日蓮大聖人御書拝読と御法話

平成26年11月 日蓮大聖人御報恩御講拝読御書

唱法華題目抄

 先週の土曜日と日曜日に、宗祖日蓮大聖人様の御会式を奉修申し上げました。本年もお陰様で盛大且つ無事であったことは、檀信徒ご一同の、「御題目を唱えることが叶い有り難い。大聖人様のお陰である」との感謝の心が行動となって表れたものであると敬意を表するものです。

 皆さまの御信心に対して、大聖人様がお喜びになり御嘉賞下さったことが、天候からも明らかでした。直前まで雨の予報でしたが、当日はよき天候に恵まれたことがそのあかしです。
 このことからも御参詣なさったお一人おひとりの命に、大きな功徳が積まれたことを確信いたします。

 また、御会式に参詣され折伏の決意を新たにされたことと存じます。その決意のもとで、明年に向かって、明るく・楽しく・朗らかに一歩を踏み出し、より功徳を受けてまいりましょう。
 さらに、本日の御報恩御講を奉修申し上げ、今月も皆さまと共に感謝の心を育むことができました。

 御会式に引き続いての御報恩ですから、ご苦労もあることと拝察いたします。しかし、「仏道修行の志」を固く持ち、強盛な御信心から歩みを運ばれました。功徳が具わらないわけがありません。現世の安穏を願い、来世の善処を信じて寒い季節に向かいますが、共々に励みましょう。

 さて、御書を拝読致します。現代語と語句の解説を順にご覧頂ければおおよそのことをご理解いただけると思います。

《行学二道の御聖訓》

諸法実相抄 (御書・六六八頁)

行学の二道をはげみ候べし。行学たへなば仏法はあるべからず。我もいたし人をも教化候へ。行学は信心よりをこるべく候。力あらば一文一句なりともかたらせ給ふべし。

唱法華題目抄(平成新編御書二三一頁)
文応元年五月二八日 三九歳

唱法華題目抄 (御書・二三一頁)

末代には善無き者は多く善有る者は少なし。故に悪道に堕せん事疑ひ無し。同じくは法華経を強ひて説き聞かせて毒鼓の縁と成すべきか。然れば法華経を説いて謗縁を結ぶべき時節なる事諍ひ無き者をや。


〔現代語訳〕

末代には善のない者が多く、善のある者は少ないのです。ゆえに悪道に堕ちることは疑いありません。そこで、同じように悪道に堕ちるのであれば、法華経を強く説き聞かせ、毒鼓の縁とするべきです。このように考えると、法華経を説いて謗縁を結ぶべき時節であることは争いがありません。


〔語句の意味〕

○末代=末法のこと。インドで釈尊が入滅されて二千年が経過した後の世を末法といいます。我が国の時代区分では、平安時代の末期、永承七年(一〇五二年)が末法の始めにあたっているとされます。ちなみに、釈尊の滅後一千年を正法時代、二千年を像法時代といい、これらの時代に生きた人たちは、釈尊の教えで悟りを得られました。

○善無き者=本未有善のことで本未(もといま)だ善あらず、と読みます。仏に成るための善因がない人のことです。

○善有る者=本已有善のことで、本已(もとすで)に善あり、と読みます。仏に成る善因をが有るひとのことです。

○善=仏乗種(ぶつじょうしゅ)のことをいいます。仏に成る善因で、私たちの日蓮正宗の信仰では、久遠元初の本因妙の妙法のことです。末法に大聖人様が御出現になり、文底下種の南無妙法蓮華経として説き明かされました。

○悪道に堕す=悪道とは私たち衆生が、過去世や現世で正法を信ぜずに、法華経の悪口を言ったり、法華経の信仰を妨害したりする罪によって受ける苦しみの世界やその状態のことをいいます。堕ちるは、落とす、落ちるのことです。法華経を誹謗する罪の大きさを説かれているところです。

○同じくは=同じように悪道に堕ちるならば、との意になります。

○強いて説き聞かせて=強いては、無理に、無理やりに、あえて、おして、強く等の意味があります。すなわち折伏を思い起こしていただくと、「強いて」の意味がおわかりになると思います。ただ、「強」の文字に大聖人様のお心を拝することが大切です。それは、
『善無畏三蔵抄』に仰せの次の御文を拝すると理解されます。
「仮令強言なれども、人をたすくれば実語・軟語なるべし。設ひ軟語なれども、人を損ずるは妄語・強言なり。当世学匠等の法門は、軟語・実語と人々は思し食したれども皆強言・妄語なり。仏の本意たる法華経に背く故なるべし。日蓮が念仏申す者は無間地獄に堕つベし、禅宗・真言宗も又謬りの宗なりなんど申し候は、強言とは思し食すとも実語・軟語なるべし」(御書・四四五頁)
この御を現代語に訳しますと、、
「たとえ強く荒々しく激しい言葉であっても、人を助ける言葉であれば真実の言葉でありそれは優しい言葉となります。反対に優しい言葉のように思えても、人を悪くするのであればうそ偽りの言葉であり、荒々しく激しい言葉となります。多くの人たちは現在の学者たちが説く教えを、優しく真実の言葉のように思っておりますが、すべて強言・妄語なのです。なぜならば仏様の御本意に背く言葉だからです。日蓮が、「念仏を唱える者は無間地獄に堕ちる、禅宗も真言宗も同じく誤った宗旨である、と申すことは、強言と思われるかも知れませんが真実の言葉であり優しい言葉となることを知らねばなりません」
となります。この御文から、折伏は強い言葉であったとしても、優しい心の発露であることがわかります。大聖人様の御言葉ですから、自信を持って折伏に臨みましょう。

○毒鼓の縁=毒鼓は表面に毒薬を塗った鼓のこと。逆縁ともいう。法華経を信じない人たちに法華経の話をして信仰を勧めた時に、反対されるばかりか悪口を言われたりすることが少なくありません。しかし、それによって法華経に縁をすることになり、成仏の功徳を受ける原因となることを毒を塗った鼓にたとえます。涅槃経には、「たとえば人ありて、雑毒薬を以ってこれを用いて太鼓に塗り、大衆の中において、之を撃ちて声を発(いだ)さしむるが如し。心に聞かんと欲すること無しといえども、之を聞けば皆死す。唯一人不横死(ふおうし)の者を除く。是の大乗大般涅槃経もまたまた是の如し。在々処々の諸行の衆中、声を聞く者あれば、あらゆる貪欲(とんよく)・瞋恚(しんに)・愚癡(ぐち)を悉く滅尽する」と説かれております。この経文の意味は、「強い毒薬を太鼓の表面に塗り、人がいる所で太鼓を叩いた時に、聞きたくないと思い耳と塞いでいたとしても、表面に塗った毒薬が飛び散りそれに触れて死んでしまう。涅槃経もこれと同じである。すべての人々がこの経文のことを聞くことで、人々の中にあるすべての貪る心、瞋の心、愚かな心を跡形もなく消し去ることができる」というものです。
この毒鼓の縁は涅槃経に説かれたことですが、大聖人様は
『教機時国抄』で、
「謗法の者に向かっては一向に法華経を説くべし。毒鼓の縁と成さんが為ためなり。例せば不軽菩薩の如し。」(御書 二七〇頁)
と述べられ、末法にあっては法華経を説くことが毒鼓の縁となることを法華経に説かれる常不軽菩薩の例を用いて教えて下さっております。さらに、
『法華初心成仏抄』では、
「とてもかくても法華経を強ひて説き聞かすべし。信ぜん人は仏になるべし、謗ぜん者は毒鼓の縁となって仏になるべきなり」(同 一三一六頁)
と仰せになり、信ずる人ばかりか誹謗する人も仏に成ることができる最高・最強の信仰が法華経であることを教えて下さるのです。
ここで大聖人様が仰せになる「法華経」は身延派や霊友会や立正佼成会がいう法華経ではなく、まして破門された池田創価学会が唱える法華経ではありません。日蓮正宗富士大石寺に七五〇年の間守り伝えられた独一本門の法華経です。下種の法体である三大秘法の南無妙法蓮華経です。そのことを『教行証御書』では、
「比の時は濁悪たる当世の逆謗の二人に、初めて本門の肝心寿量品の南無妙法蓮華経を以て下種と為す」(同 一一〇四頁)
と仰せです。此の時とは末法のことであり、濁世は濁った悪い世の中、そこに生きる逆縁と謗法の二種類の人たちにとって、大聖人様が説き明かされた文底下種の南無妙法蓮華経に縁をすることで初めて成仏の種を植えられたのです。この御文に「初めて・・下種と為す」との記されております。この「初めて」に大切な意義があると拝します。なぜならば、末法の私たちは、大聖人様の説き明かされた教えによって「初めて」幸せになることができるからです。これより先でもなく後でもなく、他の教えでもないことを示されているからです。私たちのまわりにいる、「逆縁の人」、「謗法の人」を救うことができるのは、文底下種の南無妙法蓮華経だけであり、その教えを信じる法華講衆だけであることを心に留め、末法の「魁(さきがけ)」との使命を自覚し、一歩を踏み出しましょう。

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日蓮正宗向陽山佛乗寺