」の三種をあげられ、この寿量品の「疑うことなかれ」とは、仏を疑ってはならない、という意であると仰せです。

 申すまでもありませんが、この煩悩から生ずる疑いは、仏様の教えを素直に信じる以外には解決の道はありません。したがて、私たちが御本尊様に朝夕唱題を重ね、折伏を行ずる修行は、煩悩から起こる疑いを晴らし、人生を誤らない功徳として顕われるのである、と確信を強く持つことが肝心です。「盲信」を指摘するむきもありますが、基本的な立場が違います。だから「疑うなかれ」の仰せを「盲信」とは言いません。

 勤行のおりに、「汝等有智者 勿於此生疑」と読むときには、仏様から、「私のいうことを信じなさい」といっていただいている自分を思って下さい。「私の言うことを信じなさい」。仏様が信頼して、このようなお言葉をかけて下さっていることを。

 まず信ずること、寿量品の長行でも「汝等当に、如来の誠諦の語を信解すべし」というのがありましたね。「誠諦」の誠はまこと、諦はつまびらか、あきらかの意で、誠諦とは、真実ということでしたね。つまり、仏様は、「私のいうことをあなた達は信じなさい。そうすれば理解することが出来ます」と仰せになったのです。ここでの「疑ってはなりません」と同じ意味ですね。

 ここで説かれる「如医善方便」は、壽量品の「良医の譬え」を指します。誤って飲んだ薬(念仏や真言の教え)の副作用で、本心を失ったり、地の上を転げ回って苦しんでいる子供を救うために、医師であり父親(仏)は亡くなったのではないけれども亡くなったとの方便を用いて、子供の本心を取り戻したことが説かれておりました。しかし、この方便は衆生を導くための仮りの教えであり、真実の教えは「法華経である」ことが説かれていました。ここで、再度そのことを説かれ、法華経こそが私たちを幸せに導く真実の教えであることを示されるのです。

 私たちは、過去世の深い縁により、過去世の貴い修行により、法華経の南無妙法蓮華経を信じるばかりか周りの人たちにも勧め信仰に励むことが叶っております。この因縁を大切にして、さらに功徳を受けてまいりましょう。今月の二十八日は「立宗宣言」の月です。皆さまのご精進をお祈りいたします。
                                                         以上

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