日蓮大聖人御書拝読と御法話

平成27年2月1日 永代経

開会

○開会とは絶対妙であり絶対妙は寛容の意

開会
『三世諸仏総勘文教相廃立』(御書・一四一二頁)

 化他の夢中の法門も寤の本心に備はれる徳用の法門なれば、夢中の教を取りて寤の心に摂むるが故に、四十二年の夢中の化他方便の法門も、妙法蓮華経の寤の心に摂まりて心の外には法無きなり。此を法華経の開会とは云ふなり。譬へば衆流を大海に納むるが如きなり。

〈現代語訳〉

仏が隨他意の上から説かれた仮りの教えも、仏の本心に備わる教えであれば、仮りの教えであっても、本心に摂(おさ)まる。ゆえに、四十二年の間とかれた爾前の教えも、真実を説かれた妙法蓮華経の教えに摂まり、妙法蓮華経以外には法はないのである。このように法華経から一切経を判釈し、法華経に導き入れることを「開会」というのである。爾前の教えを川に、法華経を大海を例えるならば、すべての川が海に流れ込み、大海におさまるようなものである。


○絶対妙
『諸宗問答鈔』 (御書・三二)

 絶待妙と申すは開会の法門にて候なり。此の時は爾前権教とて嫌ひ捨てらるゝ所の教を皆法華の大海におさめ入るゝなり。随って法華の大海に入りぬれば爾前の権教とて嫌はるゝ者無きなり。皆法華の大海の不可思議の徳として、南無妙法蓮華経と云ふ一味にたゝきなしつる間、念仏・戒・真言・禅とて別の名言を呼び出だすべき道理曽て無きなり

〈現代語訳〉

絶対妙とは開会の法門である。開会の時には、成仏の叶わない教えであると嫌われる爾前権教も、全て法華経の教えの中に納め入れられるからである。したがって、法華経の中に入れば、爾前の権教であっても、嫌われるものではない。全ての教えが法華経の不思議な功徳として顕れるのであるから、念仏・律・真言・禅という、別の名号を呼び出す道理は一切なく、全てが南無妙法蓮華経なのである。


○開会は開顕会帰(かいけんえき)の意で、真実の教えを説き明かして、他の一切の教えを帰一させること。
これには、法の開会と人の開会がある。法の開会は全ての法が法華経に帰一すること。人の開会は三乗の衆生である、声聞・縁覚・菩薩を一仏乗に導き入れること。三乗の法華経を説き明かし、それまでに説いた一切を真実の教えである法華経に導き入れること。


○法華経の開会のみが真実の寛容精神を表している。
念仏や真言や禅の教えには「開会」の教えが説かれていない。ゆえに、法然は排除の理論である「捨閉閣抛」を説く。ゆえに、念仏思想を自己中心的であり、本従の師であるはずの釈尊をも排除する教え、と大聖人様は破折されるのである。
寛容とは辞書によれば、心が広くて、よく人の言動を受け入れること。他の罪や欠点などをきびしく責めないこと。また、そのさま。「寛容な態度」。反対語は厳格、狭量・排他的


○仏法は絶対平和主義
『立正安国論』(御書・二四八頁)

 夫釈迦の以前の仏教は其の罪を斬ると雖も、能仁の以後の経説は則ち其の施を止む。然れば則ち四海万邦一切の四衆、其の悪に施さずして皆此の善に帰せば、何なる難か並び起こり何なる災か競ひ来たらん。
能仁は釈尊のこと。能忍とも書く。

『四恩抄』(御書・二六五頁)には
此の世界を娑婆と名づく、娑婆と申すは忍と申す事なり。故に仏をば能忍と名づけたてまつる。
とある。


○「矛と盾」の世界になってはならない。

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