日蓮大聖人御書拝読と御法話

平成27年1月1日 新年勤行会拝読御書

十字御書

十字御書(平成新編御書一五五一頁)
弘安四年一月五日 六〇歳

十字御書 (御書・一五五一頁)

 十字一百まい・かしひとこ給び了んぬ。正月の一日は日のはじめ、月の始め、としのはじめ、春の始め。此をもてなす人は月の西より東をさしてみつがごとく、日の東より西へわたりてあきらかなるがごとく、とくもまさり人にもあいせられ候なり。

 抑地獄と仏とはいづれの所に候ぞとたづね候へば、或は地の下と申す経もあり、或は西方等と申す経も候。しかれども委細にたづね候へば、我等が五尺の身の内に候とみへて候。さもやをぼへ候事は、我等が心の内に父をあなづり、母ををろかにする人は地獄其の人の心の内に候。譬へば蓮のたねの中に花と菓とのみゆるがごとし。仏と申す事も我等が心の内にをはします。譬へば石の中に火あり、珠の中に財のあるがごとし。我等凡夫はまつげのちかきと虚空のとをきとは見候事なし。我等が心の内に仏はをはしましけるを知り候はざりけるぞ。たゞし疑ひある事は、我等は父母の精血変じて人となりて候へば、三毒の根本、淫欲の源なり。いかでか仏はわたらせ給ふべきと疑ひ候へども、又うちかへしうちかへし案じ候へば、其のゆわれもやとをぼへ候。蓮はきよきもの、沼よりいでたり。せんだんはかうばしき物、大地よりをいたり。さくらはをもしろき物、木の中よりさきいづ。やうきひは見めよきもの、下女のはらよりむまれたり。月は山よりいでて山をてらす、わざわいは口より出でて身をやぶる。さいわいは心よりいでて我をかざる。

 今正月の始めに法華経をくやうしまいらせんとをぼしめす御心は、木より花のさき、池より蓮のつぼみ、雪山のせんだんのひらけ、月の始めて出づるなるべし。今日本国の法華経をかたきとして、わざわいを千里の外よりまねき出だせり。此をもってをもうに、今又法華経を信ずる人はさいわいを万里の外よりあつむべし。影は体より生ずるもの、法華経をかたきとする人の国は、体にかげのそうがごとくわざわい来たるべし。法華経を信ずる人はせんだんにかをばしさのそなえたるがごとし。又々申し候べし。

  正月五日                     日蓮  花押

をもんすどのゝ女房御返事


【意訳】

 蒸した餅を百枚、菓子を一かご、確かにお受けいたしました。正月の一日は日の始め、月の始め、年の始め、春の始めです。

 この正月を大切にして修行に励む人は、たとえば、月が西の空から東の空に向かってだんだんと満ちてゆくように、太陽が東から西に向かって大地を照らし出して行くように、徳が増して、まわりの人たちからも切にされるようになります。

 そもそも、地獄(苦しみ)の世界と仏(幸福)の世界はどのようなもので、それがどこにあるのか、と考えてみますに、ある経文には、地獄は大地の下にある、と説かれ、ある経文には、仏の世界は西方の浄土にある、と説かれております。しかし、よくよく経文を拝読しますと、仏の世界も地獄の世界も私たちの身と心の中にあることが明らかです。そのように思えるのは、私たちが心の中で、父親を疎んじたり母親を疎んじたりするのは、地獄がその人の心の中にあるからです。たとえば、蓮の種の中には花と実が同時に備わっているようなもので、仏の心も、私たちの心の中にあるのです。たとえば、石を打ち合わせると火が出るように、珠を磨けば宝物となるようなものです。私たち凡夫には、目のすぐ上にあるまつげや、遠い宇宙のはてを見ることができなように、一番近い自らの心の中に、仏の世界があることに気づいてはおりません。

 ただし、お経文にそのように説かれていたとしても疑いがあります。それは、父母の煩悩をもとにして人として生まれ、貪りや瞋りや癡かな心、あるいはみだらな欲望に支配されている私の身に、どうして仏の世界があるのか、ということです。しかし、よくよく考えてみますと、そのように説かれることも、なるほど、と思えます。その理由は、蓮の花は清浄な美しい花を咲かせますが、根元を見れば濁った泥沼です。栴壇は良い香りの木ですが、不淨とされる大地から芽を出します。桜の花は、冬の間は枯れたような幹の中ありますが、春になるとその幹から花を咲かせます。美女の代名詞ともいえる楊貴妃も、身分の低い母から生まれました。

 月は山に隠されていても、天空に昇ると、今度は隠していた山を照らします。禍は口から出て我が身を破ります。幸いは心から出て我が身を飾ります。

 いま正月にあたって、法華経の御本尊様に御供養をしようと励むお心には、枯れている、と見えた木から花が咲くように、濁った池の中に生じた蓮が清らかなつぼみをつけるように、雪山に栴壇の花が咲くように、月が始めて出て、周囲を明るく照らすように、功徳が備わります。

 現在の日本国中の人々は残念ながら御本尊様を敵のように思っておりまので、わざわいを千里もの遠くから呼び寄せているのです。またこのことから考えてみますと、法華経を信ずる人には、功徳が万里もの遠くから集まってきます。影は体より生まれます。御本尊様を謗る人の住む国は、体から影が生まれるように災いに遭遇するのです。法華経を信ずる人は、香りの良い栴壇にさらに香り増すように、ますます大きな功徳を積むことが叶います。

 この度はこれで失礼してまた申し上げましょう。
 
 正月五日                   日蓮 花押

重須殿女房御返事


十字御書
 正月の一日は日のはじめ、月のはじめ、としのはじめ、春の始め、此をもてなす人は月の西より東をさしてみつがごとく、日の東より西へわたりてあきらかなるがごとく、とく(徳)もまさり、人にも愛せられ候なり、今正月の始めに法華経をくやうしまいらせんとをぼしめす御心は木より花のさき、池より蓮のつぼみ、雪山のせんだんのひらけ、月の始めて出るなるべし。今日本国の法華経をかたきとして、わざわいを千里の外よりまねきよせぬ。此れをもって、おもうに今又法華経を信ずる人はさいわいを万里の外よりあつむべし。影は体より生ずるもの。法華経をかたきとする人の国は体にかげのそうがごとくわざわい来るべし、法華経を信ずる人はせんだんにかをばしさのそなへるがごとし、又又申し候べし。(御書一四九一頁)

 此の御書は十字御書とよばれ御真筆は総本山大石寺にあらせられます。日蓮大聖人が年はわかりませんが、正月の五日の日附けで大石寺の東の方重須殿の奥様に御遣はし遊ばされた御手紙であります。

 御文の御意は何人にも大体わかりますやうに平易に御述べ遊ばされてありますが、しかし少し深く拝察致しますと此の中に大事な義が無尽に包まれてをるのであります。御文によって明らかな通り、新年、正月といふことを称歎遊ばされ、その心を尊重し、その行事を重ずべきを御教訓遊ばされたのであります。

 正月一日は一年のはじめでありますが、此のはじめといふことは物事のはじめであります。一切の旧衣を脱して新規になるのであります。正月には老若男女皆新しい気持に立ち返へるのであります。人間は生れて年を経るに従って環境に左右され、自分の無明の為に種々に悪くなるのでありますが、元本来に戻れば皆善人である訳であります。正月はその元本来に返るのであります。それ故正月を大事大切に考へ此れを尊重する人程元本来に立返ることを喜ぶ人でありまして立派な心掛のよい人が為すところであります。一休が「門松や冥途の旅の一里塚目出たくもあり目出度もなし」といってをりますが此れは人生に於ける邪道であります。それを世間では仏法の悟りを言ひ表はしてをるかの如くいふ人もありますが、それは仏法の正道ではありません。大聖人の御教訓こそ真の仏法であります。御文の後段に正月に法華経を供養せられし功徳を讃嘆遊ばされてをりますが、法華経は久遠元初を説き明かされ無始の境に立ち返へることを教へてあるのであります。恐らく正月を大事に祝ふことは法華経より出たことと思はれます。正月に於て法華経を供養することは是も意義のあることで、正月の行事に魂を入れることになります。功徳、その心構へこそ一切の幸を招きよせる根元であります。

 人間は常に久遠無始の境に住し、三世常住の自己に徹し、年々歳々自己の展開に精進をしなければなりません。その区切りをつけて更に新しく、より更に新しくと進趣してゆくところが新年の意義であります。

 凡夫はそうと知り乍らもなかなかそうは参りません。そのため日蓮大聖人は久遠元初の三大秘法を建立し私共の首にかけて下さったのであります。私共は御本尊を信じ奉って三百六十五日新年の心持ちで暮したいものであります。

昭和二十九年一月 (大日蓮)


 日蓮大聖人様は秋元太郎兵衛という千葉県の印旛郡に住していた信徒に遣わされた、『秋元殿御返事』と名付けられた御書の中で、
「正月は妙の一字のまつりである」
と仰せです。祭りという漢字の同類に、擦(汚れを擦り取る)・察(汚れを取ってよく見る)があります。このことから、日時を定め、祭礼を行うことは、心の中にある汚れを取り除く意味が込められていたと考えられます。

また、「法華題目抄 三六〇頁」では、
「妙は開く義、妙は円満の義、妙は蘇生の義」
と仰せになり、
「蘇生と申すはよみがへる義なり」
と仰せです。

「蘇生の義・よみがえる義」は、生きかえる、失っていた活力を取り戻すことです。妙法の不思議な力はすべてをよみがえらせる大きな功徳があることを教えて下さるお言葉です。

当抄で
「正月の一日は日のはじめ、月の始め、としのはじめ、春の始め。此をもてなす人は月の西より東をさしてみつがごとく、日の東より西へわたりてあきらかなるがごとく、とくもまさり人にもあいせられ候なり」
と仰せになるのも、我が身に積もった汚れを取り除き新しい心を得ることを教えて下さっているのであるといえます。

 正月は一日の始まり、月の始まり、年の始まり、春の始まり、と仰せられ、一切の物事が新しくなり、新たに始められる新年・正月の意義を賛嘆されたお言葉です。

 生まれたときの汚れのない心に立ち帰って、新たな気持ちで進んでいこうと正月を御祝いすることは意義深きものです。

 そもそも法華経は、過去・現在・未来の三世(さんぜ)の生命を説き明かす教えです。日蓮大聖人様は久遠元初を説き明かされて、私たちに久遠元初に立ちかえることを教えて下さいます。久遠元初に立ちかえる、とは、久遠元初の仏様である日蓮大聖人様の教えを信じ、本門戒壇の大御本尊様に南無妙法蓮華経とお題目を唱えることです。本門戒壇の大御本尊様に向かい奉って、南無妙法蓮華経とお題目を唱えることによって、「無明(むみょう)」という生命の中に積もり積もった汚れを取り除き清浄にすることが叶います。
 先づ五節供の次第を案ずるに、妙法蓮華経の五字の次第の祭りなり。正月は妙の一字のまつり、天照太神を歳の神とす。三月三日は法の一字のまつりなり、辰を以て神とす。五月五日は蓮の一字のまつりなり、午を以て神とす。七月七日は華の一字の祭りなり、申を以て神とす。九月九日は経の一字のまつり、戌を以て神とす。

 此くの如く心得て、南無妙法蓮華経と唱へさせ給へ。「現世安穏後生善処」疑ひなかるべし。法華経の行者をば一切の諸天、不退に守護すべき経文分明なり。

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日蓮正宗向陽山佛乗寺