日蓮大聖人御書拝読と御法話

平成27年2月1日 広布唱題会拝読御書

唱法華題目抄

唱法華題目抄(平成新編御書二三〇頁)
文応元年五月二八日 三九歳

唱法華題目抄 (御書二三〇頁)

今法華経は四十余年の諸経を一経に収めて、十方世界の三身円満の諸仏をあつめて、釈迦一仏の分身の諸仏と談ずる故に、一仏一切仏にして妙法の二字に諸仏皆収まれり。故に妙法蓮華経の五字を唱ふる功徳莫大なり。諸仏諸経の題目は法華経の所開なり、妙法は能開なりとしりて法華経の題目を唱ふべし。


 この御書は佐渡以前の御文です。「佐前」と「佐後」と言う言葉を聞いたことがあると思います。「佐前」は佐渡配流以前という意味です。つまり、「発迹顕本」以前ということです。発迹顕本の「迹」は垂迹の迹。迹は仮の姿と言うことです。「発」は開くと言うことですから、発迹とは、仮の姿を開く、と言うことになります。次に、「顕本」とは、本地を顕すことです。本地とは、真実の姿のことです。したがって、「発迹顕本」とは、真実の姿を現された、ということになります。

 釈尊の発迹顕本は、法華経寿量品で、真実は久遠の昔から仏である、と説かれたことを言います。日蓮大聖人様の発迹顕本は、竜の口の首の座です。

 そこで、佐渡ご配流以前は、末法の御本仏としてのお姿は、未だ秘されており、顕本以前と言うことになるのです。そのような理由から、「佐前・佐後」を立て分けて御書を拝することが大切です。

 当御書は、佐渡以前、未だ御本尊様を御図顕あそばされる以前の御指南です。ゆえに、「御本尊様」に向かって唱題をしなさい、とは書かれておりません。そこで、「御題目を唱えることが大切であり、御本尊は何でも構わない」という輩が過去にも現在にもおります。

 しかし、末弟たる私たちがこの御文を、「富士大石寺の奉安堂に御安置される『本門戒壇の大御本尊様』に向かって、『南無妙法蓮華経、南無妙法蓮華経』と唱えること」を御教示である、と拝することが、一生成仏の大功徳を受ける唯一の修行であることを忘れてはなりません。

 御文の意味は、「南無妙法蓮華経の中に、釈尊が説かれた四十余年の全てが収まっている。全ての教えは南無妙法蓮華経から生まれたのであり(法華経の所開)、妙法蓮華経に一切が収まる(妙法は能開)。つまり、南無妙法蓮華経に仏様の教えのことごとくが収まっているのであるから、南無妙法蓮華経と唱えることが肝要である」と教えて下さる御文です。本尊抄の「我等此の五字を受持すれば自然に彼の因果の功徳を譲り与へたまふ」を思い合わせるべきです。

 お寺の梅も蕾がふくらんでまいりました。春はもうすぐです。励みましょう。

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日蓮正宗向陽山佛乗寺