日蓮大聖人御書拝読と御法話

平成26年8月1日 永代経

白米一俵御書

☆【観心の法門】 → 【成仏の教え】 → 【心ゆたかに日々を過ごすための修行】 → 【満ち足りた心】

白米一俵御書(平成新編御書一五四四頁)
弘安三年 五九歳

白米一俵御書 (御書・一五四四頁)

たゞし仏になり候事は、凡夫は志ざしと申す文字を心へて仏になり候なり。志ざしと申すはなに事ぞと、委細にかんがへて候へば、観心の法門なり。観心の法門と申すはなに事ぞとたづね候へば、たゞ一つきて候衣を法華経にまいらせ候が、身のかわをはぐにて候ぞ。うへたるよに、これはなしては、けうの命をつぐべき物もなきに、たゞひとつ候ごれうを仏にまいらせ候が、身命を仏にまいらせ候にて候ぞ。これは薬王のひぢをやき、雪山童子の身を鬼にたびて候にもあいをとらぬ功徳にて候へば、聖人の御ためには事供やう、凡夫のためには理くやう、止観の第七の観心の檀はら蜜と申す法門なり


【通解】

凡夫が仏に成る、ということは「志」という文字を心得ることです。ではその志とはどのようなものであるか、と委しく考えてみますと、「観心の法門」です。さらにこの観心の法門について深く考察をすれば、ただ一枚しか持っていない衣服を法華経のために御供養することが、過去の楽法梵志(ぎょうぼうぼんじ)が身の皮を剥いで仏の教えを書きとどめた修行と同じです。また、飢饉の世に、これを供養してしまえば今日の命をつぐ物もない時に、ただ一つの食物を仏に御供養をする修行は、我が身命を仏に奉ったことになるのです。
これは薬王菩薩が臂を焼きその灯りを御供養したことや、雪山童子が身を鬼に与え教えを求めた修行にも劣らないもので、大きな功徳を受けられるのです。この御供養は、聖人のためには事供養、凡夫のためには理供養であるというのが、天台大師が摩訶止観巻七に明かされる観心の修行のなかの、「檀波羅密」という法門なのです。


このことをわかりやすくすれば、次のようになります。
私たちは「こころざし」があれば仏に成ることが叶う。
「こころざし」とは何かといえば、「観心の法門」である。
「観心の法門」とは何かといえば、「身命を仏に供養する」ことである。
「身命を仏に供養する」ことを、聖人では「事供養」といい凡夫には「理供養」という。
「事供養」とは、聖人の修行をいい、楽法梵志や雪山童子、薬王菩薩のように、身命を法のために捧げることである。
「理供養」とは、私たち凡夫の修行であり、お茶碗一杯しかないご飯を、仏様に御供養する修行であり「壇波羅密」という。
「壇波羅密」とは、自らの持ち物を周りに施す修行である。


○「壇波羅密」大智度論には、「壇とは布施のことである。『善い思い』を実践することを壇という。また『善い思い』から起こった身と口の行為も壇である。さらに、仏と信と財の三つが和合したときに、仏の教えを弘めようとする心が起こり、この心が慳貪を打ち破ることになる。これを壇という」とあります。

摩訶止観では、この大智度論を受けて「壇は財と法を布施することであり、それによって自らも周りも共に益する。それは執着を破ることである」と説かれ、さらに「壇に事(法)と理(心)のあることを述べ、共に執着を打ち破るためには法を説くこと」と述べています。つまり、私たちの折伏は、聖人の修行に等しいことなのです。貴く有り難い事ではありませんか。

私たちの立場で考えると、折伏こそ、執着を打ち破るためには、何ものにも左右されない自由な心を獲得する唯一の法であることを教えていると拝することができます。

大聖人様が、この御文で、「私たち凡夫は、志があれば仏になれる」と教えて下さいます。先月の「願兼於業」では、ここにいる私たちは、本来であれば過去世の清浄な業の報を受けることができているにもかかわらず、御本尊様のお使いをする、という誓願をもって、願ってここに生まれていることを学びました。この世の中から、争いをなくし、一人ひとりが安心して暮らせる社会を築くために、願って生まれてきたことを忘れてはならないのです。この願いが「私たちのこころざし」です。

御隠尊日顕上人は、『御義口伝』の、
「大願とは法華弘通なり」
の御文を引かれ、「悪世に生まれるというのは、過去の大願によるのである(中略)大願があるからこの悪世の国土に生まれてくる、その大願とは法華を弘通する日蓮等であるとお示しであります」(大白法 五一九号)と教えて下さっております。

こころざしを高く掲げて、自他共の幸せを願い行動をするときに、熱い心が湧き上がってまいります。ただし、心の熱さと気温の暑さは反比例し、折伏の時には清々しい心が得られることは皆さま経験済みです。ただ、体調にはご留意下さい。御精進をお祈りいたします。

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日蓮正宗向陽山佛乗寺