日蓮大聖人御書拝読と御法話

平成26年12月1日 永代経

如来如実知見 三界之相

「如来如実知見・三界之相」

『御義口伝』(御書・一七六七頁

 三界之相とは生老病死なり。本有の生老病死と見れば無有生死なり。生死無ければ退出も無し。唯生死無きに非ざるなり。生死を見て厭離するを迷ひと云ひ始覚と云ふなり。さて本有の生死と知見するを悟りと云ひ本覚と云ふなり。今日蓮等の類南無妙法蓮華経と唱へ奉る時、本有の生死本有の退出と開覚するなり


経文には、
「世界の中において死の力が及ばない処はない」 (法句経)
「生は必ず死に終わる」 ( 同 )
「全ての者は必ず死にいたる」 (スタニパータ・経集)

『生死一大事血脈抄』

 所詮臨終只今にありと解りて、信心を致して南無妙法蓮華経と唱ふる人を「是人命終為千仏授手、令不恐怖不堕悪趣」と説かれて候。(御書・五一三頁)

 相構へ相構へて強盛の大信力を致して、南無妙法蓮華経臨終正念と祈念し給へ。(同・五一五頁)

『兄弟抄』

 なにとなくとも一度の死は一定なり。いろばしあしくて人にわらわれさせ給ふなよ。(御書・九八三頁)

『富木入道殿御返事』

 不軽品に云はく。命限り有り、惜しむべからず。遂に願ふべきは仏国なり云云。(御書・四八八頁)


「絶対な死」これ以上確実なことはない。

 この逃れようのない事実を突きつけられている私たちの人生である故に、「絶対の支え」を求める。そのために、仏は「絶対の対境」、即ち心を向かわせる「的」として、「本尊」を建てられたのである。

 「本尊」とは、根本尊崇・本来的に、根本的に尊いもの、の意であり、絶対の拠り所となるべきものなのだが、
『開目抄』

 諸宗は本尊にまどえり。(御書・五五四頁)
とあるように、不確かなで移ろう私たち衆生の心で、本尊を選ぶのが世間一般の姿である。

『本尊問答抄』

 本尊とは勝れたるを用ふべし。(御書・一二七五頁)
と仰せられ、
『観心本尊抄』

 一閻浮提第一の本尊、此の国に立つべし。(御書・六六一頁)
との御本尊を信受することが仏の心に従った信仰であり、幸せになる唯一の道である。

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