日蓮大聖人御書拝読と御法話

平成27年3月29日 勉強会

《教相》と《観心》、《最高の経文》

一、《教相》と《観心》

宗教には「理論」と「実践」の両面がなければなりません。これを、鳥の両翼、車の両輪にたとえることができます。翼も車輪も一方が欠けるようなことがあれば、飛ぶことも前に進むこともできません。

宗教も同じであり、この両面をそなえてこそ真の宗教であり、私たちが信ずるにたりるものとなります。この「理論」的な面を「教相判釈」、略して「教相」といい、「実践」の面を「観心修行」、略して「観心」といいます。


○教相判釈(きょうそうはんじゃく)

天台大師の法華玄義には「教とは聖人下に被らしむる言なり。相とは同異を分別するなり」とあります。教相の教は言うまもなく仏の教え教法のこと。相はくわしく見ること。また、かたち・ありさまのことです。

判釈の判は、わける・わかつ・区別する・きめる・定める等の意。釈は、解きほぐす・説き明かす等の意。

つまり、「教相判釈」とは、釈尊が説かれた一代の教えを、順序・形式・内容等によって分類し、優劣を明らかにして釈尊の本意を明らかにすることをいいます。


○観心修行(かんじんしゅぎょう)

観心について『観心本尊抄』には、
「観心とは我が己心を観じて十法界を見る、是を観心と云ふなり」(御書六四六頁)
と説かれております。「己心」とは自らの心で、「観ずる」とは、注意深くこまかに見ることです。「十法界」は十界と同義で、地獄界から仏界までのことですから、「観心修行」とは、私たちの心・生命の中に仏界が具わっていることを知るために修行をすることで、中でも仏の覚りを得るための実践、すなわち修行をさします。

『観心本尊抄』は、仏に成るための修行の対象である、本尊を明らかにされた御書、という意味です。

天台大師は『法華玄義』で
「天台玄義の十に云はく「若し余経を弘むるには教相を明かさざれども義に於て傷(いた)むること無し。若し法華を弘むるには教相を明かさざれば文義欠くること有り。但、聖意幽隠(せいいゆうおん)にして教法弥難し。前代の諸師、或は名匠に祖承し、或は思ひ袖衿(しゅうきん)より出づ。阡陌縦横(せんびゃくじゅうおう)なりと雖も、孰(いず)れか是(ぜ)なることを知ること莫し。然るに義双び立たず、理両つながら存する無し。若し深く所以有りて復修多羅(またしゅたら)と合する者は録して之を用ひ、文無く義無きは信受すべからず」と。(『一代五時継図』 御書一六二七頁)

○語句の意

・ 袖衿=胸の内・心の中のこと。貴人の御心の意。
・ 阡陌縦横=阡は南北、陌は東西に通じる道。ここでは、仏説を種々に解釈している、との意。
・ 修多羅=経文のこと。


〔現代語訳〕

天台の三大部である玄義の巻十に、「若し法華経以外の経を弘めるにあたっては、教相を明かすことがなくとも、弘める経の義を損なうことはありません。しかし、法華経を弘めるにあたっては、教相を明らかにしなければその意義を欠くものとなります。仏の御心は奥深くはかりしれないもので、その教えはいよいよ難いものです。そこで前代の諸師は、あるいは名匠について教えを受け伝えたり、あるいは胸の中の思いを説きました。彼らは、種々に説いておりますが、いずれが「是(正しいもの)」であるかを知ることはできません。経文の意義とその解釈が一致しておりませんから、真理とされるものであっても、正しいとは限らないのです。
もし、これらの中に深い謂われがあり、経文と合致するものは、書き記してこれを用い、文も無く、義もないものは信じたり受持してはなりません。


『開目抄』(御書・六五一頁)
「教の浅深をしらざれば理の浅深弁ふものなし」

〔現代語訳〕

仏の説かれた教にも、浅い教えと深い教えがあることを知らなければ、教えの真理の浅い深いを見きわめることができない。


二、《最高の経文》

『方便品第二』 (法華経 九三頁)
世尊法久後 要当説真実 (せそんほうくご ようとうせつしんじつ

世尊は法久しうして後 要ず当に真実を説きたもうべし

〔現代語訳〕

仏は長い間法を説かれた後に、必ず真実の教えを説かれるのです


『見宝塔品第十一』 (法華経 三五四頁)
我為仏道 於無量土 従始至今 広説諸経 而於其中 此経第一 若有能持 則持仏身 諸善男子 於我滅後 誰能受持 読誦此経 今於仏前 自説誓言 此経難持 若暫持者 我即歓喜 諸仏亦然 如是之人 諸仏所歎

我仏道の為に 無量の土に於て 始より今に至るまで 広く諸経を説く 而も其の中に於て 此の経第一なり 若し能く持つこと有るは 則ち仏身を持つなり 諸の善男子 我が滅後に於て 誰か能く 此の経を受持し読誦せん 今仏前に於て 自ら誓言を説け 此の経は持ち難し 若し暫くも持つ者は 我即ち歓喜す 諸仏も亦然なり 是の如きの人は 諸仏の歎めたもう所なり

〔現代語訳〕

私は衆生が仏道に入るために、無量の国土において、諸々の教えを広く説いてまいりました。その中でも、この法華経が第一の教えです。若し、法華経を能く持つならば、それは仏身を持つことになります。多くの善き心の人たちよ、私が入滅した後に、誰が此の経を受持して読誦するでしょうか。今この(多宝)仏の前で自らの誓いの言葉を述べなさい。この法華経は持つことが難しい教えです。もし少しの間でも持つものがおれば、私は即座に歓喜します。諸々の仏もまた同じです。このような人は諸々の仏より讃嘆されます。


○語句の意味

・見宝塔品=大地から虚空に涌出した七宝で飾られた塔を人々が仰ぎ見ることから『見宝塔品』といわれる。ここから虚空会の儀式といわれる説法が始まる。宝塔の中から多宝如来が、
・「善哉善哉、釈迦牟尼世尊、能く平等大慧・教菩薩法・仏所護念の妙法華経を以て、大衆の為に説きたもう。是の如し、是の如し。釈迦牟尼世尊、所説の如きは、皆是れ真実なり」(法華経・三三六頁)
と大音声を発して釈尊の説法が正しいことを証明します。さらに釈尊が宝塔に入り、多宝如来と並んで座り、
「誰か能く此の娑婆国土に於て、広く妙法華経を説かん。今正しく是れ時なり。如来久しからずして、当に涅槃に入るべし」(法華経・三四七頁)
と釈尊滅後の流通(折伏)を勧められます。


○語句の意味

・此経第一=此経はいうまでもなく「法華経」のことです。釈尊自らが、法華経が第一である、最高の教えである、と説かれていることを知らねばなりません。
・我即ち歓喜す=我とは釈尊のことです。釈尊の滅後に、持つことが難しい法華経を持つことを、仏様が非常に悦んで下さる、というお経文です。


『安楽行品』(法華経・三九九頁)
文殊師利。此法華経。是諸如来。第一之説。於諸説中。最為甚深。末後賜与。如彼強力之王。久護明珠。今乃与之。文殊師利。此法華経。諸仏如来。秘密之蔵。於諸経中。最在其上。長夜守護。不妄宣説。始於今日。乃与汝等。而敷演之。

文殊師利よ、此の法華経は、是れ諸の如来の第一の説、諸説の中に於て最も為れ甚深なり。末後に賜与すること、彼の強力の王の、久しく護れる明珠を、今乃ち之を与うるが如し。文殊師利、此の法華経は、諸仏如来の秘密の蔵なり。諸経の中に於て、最も其の上に在り、長夜に守護して、妄りに宣説せざるを、始めて今日に於て、乃ち汝等が与に、而も之を敷演す。

〔現代語訳〕

文殊師利よ、この法華経は多くの如来が多くの教説を説く中でも第一のものであり、非常に奥深く深遠な教えです。この教えを最後に説き贈り与えるのは、強大な力を持つ国王が、久しい間大切に護っていた素晴らしい宝を、時が至って(子)に与えるようなものです。文殊師利よ、この法華経は、諸仏如来が胸の奥底に深く秘め隠し、これまで誰にも説き明かさなかった教えです。この法華経は諸経の中にあって最高の位にある教えです。長い間護ってきて妄に説くことがなかった教えを、始めて今日貴方たちに広く演べるのです。


○語句の意味

・文殊師利=迹化の菩薩の上首。三人寄れば文殊の知恵、という言葉があるように、仏教の智慧を体現する菩薩。 御本尊様にその名が認められているのは、迹化の菩薩の代表としての立場からと拝される。
・彼の強力の王=古代インドの理想の大王・転輪聖王を指す。天からの輪宝を得て、全世界を治めるとされる。武力を用いないで正義で全世界を平定すると説かれる。
・久しく護れる明珠=髻中明珠の譬のこと。転輪聖王が髪の中に秘していた最高の宝珠を勲功の臣下に与えるとされる。この髪を爾前権教に、隠されていた明珠を法華経に、取り出すことを権教を開いて実教を明らかにすることに、また宝を与えることを実教を顕にする事である、と天台は釈している。

日蓮大聖人は
「明珠とは南無妙法蓮華経なり」(御書・一八一二頁)
と文底の立場を御教示である。


○語句の意味

・秘密の蔵=蔵はたくわえる・しまう・おさめる等の意。ここでは、仏が胸の奥底に長い間秘め隠して人々に説き示すことがなかったことをいう。法華経が、重要で尊い教えであることを表現する言葉。


『開目抄』(御書・五二六頁)
仏教に入りて五十余年の経々、八万法蔵を勘へたるに、小乗あり大乗あり、権経あり実経あり、顕教・密経、軟語・麁語、実語・妄語、正見・邪見等の種々の差別あり。但し法華経計り教主釈尊の正言なり。三世十方の諸仏の真言なり。大覚世尊は四十余年の年限を指して、其の内の恒河の諸経を未顕真実、八年の法華は要当説真実と定め給ひしかば、多宝仏大地より出現して皆是真実と証明す。分身の諸仏来集して長舌を梵天に付く。此の言赫々たり、明々たり。晴天の日よりもあきらかに、夜中の満月のごとし。仰いで信ぜよ、伏して懐ふべし。

〔現代語訳〕

仏が五十余年にわたって説かれた八万四千といわれる多くの経文について考えてみますと、小さな教えも大きな教えもあります。また仮りの教えも真実を説かれた教えもあります。また顕かに説かれた教えと秘密にされた教えもあります。さらに、柔らかく説かれたものや荒々しく説かれたものもあります。さらにまた、真実を説かれたものと虚妄を説かれたものがあります。あるいは、正見といって物事を正しく見ることを説かれたり、邪見といって因果の道理にそぐわない教えも説かれております。それらの中で、法華経のみが教主釈尊の本心を明かされた教えであり、三世の諸仏の真実の教えなのです。大きな覚りを得られた釈尊は、法華経を説かれる以前の四十二年の教えを指して、「未顕真実」とされ、八年間に説かれた法華経を指して、「要当説真実」と決定されました。この釈尊の言葉に、大地より出現した多宝如来は「釈尊が法華経で説くことは皆これ真実である」と証明されております。また十方の世界から来集した分身の諸仏方も、舌を梵天まで伸ばして法華経が真実の教えであることを誉め讃えました。これらの言葉は光り輝き、疑わしいことはどこにもありません。晴れわたった大空に光り輝く太陽よりも明らかであり、闇夜を煌々と照らし出す満月のようなものです。この教えを仰いで信じなさい。伏して思うべきです。


○語句の意味

・八万法蔵=釈尊一代の教説のこと。八万は多数の意。
・多宝=多宝如来のこと。法華経が説かれたときに出現して、釈尊の法華経の説法が真実であることを証明した仏。


『報恩抄』(御書・一〇〇〇頁)
世間をみるに各々我も我もといへども国主は但一人なり、二人となれば国土おだやかならず。家に二の主あれば其の家必ずやぶる。一切経も又かくのごとくや有るらん。何れの経にてもをはせ一経こそ一切経の大王にてはをはすらめ。

〔現代語訳〕

世間でも、それぞれが「私が国王です、私が国王です」と言っても、国主はただ一人しかおりません。国王が二人おれば、その国は穏やかではなくなります。一つの家庭に二人の主がおれば、その家庭は必ず破滅します。一切経もそれと同じです。どのようなお経が説かれていようとも、一経のみが大王のお経です。


『上野殿母尼御前御返事』(御書・一五〇九頁)
一切経の心は愚癡の女人なんどの唯一時に心うべきやうは、たとへば大塔をくみ候には先づ材木より外に足代と申して多くの小木を集め、一丈二丈計りゆひあげ候なり。かくゆひあげて、材木を以て大塔をくみあげ候ひつれば、返って足代を切り捨て大塔は候なり。足代と申すは一切経なり、大塔と申すは法華経なり。
仏一切経を説き給ひし事は法華経を説かせ給はんための足代なり。正直捨方便と申して、法華経を信ずる人は阿弥陀経等の南無阿弥陀仏、大日経等の真言宗、阿含経等の律宗の二百五十戒等を切りすて抛ちてのち法華経をば持ち候なり。
大塔をくまんがためには足代大切なれども、大塔をくみあげぬれば足代を切り落とすなり。正直捨方便と申す文の心是なり。足代より塔は出来して候へども、塔を捨てゝ足代ををがむ人なし。今の世の道心者等、一向に南無阿弥陀仏と唱へて一生をすごし、南無妙法蓮華経と一返も唱へぬ人々は大塔をすてゝ足代ををがむ人々なり。世間にかしこくはかなき人と申すは是なり。

〔現代語訳}

末法の愚癡の女性が、一切経を学ぶときの心構えについて申し上げます。例えば、大きな塔を組み上げるためには、塔を組み上げる前に足代といって、小さな木をたくさん集め、一丈あるいは二丈、またはその塔の高さに合わせた足場を作ります。その上で、材木を組み合わせて大きな塔を建てます。塔が建ち上がったならば、足場は取り払い大塔だけを残します。この足場が一切経にあたり、大塔が法華経にあたります。
仏が一切経を説かれたのは、法華経の足代にするためです。素直な心で方便の教えから離れる、という仏の教えのままに法華経を信ずる人は、阿弥陀仏経等で説かれる南無阿彌陀佛、大日経等で説かれる真言宗、阿含経等で説かれる律宗の二百五十戒等の教えを切り捨て、執着を離れた後に法華経を持つことです。
大塔を建てるためには足代は大切なものですが、大塔が建ち上がった後には足代は切り落とします。法華経に「正直舎方便」と説かれるのはこのことを教えて下さるものです。足代が先にあり、その後に塔が建ち上がりましたが、塔を捨てて足代を拝む人はどこにもおりません。今の世で成仏を願って仏道修行に励む人々は、ひたすら南無阿弥陀仏と唱へて一生を過ごし、一度も南無妙法蓮華経と唱えない人々は、大塔を捨てて足代を拝む人々です。真面目に、一所懸命に信仰に励み貴く見える人も、仏の教えの筋道に暗いゆえに、折角の修行も無駄なものとなっているるのです。結局思い通りにならずに空しく過ごすようになるのです。


○〔語句の意味〕

・一丈=約三メートル。
・足代=足場のこと。
・正直舎方便=法華経方便品、「正直に方便を捨て但無上道を説く」とあり、これまで説いてきた阿弥陀経や大日経等の爾前権教の教えを捨て、最高の教えである法華経を説き明かします、と述べられた文。

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