日蓮大聖人御書拝読と御法話

平成26年10月 日蓮大聖人御報恩御講拝読御書

日厳尼御前御返事

《叶も叶わぬも御信心》

日厳尼御前御返事(平成新編御書一五一九頁)
弘安三年一一月二九日 五九歳

日厳尼御前御返事 (御書・一五一九頁)

弘安三年十一月八日、尼日厳の立て申す立願の願書、並びに御布施の銭一貫文、又たふかたびら一つ、法華経の御宝前並びに日月天に申し上げ候ひ畢んぬ。其の上は私に計り申すに及ばず候。叶ひ叶はぬは御信心により候べし。全く日蓮がとがにあらず。水すめば月うつる、風ふけば木ゆるぐごとく、みなの御心は水のごとし。信のよはきはにごるがごとし。信心のいさぎよきはすめるがごとし。木は道理のごとし、風のゆるがすは経文をよむがごとしとをぼしめせ。恐々。

  十一月二十九日               日蓮 花押

 日厳尼御前御返事


日厳尼=総本山五十九世日亨上人の御教示では、日興上人の叔母の夫で、富士に住していた橋六郎兵衛入道の所縁、とあります。

当抄は、日厳尼が願い事を書いた書面と共に大聖人に御供養の品々をお送りしたご返事であることがわかります。

大聖人は日厳尼の願い出を受け、御供養の品々を御本尊様に御供えして、願いが叶うように読経唱題をして下さいました。

それとともに、願いを叶えるのは貴女の御信心が大切です、と御教示なさいます。


【現代語訳】

弘安三年十一月八日に日厳尼が立てられた願が書かれた書面と、御供養の錢一貫文ならびに樹皮の繊維を紡いで織った帷子を一つ、御本尊様の御宝前に御供えして尼御前の願いが叶うように御祈念を申し上げました。

日蓮だけが祈念をしても願いを叶えることはできません。貴女の願いが叶うのも叶わないのも貴女ご自身の御信心によります。願いが叶わなくとも日蓮の失ではありません。

例えれば、水が澄めば月が映るように、風が吹けば木が揺れるように御信心が強盛であれば功徳も顕わます。信心が弱ければ水が濁り月は映りません。潔い信心は水が澄むのと同じです。風が吹いて木が揺れるのは因果の道理であり、風が木を揺るがすことは私たちが経文を読み経文に説かれるように折伏に励むことであると心得なさい。



【ポイント】
「法華経の御宝前並びに日月天に申し上げ候ひ畢んぬ」
ここに「法華経の御宝前」と仰せになっていることが大切なところです。このことについては、一月の御報恩御講でも次のように申し上げました。

「法華経の御宝前=南無妙法蓮華経の御本尊様を御安置し申し上げた所。ここで法華経と仰せになるのは、法華経二十八品すべてを指すのではなく、法華経・寿量品の文の底に秘し沈められた南無妙法蓮華経のこと。その南無妙法蓮華経の曼荼羅を御本尊として御安置した所を、「法華経の御宝前」と仰せになられた。ちなみに、「妙法蓮華経の御宝前」とのお言葉は、弘安二年(一二七九年)五月二日の『新池殿御消息』(御書・一三六三頁)に、また「法華経の御宝前」という御言葉は、弘安二年九月十五日の『四条金吾殿御返事』(御書・一三九〇頁)にはじめて見える。大御本尊を建立されたのが弘安二年十月十二日であることからすれば、この時期からこのように仰せになられたことは偶然ではないと思われる。なお、日興上人は「法華聖人の御宝前」と仰せになられているが、これは日蓮大聖人の御宝前、という意味である。このことから、日興上人は、大聖人を人法一箇の仏様と拝していたことが明らかである。

なお、御書を拝しますと、建治二年(一二七六年)三月の富木常忍に与えた『忘持経事』に「釈尊の御宝前」というお言葉があります。これは建治年中のことであり、未だ御本懐を明らかにされる以前ですからこのようなお言葉になったものと拝されます。
「其の上は私に計り申すに及ばず候」
大聖人様が御祈念して下さったことに安心するのではなく、日厳尼もともに強盛に励むことが大切である旨を御指南下さるお言葉です。

『法華初心成仏抄』で、
「祈りも又是くの如し。よき師とよき檀那とよき法と、此の三つ寄り合ひて祈りを成就し、国土の大難をも払ふべき者なり」(御書・一三一四頁)
と仰せになり、よき師のお立場である大聖人様と、よき法である南無妙法蓮華経の御本尊様と、強盛な信仰に励むよき檀那の三つがそろえば叶わない願いはない、と教えて下さっていることと全く同じ意味です。ゆえに、
叶ひ叶はぬは御信心により候べし。全く日蓮がとがにあらず。
と述べられるのです。南無妙法蓮華経と日蓮も唱へて御祈念を申し上げているのですから、貴女もより強盛に願ってまいりましょう、との励ましを賜った日厳尼がさらに精進を重ねたことは疑いありません。

次の、
水すめば月うつる、風ふけば木ゆるぐごとく、みなの御心は水のごとし。信のよはきはにごるがごとし。信心のいさぎよきはすめるがごとし。木は道理のごとし、風のゆるがすは経文をよむがごとしとをぼしめせ。
の箇所ではわかりやすい例えをもって、信心と功徳の筋道を示されます。「水」と「風」を私たち一人ひとりの信心に、また「月うつる」と「木ゆるぐ」が信心によって受けられる功徳です。そして「いさぎよい信心」に立てば功徳は必ず顕れる、と励まして下さるのです。


「いさぎよい信心」
「いさぎよい」の漢字は「潔い」、意味は清らか・純粋・思い切りがよい等です。つまり、大聖人様の仰せのままに、思い切って執着する心を打ち破り、純粋な信仰に励むことが願いを叶える方法なのです。

さらに、
「木は道理のごとし、風のゆるがすは経文を読むごとし」
と述べられます。風が吹けば木が揺れます。このことを「木は道理のごとし」と仰せになります。そして、私たちが法華経を読み法華経に説かれるように修行に励むことで願いが叶えられるのは、風と木の関係と同じであり、この道理は変わるものではない、と御教示下さっております。

「経文を読む」
とのお言葉にも重要な意味があります。それは、同じ様の法華経を読むといっても、口で読む・心で読む・身で読むの三種があるからです。身口意の三業読誦といいますが、『土篭御書』では、
「法華経を余人のよみ候は、口ばかりことばばかりはよめども心はよまず、心はよめども身によまず、色心二法共にあそばされたるこそ貴く候へ」(御書・四八三頁)
と述べられております。ここで「色心二法」、つまり身と心で「経文を読む」ことが功徳を受ける道であることを知らねばなりません。

私たちが日々心掛けている、勤行と唱題、そして大聖人様のお使いをしよう、との実践修行が「経をよむ」ことです。

この御文から、私たちの信仰は「神頼み」的なものではないことがも明らかです。願いを叶えるために、先ず御本尊様に向かい南無妙法蓮華経と御題目を唱えます。それと同時に、私だけが御題目を唱え願いが叶うように、と修行するのではなく、周りの人一人残らず幸せになるように、と願い行動を起こすことです。これが日蓮大聖人が教えて下さる信仰であり、わたしたちの信仰です。

七五〇年前に書き残して下さった御書を、御法主上人の御指南をもとに拝することで、大聖人様のお心を少しですが我が身に受けることができるように感じます。少しでも大聖人様の教えを理解するように努力をすることで、少しだけ仏様に近づくことができるのだと信じます。

不安定な社会であればこそ、筋の通った信仰に励み、自他ともに幸福になることを目指し、精進を重ねましょう。

文責編集部 転載複写等禁止



日蓮正宗向陽山佛乗寺