日蓮大聖人御書拝読と御法話

平成26年5月 日蓮大聖人御報恩御講拝読御書

祈祷抄

祈祷抄(平成新編御書六二五頁)

祈祷抄 (御書・六二五頁)

 仏、法華経をとかせ給ひて年数二千二百余年なり。人間こそ寿も短き故に、仏をも見奉り候人も侍らね。天上は日数は永く寿も長ければ、併ら仏をおがみ法華経を聴聞せる天人かぎり多くおはするなり。人間の五十年は四王天の一日一夜なり。此の一日一夜をはじめとして三十日は一月、十二月は一年にして五百歳なり。されば人間の二千二百余年は四王天の四十四日なり。されば日月並びに毘沙門天王は仏におくれたてまつりて四十四日、いまだ二月にたらず。帝釈・梵天なんどは仏におくれ奉りて一月一時にもすぎず。わずかの間にいかでか仏前の御誓ひ、並びに自身成仏の御経の恩をばわすれて、法華経の行者をば捨てさせ給ふべきなんど思ひつらぬればたのもしき事なり。
 されば、法華経の行者の祈る祈りは、響の音に応ずるがごとし。影の体にそえるがごとし。すめる水に月のうつるがごとし。方諸の水をまねくがごとし。磁石の鉄をすうがごとし。琥珀の塵をとるがごとし。あきらかなる鏡の物の色をうかぶるがごとし。


【現代語訳】

 仏が法華経を説かれて二千二百余年になります。人間の寿命は短いから仏にお目にかかった者はおりません。しかし、天上界では日数も永く寿命も長いので、仏に拝謁して法華経を聴聞した天人は限りないほどおられます。人間の五十年は四天王の一日一夜にあたります。この一日一夜の長さをはじめ、三十日を一ヶ月、十二ヶ月を一年、その一年が五百歳となります。そのようにして数えますと、二千二百余年は四十四日ということになります。そういたしますと、帝釈天や大梵天等は仏が亡くなられてから一月もたっておりません。したがいまして、仏の前で法華経の行者を守ることをお誓いしたことを、自身を成仏に導いて下さった法華経の御恩を忘れ、法華経の行者を見捨てるようなことはないと思えば、頼もしい限りです。

 そのようなことからいえることは、 法華経の行者の祈りは必ず叶う、ということです。それを例えていえば、鐘は音の大小に応じて音が出るようなものです。人の影は体の形の通りであり、体のありのままの姿が影となって現れます。波がたっていない静かな水面には月が映るようなものです。方諸が水を招くようなものです。磁石が鉄をすいつけるようなものです。琥珀が塵を取り除くようなものです。よく磨かれた鏡には、物の色が鮮やかに映るようなものです。


『祈祷抄』は文永九年(一二七二年)、佐渡在島中に認められた御書です。最蓮房に与えられたとされております。内容は、大聖人様が、最蓮房から御法門についての質問に答えられたものです。御書の最初に、「問うて云はく、華厳宗・法相宗・三論宗・小乗の三宗・真言宗・天台宗の祈りをなさんにいづれかしるしあるべきや。答へて云はく、仏説なればいづれも一往は祈りとなるべし」と述べられておりますように、諸経諸宗の祈であっても、一往は祈りとなる、とされます。しかし、続いて、「但法華経をもていのらむ祈りは必ず祈りとなるべし」と、法華経こそが真実の祈りであることをおおせです。

さらに、「念仏宗や禅宗、真言宗等の、諸経諸宗は、真実の教えではない権教・不成仏の法であり、それを元にして修行をすることは、無間地獄に堕ちることになる。またその教えを弘める者たちは謗法の者であり、それらを頼って祈っても叶うはずはない」と破折をされております。

本日拝読の御文の先に、
「御悟りをば法華経と説きをかせ給へば、此の経の文字は即釈迦如来の御魂なり。一々の文字は仏の御魂なれば、此の経を行ぜん人をば釈迦如来我が御眼の如くまぼり給ふべし。人の身に影のそへるがごとくそはせ給ふらん。いかでか祈りとならせ給はざるべき」 (御書・ 六二四頁)
とありますように、法華経こ祈りを叶える真実の教えであることが説かれております。この部分を現代語に訳しますと、
「釈尊自ら一代のお悟りは法華経である、と説き置かれたのですから、この法華経は釈尊の御魂です。また、経文の一字一字は仏の御魂ですから、この法華経を修行する人を、釈迦如来は我が御眼のように大切に守って下さるのです。私たちの身体に影の付き随うようにして、常に私たちを守もる、とのことですから、法華経を信仰する私たちの祈りが叶わぬ筈はありません」となります。

この御文を、平成の私たちの信心で拝すれば、御本尊様の偉大なお力を明かされた御文であるといえます。御本尊様に具わる、「仏力」と「法力」を信じてお題目を唱えるならば、どのような困難でも乗り越えて行けると励まして下さるのです。

『一生成仏抄』には、仏力と法力にあわせて、私たちに具わっている「信力」と「行力」について述べられております。
「迷ふ時は衆生と名づけ、悟る時をば仏と名づけたり。譬へば闇鏡も磨きぬれば玉と見ゆるが如し。只今も一念無明の迷心は磨かざる鏡なり。是を磨かば必ず法性真如の明鏡と成るべし。深く信心を発こして、日夜朝暮に又懈らず磨くべし。何様にしてか磨くべき、只南無妙法蓮華経と唱へたてまつるを、是をみがくとは云ふなり」(御書・四六)
現代語の訳をいたしますと、
「迷う時を衆生と名付け、悟る時を仏と名付けます。このことを鏡に例えますと、曇った鏡が迷える衆生であり、磨かれた鏡は悟った仏であり、玉のように見えるのと同じです。私たちの生命をを覆い隠している、無明という迷いの心は、磨かない鏡のようなものです。しかし心配はいりません。曇った鏡であっても磨くことで、法性真如という本来私たちに具わっている真実不変の姿(仏)を映し出す明らかな鏡となります。したがって、深く信心をおこして日夜朝暮に怠らずに磨くことです。どのようにして磨くといえば、ただ南無妙法蓮華経と唱えることが鏡を磨くことです」


○御題目を唱える時のポイント

このように、曇った鏡を磨いて良く映る鏡にするために、つまり、迷いの心を悟りの心、悩みの生活から明るく楽しい生活に変えるには、南無妙法蓮華経と御題目を唱えることであると教えて下さいます。また、次ぎに挙げる『一生成仏抄』では、御題目を唱える時の心構えとして、
「薬王菩薩・薬上菩薩・観音・勢至等の菩薩は正像二千年の御使ひなり。此等の菩薩達の御番は早過ぎたれば、上古の様に利生あるまじきなり。されば当世の祈りを御覧ぜよ、一切叶はざる者なり。末法今の世の番衆は上行・無辺行等にてをはしますなり。此等を能く能く明らめ信じてこそ、法の験も仏菩薩の利生も有るべしとは見えたれ。譬へばよき火打とよき石のかどとよきほくちと此の三つ寄り合ひて火を用ゆるなり。祈りも又是くの如し。よき師とよき檀那とよき法と、此の三つ寄り合ひて祈りを成就し、国土の大難をも払ふべき者なり。(御書・一三一四頁)
と教えて下さっております。意訳をいたしますと、「薬王菩薩や薬上菩薩や観音菩薩や勢至菩薩達は正法と像法の菩薩であり、末法における仏の使いではありません。これらの菩薩達の役目は終わりましたので、昔のように御利益はありません。ですから、現在これらの菩薩達を頼りにして祈っても、一切叶わないのです。末法の今、私たちの頼りとなるのは上行菩薩様や浄行菩薩様方です。この筋道をあきらかにして信ずることこそ、法の効能も仏菩薩からの利益も顕わるのです。譬ば、よき火打とよき石のかどと、よきほくちが合わさって火を点けることが出来るように、私たちの祈りもこれと同じです。それは、よき師と、よき檀那と、よき法の三つが寄り合って祈りをなす時には、国土の大難をも払うことができるのです」

これは、南無妙法蓮華経と御題目を唱える私たちに大きな利益が具わることを教えて下さる御文です。御利益のある、願いの叶う御題目は、大聖人様と、大聖人様よりの血脈を御所持遊ばされる、総本山の御法主上人を「よき師」と仰ぎ、末法の修行である折伏行を表にして、素直で正直な信仰に励む「よき檀那」の立場を守り、「よき法」である、文底独一本門戒壇の大御本尊様を持つことですから、間違いはありません。反対に、欠かさずに勤行をしても、この三つが具わらない創価学会のような信仰では功徳が出ないことに注意しなくてはなりません。また、功徳と思っていても、それは本当の功徳ではないことを『祈祷抄』で教えて下さっております。

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日蓮正宗向陽山佛乗寺