日蓮大聖人御書拝読と御法話

平成26年8月3日 広布唱題会拝読御書

撰時抄愚記

『撰時抄愚記』(総本山二十六世日寛上人が撰時抄をご講義されたもの)
行者当に知るべし、信心ありと雖も、唱題の行なくんば、譬えば盲(め)しいずして跛(あしなえ)たるが如し。唱題ありと雖も、若し信心なくんば、譬えば跛(あしなえ)たらずして盲(め)しいたるが如し。
若し信行具足するは猶二つながら全きが如し。百論の「盲破の譬」これを思い見るべし。故に能く信心の目を開き、唱題修行の足を運ぶべし。若し爾らば能く通じて寂光清涼地に到らんこと、何ぞこれを疑うべけんや。

〔意訳〕

富士大石寺の信仰者であるならば心に留めるべき事があります。それは、御本尊を信ずる心があったとしても、唱題に励む修行のない者は、たとえていえば、目が見えるにもかかわらず、歩くことが出来ないような者です。また、御本尊を信ずる心がない者は、たとえていえば、足が丈夫でも、目が見えずに歩くことが出来ないような者です。
御本尊を信ずる心と、唱題に励む修行の両方を具えるならば、目も足もそれぞれが十分が役目を果たすことができるように、未来をも見通し、どこにでも自由に行き来できる功徳を受けられるのです。百論の「目の不自由な人と、足の不自由な人の譬え」を思うべきです、ゆえに、よく信心の目を開き、唱題修行の場に足を運ぶべきです。そのように修行に励むならば、仏の智恵に照らされた清浄で涼やかな池に到達することが出来ます。このことを信じて励みましょう。


〔語句の意味〕

【百論・ひゃくろん】
インドの提婆が著し、鳩摩羅什が漢訳したもので、外道(婆羅門)の世界観等を破折して仏法の正しいことを明かしている。

【盲破の譬・もうはのたとえ】
智恵のない師を盲にたとえ、実践のない弟子を跛にたとえている。

【清涼池】
法華玄義等に説かれる、智目行足・到清涼地の文。「ちもくぎょうそく・とうしょうりょうち」と読む。智慧を目に譬え、修行を足に譬える。この両方を兼備することにより、清涼池に到達するという意。清涼の地とは成仏の境地のこと。

【池目行足】
玄義巻二上には「智は行の本たり、智目に因って行足を起す。目足及び境の三法を乗と為し、是の乗に乗じて清涼池に入る」とある。
意味は、信仰の対象である境(御本尊)と、衆生の智慧(智)と、その智慧によって起こす修行(行)の三法が具足して成仏の境地(位)に到達すると言うこと。


〔御文のポイント〕

目と足を、信心と唱題にたとえて、両方が具わることで、叶わない願いはない、消滅しない罪はないと教えて下さっております。信じて進みましょう。

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日蓮正宗向陽山佛乗寺